2016年12月9日金曜日

進化論から考える、社会福祉の危機(フロンティアの喪失)

進化論から考える、社会福祉の危機(フロンティアの喪失)

同種を攻撃するのは、生物の本能である

残念なので、あまり信じたくないことがあります。それは、戦争に見られるような、同種の個体を攻撃するのは、生物の本能だということです。もちろん、いつでも、こうした攻撃が起こるということではありません。特定の条件がそろったときに、それは本能的に起こってしまうという意味です。
人間以外の動物は、人間のように、同種の個体を殺すようなことはないと言われることがあります。しかしこれは、過去において信じられてきた迷信です。現在では、人間以外の動物であっても、同種を攻撃し、ときに殺すということがわかっています。
同種間における生物の争いは、生存と生殖という、生物の根源に関わるリソースが不足するときに起こります。より具体的には、食料とメスというリソースが足りないとき、それをめぐる争いがオスにより起こされます(当然、例外もあります)。
人間の世界でも、殺人事件の約8割は男性(オス)が起こすことがわかっています。残りの約2割も、女性が男性にそそのかされて、というものが多いと考えられてもいます。この背景としては、攻撃性(正確には社会的地位の欲求)と男性ホルモン(テストステロン)の関連が指摘されています。
ですから、私たち人間が注意しなければならないのは、この社会に、各個人の生存と生殖が脅かされるような状態を生み出さないということです。これが、景気が悪化すると治安が悪くなり、戦争のリスクも高まってしまうという事実の背景でもあります。

人間とその他の生物が同種を攻撃するときの違い

生存と生殖が脅かされる状況では、通常は、同種の中でも、最も弱いものが攻撃のターゲットになります。たとえば、ネコによる子殺しは、オスが、メスが育てている子猫を殺すというパターンを取ります。イルカも、より小型で弱いものがいじめのターゲットになります。
人間でも同じです。1996年に、公共広告機構(AC)が「いじめ、カッコ悪い」というキャンペーンを張りました。これは、いじめは、女性にモテたいと願っている男性が、自分よりも弱いライバルを減らしておきたいという本能がいじめの背景であるという仮説に基づいているのでしょう。「カッコ悪い」という言葉が刺さるのは主に男性であり、ここをターゲットとしていることが明白だからです。
生物にとっては、同種から「弱い」「カッコ悪い」と思われないことは、非常に大事なことなのです。逆に、大人のオスから見て、自分よりも弱いことが明白な女性や子供の場合は、なんとか、大人のオスからの攻撃を避けることが死活問題にもなるでしょう。
ここで、人間とその他の生物において決定的に違うのは、弱くない、同種のオス同士の戦いにおいて、殺しあうまで争いをするのは、ほぼ人間だけという事実です。それは、他の動物の場合は、強いオス同士が真剣に戦うと、お互いがとても無傷ではいられないからです。
しかし人間の場合は、他の生物とは異なり、道具としての武器を選択して使える点が厄介なのです。人間の場合、相手よりも強力な武器を使って、さらに不意打ちをすれば、自分は無傷でも、同種の強いオスを殺害することができてしまいます。
人間以外の動物の場合も、オスの多くが武器を持っています。ただし、それらはカブトムシの角のように、体と一体化されているものであり、後から、より強力な武器に取り替えることはできません。ですから、人間以外の動物では、大人のオス同士の戦いは、簡単には勝負がつかない、ギリギリのものになります。ギリギリの勝負ですから、相手を殺そうとすれば、自分も、とても無傷ではいられないのです(攻撃力の対称性による)。
しかし人間の場合は、強力な武器を選択し、不意打ちまですれば、子供でも大人の男性を殺すことが可能です。まだ小さい子供が大人のオスを殺害できるのは、まず、人間だけでしょう。他の動物とは異なり、人間は武器を選択することで、相手との勝負をギリギリのものではなく、容易なものにすり替えてしまえるのです(武器による攻撃力の非対称性を生み出せる)。

