「テストで電卓使ってもいいよ!」 日本と米国の数学、考え方の違いとは?
皆さんの中には数学が「好きで得意!」という人も、「嫌いで苦手!」という人もいると思う。後者の多くは数学が難しいと感じているはずだ。
日本の義務教育は9年間。年々学ぶごとに抽象度を増していき、中3にもなると「平方根」「2次方程式」「図形の証明」……などなどの壁が待ち受ける。早い人はここで数学嫌いになってしまうだろう。
高校へ進学しても「指数関数・対数関数」「三角関数」「微分・積分」……と、数学嫌いの心をへし折る難関が続く。
日本の数学教育ではこれだけ多くのことを学ぶわけだが、実はこれは国際的に見ると結構難しい部類に入るのだ。
今回は、米国の大学入試を比較対象に、数学の内容の違いを見てみる。
米国の入試ってどんなもの?
日本の大学入試、特に推薦やAOでない一般入試は、
- センター試験(全国共通)
- 大学ごとの個別試験
のいずれか、または両方の成績から判定されることが多い。
米国の場合は大きく違っていて、一般には試験は「SAT」という全米共通の標準テストのみ。
その他、高校の成績や小論文などを提出し、それらを総合して判定される。
SAT(標準テスト)てなに?
従って、大学に進む米国の高校生は、最低限SATの内容をマスターしているはずだ。
SATには、読み書きと数学から判定する論理テスト(SAT I)と、科目別に実施される科目別テスト(SAT II)の2種類があり、一般に用いられるのはSAT Iのほうだ。
SATを実施している機関から、米国の受験生向けにガイドが公開されているのでここで読んでみよう。
SATの数学が日本の試験と大きく異なる点は、SATの場合電卓の持ち込みができること。「電卓を使わないで解く問題」と「電卓で解く問題」が用意されており、「電卓で解く問題」にはグラフが表示できる程度の高機能な電卓が持ち込める(四則演算しかできない電卓は「推奨しない」とまで書いてある)。
つまり、単純な計算力よりも答えを出すための思考力を重視していることが分かる。
難しそうに見えるけど……
受験生向けのガイドには例題も載っている。解いてみよう。
まず表紙を見ると、Reference(参考)が親切で驚く。
面積や体積の公式、さらには「三角形の内角の和は180度ですよ」とまで書いてある。これらを覚えているかではなく、これらがちゃんと使えれば十分だという認識なのだろう。
まず1問目。Estimated Difficulty(予想難易度)はEasy(簡単)と書いてある。
「直線lが下のxy座標に描かれています。直線lを上に5、右に7だけ動かしたとき、新しい直線の傾きはいくつでしょう?」
直線を動かしているのでややこしそう……と思いきや、求められているのは傾き。直線の傾きは平行移動では変化しないので、図から傾きを求めればよく、正解はBだ。
次は「電卓で解く問題」から、予想難易度Medium(普通)の5問目を見てみる。今度は図形の問題だ。
「上の図で、ΔABC∽ΔEDC(∽は相似を表す記号)です。次のうち必ず正しいのはどれでしょう?」
「||」は2本の直線が並行であることを表す記号で、日本だと「//」で習う。2直線が垂直であることを示す「⊥」の記号は日本と同じだ。
相似な2つの三角形から∠BACと∠DECは等しい。この2つは錯角の関係にあるので、直線ABとDEが平行であることが分かる。正解はCだ。これも日本では中学校の数学で習う範囲だ。「電卓で解く問題」にも、電卓がなくても解けそうな問題は出てくるようだ。
最後は「電卓を使わない問題」の5問目。予想難易度Hard(難しい)はいかほどか?
