2016年12月9日金曜日

“仏教の教え“で中止を決断? 「除夜の鐘」にうるさいとクレーム

“仏教の教え“で中止を決断? 「除夜の鐘」にうるさいとクレーム

大晦日の風物詩『除夜の鐘』。この音を聞かないと新年を迎えた気がしない、という人も多いかもしれない。しかし今、『除夜の鐘』を自粛する寺が出てきているという。

 東京・小金井市 にある、100年 以上の歴史を持つ『千手院』 。住宅街に囲まれており、近隣からの苦情で『除夜の鐘』の中止を決めた。

 7代目住職の足利正尊 氏さんは「家族で鐘つきをするのを楽しみにしていた方もおり、私の代で止めてしまうのは悲しい思いではあるが、致し方ないところです」と話す。

 静岡県牧之原市にある、450年以上の歴史を持つ大澤寺 も『除夜の鐘』をやめた。

 15代目住職の今井一光 さんは「夜中に鐘が鳴るということに非常に腹を立てた近隣の方からのクレームがありまして、それでやめました」と説明。

 しかし復活を望む声も強く、今井さんは昼に鐘をつく『除夕の鐘』(じょせきのかね)を始めた。

「去年は120~130人 くらいが列になって並んでくれた。そういうような形でみなさんに認められつつあるところです」と教えてくれた。

■ネット上でも賛否両論
 『除夜の鐘』自粛について、Twitter上では

 「季節の風物詩を理解できないって、日本人の感性ではないね」
 「日本はどんどん残念な国になるな」
 「うるさいって言われて引き下がるお寺も微妙。そのクレームの人に除夜の鐘の意味をとうとうと説いてやればいいじゃない」

など、残すべきだという意見が多い一方、

「禁止になればいい。深夜0時に、でっかい鐘の音を聞かされる近隣住民に同情する」

と、中止に理解を示す意見も。

 仏教経済ジャーナリストの井上暉堂 さんは、『除夜の鐘』を自粛したお寺について「1000人に一人でも鐘の音をうるさいと感じる人がいれば”仏教の教え”として対応してしまう、ということが原因のひとつかもしれない」話す。

 東京・中野にある“坊主バー”のマスターである釈源光 さんは「除夜の鐘は、一年の終わりに煩悩を洗い直して新年から心を入れ替える、という一つの区切りであり、昔から日本人はそうやって鐘の音を聞いてきた。苦情が出て、やめてしまうのは寂しい思いがある。やはり世の中の流れに合ったやり方で、工夫して何とか続けていってほしい」と、一定の理解を求める。

■変わる伝統行事、『除夜の鐘』以外にも
 変わりつつある伝統行事は、『除夜の鐘』だけではない。

 正月の風物詩『餅つき』も、集団食中毒の危険があるとしてイベントを禁じる地域が続出。愛知県 では「『盆踊り』の音がうるさい」という苦情が出たため、ラジオの電波に音を乗せ、イヤホンで聴きながら踊る、という何ともシュールな光景が見られたことも。


 これ以外にも『豆まき』は危険という理由で中止、鬼が家々を回る『なまはげ』は、「子どもが怖がる」という苦情で鬼がとても優しくなってしまったという。

 一部の過剰とも思える反応の影響で、伝統行事が変化を迫られる昨今。今は当たり前だと思っていたものが将来、貴重になってくるのかもしれない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161208-00010000-abemav-soci

ちょっとやりすぎでは、

しみじみと・・・・・・除夜の鐘をうるさいと感じる人もいるのですかねえ

再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界

ゼロ除算の研究を進めているが、微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
消された見えない世界は ゼロの世界、空、ある隠された世界として、無限に存在していると考えられる。たまたま、現れた項が 表現する物理現象を記述していると言える。
これは、地球に繁茂する動植物が、大海や大地から、生まれては、それらに回帰する現象と同様と言える。大量に発生した卵の極一部がそれぞれの生物に成長して、やがて元の世界に戻り、豊かな大海や大地は生命の存在の元、隠れた存在の大いなる世界であると考えられる。無数の生命の発生と回帰した世界の様は 生物、生体の様の変化は捉えられても、人間の精神活用や生命の生命活動の様の精しい様などは 殆ど何も分からない存在であると言える。我々の認知した世界と発生して来た世界と消えて行った認知できない世界である。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
しかしながら、人類が好きなように生きたいも道理であり、巨大都市を建設して、環境を汚染して生存を享受したいも道理であるから、それらの一面も否定できず、それは結局全体的な有り様の中でのバランスの問題ではないだろうか。人類の進化の面には必然的に人類絶滅の要素が内在していると考えられる:

再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

 そこで、結局は全体的な調和、バランスの問題である:

再生核研究所声明 56: アースデイ の理念

発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。
以 上

再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:

Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
数 0 は正でも負でもなく、素数でも合成数でも単数でもない。しかし、0は偶数である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0x= 0 である。しかしx0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。

実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:

しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。

複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。

全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。

古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。

2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明227(2015.5.2) 日本の仏教の在り様についての疑問、キリスト教との奇妙な違い
(これは 90歳のおばあさんが 散歩の折り 休んで行かないと椅子を用意してくれたとき、神の問題と人間の終末における仏教とキリスト教の違いを話し、意見が一致した点における 仏教の在り様についての問題提起である)
その時、神様は存在しますか と聞いたのであるが、きっぱりと にこやかに 存在すると言明されたのは印象深い。しかし、神についてさらには詳しくは聞かなかった。記憶は何でもどんどん薄れていくといっていた。しかしながら、次の神の概念は 諒として微笑みをもって受け入れられたと思う:

再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。

そのときは、マリア様と幼児キリストの代わりに、お母さん懐かれている赤ちゃんの喩えで話した。本声明の趣旨を述べる背景として、次の文脈を参照したい:

再生核研究所声明2212015.4.3) ある数学者の仏教解説
― (前略): このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返す がえすも 残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。

本声明の趣旨を 簡潔に次のように表現したい: キリスト教では 終末 人が生きている内に天にかえる心構えをさとし、人は人生を肯定して安心して 逝かれるに対して、多くの仏教の場合は如何であろうか。死んだ後に お経をあげているのが現状ではないだろうか? 一番大事な時にいなくて、済んでから何かされているようではないだろうか? ― ここは、生きている人に、みなさんもこのようになると 実は生きている人に対してさとしているのであろうか。 先祖さまの供養も 同じような意味を持つとも考えられる。 仏教徒は ゆかしいからそうかも知れない。― 他方、多くの宗教の大きな意義が 死からの解放、自由 にあるのではないだろうか。お釈迦様は 死者を弔うために、先祖さまを供養するために いろいろ教えられたのではなくて、 人々を救うために努力されたのではないだろうか。
この観点、多くの仏教徒に 仏教の在り様について、検討して頂きたいと考える。 折角の素晴らしい宗教が、お釈迦様の精神 が活かされていないのではないかと、感じている。この観点は 上記90歳の素晴らしい おばあさんの気持ち と一致していると感じた。
日本の神道も 素晴らしいのに、上記のように活かされていない面が多いのではないだろうか。― もっとも、神道は 無言で 雰囲気で伝えようとしているようにもみえる。

以 上

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