軍拡競争をするのは、人間だけではない

植物は、水と太陽光によって、葉で光合成をすることで、生存に必要なエネルギーを得るという仕組みをとっている生物です。ですから、植物にとって、水と太陽光は、動物における食料に相当する、生存のために欠かせないリソースです。
神社などで 大木を見て、スピリチュアルな気分になることもあるでしょう。しかし、植物にとって、ああした太い幹というのは、本来は邪魔なものです。幹によって背が高くなればなるほど、重力に逆らって、地中から水分などを引き上げるためのコストも大きくなってしまうからです。
では、大木はどうして、太い幹を生み出すために貴重なエネルギーを消費しているのでしょう。これは、ライバルとのリソースをめぐる争いに勝つためです。植物は、ライバルよりも背が高くなれば、太陽光を独占できるのです。これは、いわば、植物の軍拡競争です。
巨大な角を持ったオスのヘラジカも同じです。あんな大きな角は、普段の生活のためには、邪魔以外の何者でもありません。しかし、メスをめぐるライバルとの争いに勝つためには、どうしても必要なものなのでしょう。これも、軍拡競争に似ています。また、ライバルと比べて小さな角しかないと、同種から弱い存在として認識されてしまい、結果として多くの攻撃を呼び込んでしまうこともあるでしょう。
人間社会における受験勉強もまた、ライバルに少しでも差をつけることが本質の軍拡競争だと考えられます。自らを強い存在として誇示するために、必要以上の知識を身につけることで、ヘラジカの角のごとき学歴を積み上げていると考えると面白いです。それがあれば、ライバルからの直接的な攻撃を呼び込んでしまう可能性も減らせると考えられます。
核開発などに代表される世界の軍拡競争は、本質的には無駄なものです。しかしそれは、人間がバカだから続けている社会的なものではなくて、生物の本能に根ざしている避けがたい特徴とも考えられるのです。変に軍事力のバランスを崩してしまうと、ライバルからの攻撃を呼び込んでしまうという点にも、もっと配慮が必要でしょう。

トランプ的な政治が戦争に行き着くシナリオ

トランプは、そもそも大木です。彼は富裕層に生まれ、現在も莫大な資金を持っています。そのトランプが、大木の陰になっている下草とも言える民衆と約束したのは、移民を国外退去とすることで、下草の総数を減らすというものです。
下草の総数が減れば、運良く国内に残された下草は、空いたスペースに葉を伸ばすことで、少ないながらも太陽光が得られるでしょう。葉を広げるフロンティア(新天地)があれば、自らの生存と生殖は確保しやすくなるのです。
本当は、技術革新などで、新たに多くの雇用が生まれるといった、より平和的なフロンティアの拡張があれば、こんな問題は起こりません。すべての人に、生存と生殖のためのリソースが行き渡れば、争いは(ほぼ)おこならないのが生物という存在だからです。
しかし、今の技術革新である人工知能の登場は、むしろ雇用を奪い、雇用のためのフロンティアを縮小させるという特徴があります。ですから、トランプが行おうとしている、一部の下草を駆除することによるフロンティアの拡張は、一時的なものにすぎません。
このフロンティアが満席になると、歴史的には、人間のとる道は2つに1つしかありません。下草が、大木に対して攻撃をしかけるという革命がその1つです。もう1つは、下草からの攻撃を恐れる大木が、別の国にあるリソースを、自分たちのフロンティアとして位置付ける戦争です。
本当は、第3の道もあります。それは、大木が、自らの幹を低くして、上空で葉を広げるエリアも遠慮するというものです。具体的には、累進課税によって二極化を解消させ、さらに、人工知能の台頭に備えてベーシックインカムを導入することなどが考えられます。

少子化社会では、社会福祉が危機になる

人間に限らず、生物というのは、生存と生殖のリソースにあふれたフロンティアがあると、子供をたくさん作り、個体数を劇的に増やすことがわかっています。みんなに、十分なリソースが行き渡るような社会では、子供は増えるのです。
逆に、フロンティアがないとき、子供の数が抑制されます。生存のための食料をめぐって、自分のライバルになる個体を、わざわざ増やすようなことには、遺伝子レベルでのブレーキがかかるということです。
つまり、少子化社会というのは、そこに、生存と生殖のためのリソースが足りていないことの証明なのです。リソースが足りないとき、弱者が攻撃のターゲットになるのは、人間に限った話ではなくて、生物の本能です。そして少子化とは、この社会が、まだ生まれていない子供を殺しているようなものです。
今の日本において、行きすぎた自己責任論がまかり通り、国が貧困を救う必要はないという意見が世界でもっとも多いのは、要するにリソースがないからです。この流れの中では、社会福祉のレベルを 維持することは困難になり、悪化の一途をたどることになるでしょう。
日本に、トランプのような政治家が現れるのも、時間の問題になってきています。その場合も、まずは社会的弱者からリソースがはがされ、それが別の下草に回されることからはじまります。そして、その次は、発達した武器を使った戦争です。少子化も、極限まで行くでしょう。

本当の解決策はどこにあるのか?