sin(π/5)と等しい三角関数を選ぶ問題。これはさすがに少し難しい……。sin(π/5)もcos(π/5)も正の数なので、AとBは等しくなるわけがない。cos(θ)=sin(θ+π/2)で求められるので、Cのcos(3π/10)はsin(4π/5)に等しい。sin(θ)=sin(π-θ)なので、sin(4π/5)=sin(π/5)。よってCが正解だ。
例題を3問見たが、他の例題を見ても超難問は見当たらない。センター試験の数学よりは簡単そうだ。
特に、日本では高校で学ぶ「微分・積分」は一切出題されていない。米国は州ごとに教育制度が異なるので一概にはいえないが、高校レベルでは数学の基本をしっかり覚え、今後の進路で数学が必要な人のみ、より高度な数学を学ぶというシステムなのだろう。
入学後がまた大変だ
ここまで見てきたように、米国の標準試験は、数学に限ってみれば日本よりかなり簡単に思える。
なら日本人ならハーバード大学でも余裕で入れるの? というともちろんそんなことはない。合否の判定には高校での成績や課外活動が重視され、勉強だけできても合格できないらしい。
さらに、いざ合格して入学できても、待っているのは日本とは比べものにならない厳しい単位認定……。卒業に至る難易度は、日米で大きな差があるといわれている。
これらは教育制度の歩み方から生まれた違いであり、どちらが良い悪いと一概に決められるものではないだろう。今、日本ではセンター試験に代わる「学力評価テスト」の形式が議論されている。日本のスタイルをどれだけ残し、海外の手法をどう取り入れるのか。これこそまさに、答えを出すのが難しい問題だ。
一理あると思います:
再生核研究所声明349(2017.1.24) 衰退する日本の大学 ― 国を憂えて
大学の現状を憂えてその印象を率直に簡潔に表現してみよう。
まず、大学共通テストの弊害を述べてきたが、それは世の多くの人の危惧のように、日本の教育を歪めてきたと考えられる。十分に触れてきたが、画一的なパターン化した、言わば偏差値による個性のない、大学の出現である ― 哲学的精神の欠落、人物たる教育の欠落である。大義がなく、道もない。真智への愛もない:
再生核研究所声明329(2016.10.31) 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
再生核研究所声明283 (2016.2.8) 受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
再生核研究所声明152(2014.3.21) 研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
次に、いわゆる大学の法人化による相当な混乱である。迂闊にも大学法人化の弊害、悪い影響について述べて来ていないことが分かった。その後に続いて起きてきたのが、定常的な大学予算の減少、教員待遇の悪化、特に大学の事務体制の弱体化である。教員には 研究費、処遇の悪化に反して、教員評価、研究業績など大きな圧力が掛かり、さらに、社会貢献やいろいろな用務の増大で教育や研究どころではない状況が多くの大学に見られる。特に、いわゆる、研究初期の大事な時期、博士論文の性急さや最初の就職先の雇用の厳しさ、任期制付きなど処遇が不安定で、研究体制の弱体化は相当に酷いと言える。創造性の厳しさ、困難さを考慮すれば、人生設計でも生活面でも十分な余裕のある環境でなければ良い研究活動ができないのは当然である。社会の厳しさが大学に皺寄せられ、特に若い世代の処遇、環境を悪化させている。事務組織の弱体化は 大学の雰囲気そのものを悪くさせている。臨時的な雇用やパートなどで賄えば、その不安定な状況は 香り高い大学の雰囲気を損ねるのは当然である。息の永い真理の追究、学芸、芸術にはそれなりの良い環境が求められるのは当然である。
要するに国家はどのように考えれば良いか。文教予算を大幅に増加させ、大学の教職員の待遇を良くし、人員を増加させ、設備を良くするように国策として進めるべきである。― 中国は国策として、数学の研究と教育を重視し、それゆえ、数学の分野での躍進が近年目覚しい。中国が積極的に学生を広い世界に派遣しているのは顕著な事実である。他方、日本では、そのような力を失っているように見える。日本の財政状況が相当に厳しいのは勿論承知している。しかしながら、他方、海外援助を相当派手に(バラマキのような状況とも言える)やっており、さらに、軍事費を大幅に増加させている。海外援助や軍備拡大と大学のどちらを重要視するかの観点で考えるべきである。大学は人を育て、文化を創造、発展させていく原動力、拠点ではないだろうか。民族の、国家の命運を掛けて充実させて行くべきではないだろうか。兵器など軍事援助や治安の援助、経済援助ではなく、文化面での国際貢献を志向したい。香り高い文化で 美しい日本国を侵略する、誹謗する国など 世界に存在しないような、世界がそのようなことを許さないような 日本国の在り様を目指したい。今尚、国家の安全を深く、広く思考し、対策を総合的に講ずるのは勿論大事である。さらに、優秀な研究者、思想家、芸術家を育成し、世界に展開し、世界史を進化させるような大物人物をどんどん輩出させたいものである。
以 上
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2)あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
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