ザッカーバーグ氏、「よくないね」ボタン導入について語る--「Facebookは時間の無駄」説にも反論
Ian Sherr (CNET News) 翻訳校正: 編集部 2014/12/12 12:20
Mark Zuckerberg氏は、「Dislike」(よくないね)ボタンをFacebookに追加することを考えている。ただし、それは皆が考えているのとは違う理由からだ。
世界最大のソーシャルネットワークFacebookの最高経営責任者(CEO)Zuckerberg氏は米国時間12月11日、Facebook投稿に対して「Like」(いいね)をクリックしたりコメントを残したりする以外のリアクションを表現する第3の方法を可能にするため、ボタンの追加を考えていると述べた。
FacebookのCEOであるMark Zuckerberg氏は、1時間にわたるQ&Aセッションで同ソーシャルネットワークのユーザーからの質問に答えた。
提供:Facebook
しかし、Zuckerberg氏によると、そのボタンは不満を表すためのものではないという。むしろ同氏は、人々が家族の死や個人的な苦難などの不幸な出来事を投稿した際、ユーザーがどう反応してよいか困るときがあるのを目にしてきた。
Zuckerberg氏は「『Like』を快く押すことができないと人々は述べている」と話す。「Like」ボタンにふさわしい事柄があり、それは「Like」ボタンを押すことを価値あるものにするが、Facebookは、幅広い感情を表現するのを手助けする方法を探ろうとしているとZuckerberg氏は述べる。
Zuckerberg氏がこの見識を述べたのは、Facebook本社で1時間にわたり開催されたタウンホールミーティング形式のQ&Aセッションにおいてだ。このイベントは、11月にZuckerberg氏が開催したセッションの続きとなるものだ。同氏は11月のセッションで、映画「ソーシャル・ネットワーク」、同社サービスの新ポリシーなどについて話をした。Zuckerberg氏は、2015年に同様のイベントをより多く開催する計画だと述べた。
Facebookにボタンを追加することは簡単な解決策だと考える人々に対し、Zuckerberg氏は、慎重な方法を引き続きとるつもりであることを述べた。その理由として、ユーザーがどのように反応するかに配慮したいことを挙げた。「Dislike」についてZuckerberg氏は、ユーザーが何かに反対であることを効果的に表現可能にすることは「世界にとってよい」ことにならない可能性があると述べた。あるユーザーは、Facebookが時間の無駄と生産性への悪影響の代名詞となっていると述べ、同サービスがどうすればより生産的なメディアになることができるのかを質問した。Zuckerberg氏は、そのような評価を否定し、仕事が片付かなければ楽しんだり友人と時間を過ごしたりすることはできないことをわれわれは社会から学んでいると述べた。同氏は、「それは間違っていると思う」と述べ「私にとって、私が持っている人間関係、たとえば、友人や家族は、私の人生の一部で大事なものだ」と続けた。そして、Facebookは、人々がより多くの人とつながっていられるための助けになるように努めているとZuckerberg氏は述べる。「まったくの時間の無駄とは思わないし、人間関係を築くため、自分の周囲の人たちに何が起こっているかを知るために時間を過ごそうとすることが時間の無駄であると見なされているとわれわれの社会の人たちが考えているというのは少し悲しいことだと思う」とZuckerberg氏は述べた。http://japan.cnet.com/news/society/35057810/
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
あらゆる生物の最も基本的な本能は、外部から取り入れるという、食の本能である。生きている顕著な営みであると言える。 この基本的な本能から、人間の基本的な要素を分析、考察し、人生の基本を理解したい。
認識できる人間は 自己の生命が求めていることを、欲求や欲望、求める、欲しいという感覚で自覚するが、求める、欲しいの 最も基本的なものは、空腹を満たし、食べたいという、欲求である。もちろん、苦痛からの解放など、生存を脅かす状況からの解放は当然である。
このことから 既に、人間が有限の存在であることを知る。食欲といえども食を無限に頂くことはできず、どんな好物でも やがて、飽きるだろう。有限のものを取り入れている存在であると言える。何を頂くか、何を頂きたいかは、我々の生命が何を要求しているかの 要求の自然な表現として現れていると考えられる。基本的には 好きなものを好きなだけ頂くのが 健康にも良いと考えられよう。 その原理は多様な食から、変化を持たせて、適度に頂くが基本ではないだろうか。すなわち、多様性の原理とそれを実現させる 飽きるという重要な感覚がある。 飽きるという感覚が無ければ、食に偏りを生じ、複雑な生命活動を維持するのに支障が生じるだろう。
この声明の趣旨は、ちょうど食欲の状況のように、外部からの情報を取り入れて 豊かな精神活動を展開しようという観点に思いを至らしむことにある:
1) 我々は有限のものしか受け入れられない、制限があること
2) 我々の生命が 心が何を求めているかを 注意深く絶えず、己が心に尋ねること;
生きたい、死にたくない、良く暮らしたい、それらを越えて、生きるということは どのようなことか、自らに問うて行きたい。
3) 何事集中しすぎると飽きてくるので、間を考え、適度に変化を持たせること
4) 生命作用は複雑な存在だから、幅広い世界、情報に接するように配慮すること
5) 年齢、健康状態、環境などに影響をうけること
6) 慣れる、習慣、学習効果などにも配慮すること。
近年、インターネットの普及で、名曲や名画、映画の名場面など繰り返し、繰り返し楽しむことができる時代を迎えている。また、知識や情報が幾らでも入り、友人、知人、友達など幾らでも増やせる自由な時代を迎えている。それゆえに逆に、自己の世界をきちんと整理、制御して、取捨選択をきちんとして行かないと、いたずらに情報に振り回されて、適切でない食生活が健康を害するように、我々の精神を害することになるだろう。大いに気を付け、配慮して行きたい。
食も、飽きるものと、飽きないで、基本的に続けられるものが在ることにも注目したい。確かに定食など永く続けていても 適当な間隔で頂けば、飽きないで永続できるものがある。水やエネルギー源などは 基本的に必要であり、精神活動でも適度な刺激、変化、発見など、同様に基本的に心がけなければならないものが有り、また、いくら続けても、求道、芸術や研究活動などの創造活動のように 続けられる分野 が有ることに注目したい。
したがって、そのような永続するものを しっかりと受け止めて、適当に揺らぎを取り入れた生き方が、人生を豊かにする秘訣であると言えるだろう。
個人にはそれぞれの才に器が有り、生命作用は内部から、湧いている。教育の原理は その生命作用を補助することにある。 日本の公教育の現状は 個人の食欲を弁えず、一方的に強制して与えすぎで、消化不良と分裂、混乱させ、不健康な人間を大量育成している状況が有るのではないかと危惧している。これは、2500年も前に 中国古代で、既に注意されている事実である(再生核研究所声明2:教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。)。
美しいものをみたい、聞きたい、義に生きたい、人生の意味を知りたい、真相を知りたい、世の法則を知りたい、道を究めたい などなどは、食欲と同様、我々の生命が求めているのである。 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。 これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。
以 上
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