本当の意味で求められているのは、人類にあまねく生存と生殖のリソースを与えていけるような新しいフロンティアです。近代の社会では、自動車、半導体から、インターネットというフロンティアの登場によって、雇用が生まれ、このリソースが確保されてきました。
しかし今、インターネットの世界からも、フロンティアが失われてきています。過去のように、新参者が大企業になっていくようなチャンスは、もうありません。新たな雇用も、それほど生まれないでしょう。
人類には、自動車、半導体、インターネットに変わる、次のフロンティアが必要なのです。ベーシックインカムも、フロンティアがなければ、それを支えるだけの税収が期待できません。
シナリオとして期待したいのは、人類から雇用を奪う人工知能ではなくて、医療と宇宙開発といった新しいフロンティアです。こうした新しいフロンティアが、その莫大な投資に見合うリだけのターンが得られる段階に至れば、人類は次のステージに移行できるでしょう。
しかし、本来は、フロンティアを広げるための手段であるはずの人工知能が、逆に、人類から新しいフロンティアを奪うという方向に寄与してしまうとき、私たちは、滅亡するのかもしれません。

草食動物と肉食動物(ほぼ余談です)

ヘラジカのような草食動物が、同種の屈強なオスと争うのは、生殖(メス)だけです。生殖は争っても、草食動物が、生存のための食料を争うことはありません(もちろん例外もあります)。
草食動物の場合、その生存を決める食料は植物だけです。植物はしかし、それを争って勝った結果として独占できるエネルギー量が、争いに使われるエネルギーとリスクに見合わない(ROIがマイナスになる)のです。
また、ヘラジカのように極端に大きな角を持つ動物は、その多くが、繁殖期を終えると角を落とします。これは、メスというリソースをめぐる争いが終われば、ライバルを蹴落とすための武器は、完全に無駄なものになるという証明です。
これに対して、肉食動物の場合は、餌場をめぐる争いが起こります。肉食動物の生存を決める食料(特に動物性たんぱく質)は、エネルギー量が大きく、争ってでも手に入れるだけの価値があるからです。
その点、雑食であり、かつ特定の繁殖期を持たない人間の場合は、生存(動物性たんぱく質)と生殖(メス)を争う必要があるため、永続的に備わる角としての武器が必要だったはずです。それが知性という方向での軍拡競争(そして受験戦争)につながったのかもしれません。
「学歴に意味があるか」という問いは、ヘラジカに対して「角に意味があるか」と問うことと同じです。生存と生殖のためのリソースが潤沢にある世界では、どちらも意味がありません。しかし、リソースが不足するときは、残念ながら意味を持ってしまいます。
くだらない軍拡競争に貴重なリソースを使う必要のない、平和な世界を実現するには、潤沢なリソースが必要なのです。人類が、新しいフロンティアを開拓するために手を取り合い、人類全体のリソースを増やすような活動に向かわない限り、平和は得られないでしょう。
※参考文献
・アザー・ガット, 『文明と戦争(上)』, 中央公論新社(2012年)
・法務省総合研究所, 『法務総合研究所研究部報告48/第3節』, 2012年
・萩 隆之介, 『統計数字で見る経済と治安の相関性』, グローバル経済(2016年11月号)
・団 士郎, 『家族理解入門』, 中央法規(2015年)http://kaigolab.com/column/18444

非常に為になります:
再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点

ここでは、反省の意味を込めて、あるいは教訓として 人類の愚かさについて、ふれたい。 この辺は間もなく克服されて、人類は少し、進化できるのではないだろうか。

1)死の問題、死を恐れる気持ち: これはきちんと死を捉えれば、死は母なる古里に帰る様なもの、また、生まれる前のようであるから、本来、一切の感覚の離れた存在であり、恐れる存在ではなく、人生で、別次元の問題であり、生きるのも良く、終末も良い が在るべき在り様である。これで、人間は相当に自由になり、人生は明るいものになるだろう。 2000年以上前のソクラテスの弁明には 既にそのような観点が述べられていることに注目したい(再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道; 再生核研究所声明47:  肯定死; 再生核研究所声明63: 解脱、神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 再生核研究所声明68: 生物の本質 ― 生きること、死ぬること; 再生核研究所声明99: 死の肯定、在りよう、儀式、将来への提案; 再生核研究所声明118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、と言える面もある ― ; 再生核研究所声明175:人間の擁く 大きな虚像)。
2)神、宗教の問題: 神も、宗教も本来、自分の心の有り様にあるのに、いろいろ歪められた、教義などにこだわり、多くは虚像を求めたり、虚像に頼ったりしている愚かさ(再生核研究所声明175: 人間の擁く 大きな虚像)。その辺の理解には、さらに多少の時間が掛かるのではないだろうか。― 愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― しかしながら、神や宗教が祭りや文化、習慣に強い影響を与えているので、そのような観点からも、古い概念も尊重、大事にして行きたい。
3)争いと競争: 世には、スポーツ界などのように、競争など古い生物的な本能に基づくものは確かにあるが、世界史に見られる多くの戦争や、紛争、争いの多くは、あまりにも馬鹿げていて、和や共存,共生で 賢明な有り様が多く、このまま世界史を閉じれば、世界史は 人類の恥の歴史と見える程ではないだろうか。しかしながら、賢明な有り様に目覚めるのは 時間の問題ではないだろうか。これは人間関係についても言える(再生核研究所声明53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に; 再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)。
4)民主主義: 多様な意見を出して、いろいろな視点から、在るべき姿を考えるのは、物事を考える基本であるが、多数決での決定は、根本的な間違いである。進化した数学界などでは考えられないことである。数学界では一人の意見でも議論して、討論して、検証して、相当に少数でも、正しいと判断されれば、それは受け入れられるだろう。 政治の有り様に どんどん科学的な決定方法が導入され、いわゆる多数決による政治的な決定は どんどん小さくなって行くだろう。多数の決定は 本末転倒の衆愚政治や 無責任政治を蔓延させている(再生核研究所声明33: 民主主義と衆愚政治)。例えば、安倍政権は経済政策の是非を問う、解散、総選挙だと言っているが、経済政策の有り様など 国民には判断できず、真面目にそう受け止めるならば 投票はでたらめになってしまうだろう。これは、何か大事なことを隠しているとしか理解できないのではないだろうか。
5)天動説が地動説に変わる時の愚かさ: 新しい学説、地動説に対して、大きな反対が出たのは、世界史の恥ではないだろうか。 真面目にきちんと考えれば、簡単に受け入れられる事実ではなかったろうか(再生核研究所声明105: 人間の愚かさ、弱点について)。
6)非ユークリッド幾何学の出現に対する拒否反応: これは 5)と同じように モデルなど真面目に考えれば、ほとんど明らかな数学であるにもかかわらず、根強い反対に会った、苦い歴史から、人間の思い込みに対する愚かさに反省、教訓を学びたい。
7)ゼロ除算の理解: ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで,  世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。
数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できたと言える。
ゼロ除算100/0=0,0/0=0 については 5),6)と同じような過ちをおかしていると考える。何時、5)、6)のように ゼロ除算は 世界の常識になるだろうか:
数学基礎学力研究会のホームページ:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

この声明は、次と相当に重なる部分も有しているので、参照: 再生核研究所声明172: 人間の愚かさについて
以 上
安倍首相がアメリカから5年で30兆の武器買う約束してることが判明 (1年で6兆円)
http://foreignpolicy.com/2015/07/16/japans-expanding-military-role-could-be-good-news-for-the-pentagon-and-its-contractors/

米国の2016年度国防予算、日本が安保法制を制定することが前提に組まれている
Published: May 13, 2015
US defense budget already counting on Japan self-defense plan
http://www.stripes.com/news/pacific/us-defense-budget-already-counting-on-japan-self-defense-plan-1.346012 

再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点
                              
ここでは、人生、世界の賛歌の形で、人類の明るい面、素晴らしさに焦点を合わせてふれて,  生命の、人生の素晴らしさを確認し、希望と勇気を奮い立たせたい。

1)神、信仰: 人間がユニバースの創造者の概念を懐き、神の概念を得て信仰のレベルに達したのは素晴らしく、人間の根源的な才能であると評価したい:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
2)求道: 人間が 己が何ゆえに存在しているのか、私は何者かと問い、存在の意味を求めて、修行し、在るべき有り様を真摯に追求している姿は、真に人間として尊いと言える。
3)愛: 愛とは共生感に基づく喜びの感情であるが (声明146)、多くの愛は人間社会の喜びの源泉と生きる力である(再生核研究所声明134: 私の命よりも 大事な 私 ― 人間の崇高さ、素晴らしきかな 人間)。
4)言語: 言語を使用して、交流でき、意思疏通ができ、あらゆる生命活動について、共感、共鳴できる人間の素晴らしさ。愛の基礎ばかりではなく、精神面での生命の伝播、記録、共有さえ可能にしている。
5)芸術: これは、絵画、音楽、歌、文学、スポーツ、技巧、あらゆる人間の創造的な活動の文化活動の営みを挙げることができる。これには、いわゆる名人芸、技術、芸能など、 芸術で捉えられる分野は広く、深く広がっている。
6)科学: ニュートン力学やアインシュタインの理論、電磁波の発見や応用、数学ではオイラーの公式や微積分学の発見など、近代科学の素晴しさはそれこそ、神の意思を真摯に追求しているものとして高く評価される。これは医学や工業技術など近代科学などを広く捉えることができる。
7)義: これは世界史に多く記録される、大義のための自己犠牲の精神であり、個人を超えた大きな存在に対する帰依の精神である。この大義は、実に様々に捉えることができるが、己の命を超えた存在に対する、自己犠牲の精神である。

人間の素晴らしさは 全て、 感動にすること に結びつくだろう(再生核研究所声明 12: 人生、世界の存在していることの意味について )。
以 上

再生核研究所声明330(2016.11.01) 原始人間から人間を考える
人間が下等生物から、進化して現在の人類に至っている事実は 真実であると言える。この事実から、原始人間の生活とは、海岸や川辺に一族を中心に群がって生活してきた時代が何万年と続いてきたことは紛れもない事実である。雄大な生態系、その背後の豊かな自然に支えられてきて、一族は 生物や動物たちの群れのように環境の中で、バランスを取りながら、植物繁茂のように生存していたと言える。触れたい観点は、豊かな自然と生態系の中で、殆ど動物の群れのように生活してきたという観点である。 人生とは何か、人間とは何かと問ふとき、人間の経歴、原始人間の様をしっかりと捉えることは大事ではないだろうか。
人間とは、どのような存在で、どのように在るべきか の本質を示しているように見える。環境と生態系の上に存在して、それらのバランスの上に在るということである。そのような視点では、人間の知恵も能力も 大したものではなく ― 実際、人間はどんな動物も植物も、細菌さえ作ることができない ― 、逆に、人類は悪知恵が発達した まるで地球の生態系の癌細胞のような存在に成りかねないので 自戒したい。生物は自制出来る存在であるが、人間は自制できない危険な要素を有しているからである。使いようによっては非常に危険な機械、道具、手段を手に入れている。
この声明の考えの素は、人間の存在が結局、植物や動物の存在と本質的に変わりはなく、全ては生態系と環境の基礎の上に存在して、生命の運命は 本質的に変わりはない ということに気づいたことである。そのために、環境と生態系を人類の母なるものとして、大事にし、愛でて行きたいということである。
人間中心の考え方を厳に戒めて行きたい。自然、生物に対して畏敬の念を抱いてきた 神道の精神は 誠に良いのではないだろうか。お釈迦様の教えも 生態系に対する共感、共鳴に基づいた、人間的な在りようを諭されたものとして 誠に有難い教えであると考えられる。

尚、人間について考えるは、真智恵の愛と言えるが、沢山触れられている:
再生核研究所声明12:  人生、世界の存在していることの意味について 
再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと
再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道
再生核研究所声明 32: 夜明け -- ノアの方舟
再生核研究所声明 36: 恋の原理と心得 
再生核研究所声明 47:  肯定死
再生核研究所声明 57: 人生とは何か、人生如何に生きるべきか
再生核研究所声明 63 : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心
再生核研究所声明 68: 生物の本質 ― 生きること、死ぬること
再生核研究所声明 69:  単細胞人間 ― 単細胞的思考
再生核研究所声明74(2012.2.8): 人生・生命の肯定について再生核研究所声明76(2012.2.16): 教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明77(2012.2.18): 人生における心得
再生核研究所声明80(2012.3.20 ): 挑戦 とは 何か
再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること
再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
再生核研究所声明 99(2012.9.24) 死の肯定、在りよう、儀式、将来への提案
再生核研究所声明 105(2012.11.06) 人間の愚かさ、弱点について
再生核研究所声明 112(2013.3.14) 公理系からの脱却、論理的思考、逆思考によって、視野を高め、広めよ ― 平成暗黒時代を このまま終わらせて 良いものか
再生核研究所声明 118 (2013.5.16) 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 
再生核研究所声明 119 (2013.5.18): 冷酷な神々、自然    見捨てられた 人類
再生核研究所声明 120 (2013.5.24): 終末の在りようについての 総合的な検討を、遅れている面での 文化を進めよう ― 個人の自由意志の尊重に基づく  肯定死の保証 と 方法の確立を
再生核研究所声明 122 (2013.8.1) 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
再生核研究所声明 124 (2013.8.20): 恋の機微 - 恋の極意
再生核研究所声明 132 (2013.9.10):  神を如何に感じるか - 神を如何に観るか
再生核研究所声明 134 (2013.10.5): 私の命よりも 大事な 私 ― 人間の崇高さ、素晴らしきかな 人間
再生核研究所声明 141 (2013.11.14): 結局、人間とは、人生とは 何だろうか、どの様なものか
再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)  生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
再生核研究所声明1462013.12.17) 愛の本質、愛の原理 
再生核研究所声明1472013.12.27) 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明1492014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの
再生核研究所声明155 生きる意味は 文学者にも分からない??
再生核研究所声明158(2014.5.22  生命と人生
再生核研究所声明159(2014.5.28  恋する男女は強い - 何故か?
再生核研究所声明160(2014.5.30  人生の晩年における楽しみ - 終末、もっと爽やかに考えたい
再生核研究所声明1682014.6.24) 霧の中 ― 環境の中の人間、盲目、偏見
再生核研究所声明1722014.8.5) 人間の愚かさについて
再生核研究所声明1732014.8.6) 愛が無ければ観えない
再生核研究所声明1752014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点
再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点
再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
再生核研究所声明183(2014.11.27) 野生動物と人間
再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界
再生核研究所声明197(2015.1.5)真智への愛とは何か
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明203(2015.2.4)人間とは何か、人生とは何か
再生核研究所声明205(2015.2.11) 宿命論
再生核研究所声明206(2015.2.12) 女性の生態、主婦の生態
再生核研究所声明207(2015.2.13) 男性の生態、亭主の生態
再生核研究所声明216(2015.3.12) 死について、死からの解放について
再生核研究所声明217(2015.3.13) ご自愛を ― 健康第一
再生核研究所声明218(2015.3.19) 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明220(2015.3.21) 戦争に関する心理について
再生核研究所声明223(2015.4.14) 人生の目的は、自然を愛でて楽しみ、ともに喜び合うこと ― 二十一世紀の壮大なロマン 真実(播磨屋助次郎著)を読んで
再生核研究所声明229(2015.5.12)吉田松陰から学ぶ ― 志の重要性と松陰の最期、モミの実の喩え
再生核研究所声明254 (2015.11.2)  愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明 265(2015.12.24): 全ての願いが叶えられたとき ー 自由な境地 ― その時人間は
再生核研究所声明 266(2015.12.25): 地球上に繁茂する 愚かな人類
再生核研究所声明 267(2015.12.26): 未知の世界に遭遇したとき、分からないとき ― そのときどうするか
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
再生核研究所声明 274(2016.01.08): 間をとることの重要性、余裕を持とう
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間
再生核研究所声明328(2016.10.24) NHK大河ドラマ、真田幸村の大阪城入場から考える人間 ― 自由について
以 上

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