2014年12月18日木曜日

小保方氏、STAP細胞再現できず 19日に理研が会見

小保方氏、STAP細胞再現できず 19日に理研が会見
STAP細胞論文をめぐる問題で、理化学研究所の小保方晴子氏による検証実験でSTAP細胞を確認できなかったことが、理研関係者への取材でわかった。理研は19日にも記者会見を開き、発表する。会見には、小保方氏は出席しない見通し。http://www.asahi.com/articles/ASGDL36PXGDLULBJ008.html

再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について
まず、ニュースについて、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:
ニュース(英:news)とは、最新の情報や出来事の報道のことである。あるいは、そうした事件や、出来事も指す。具体的には、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事などを伝えること。メディアとしては、新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、インターネット(特にWWW、ニュースサイト)が使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、インターネットの普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
メディア市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ネットを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬に米国内1,489名の成人に対して行われたもので、40%がインターネットから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞をニュースソースとしている人の率は2005年からほぼ横ばいだが、インターネットを情報源としている者の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビは70%の人がニュース情報源としていると回答しており、依然インターネットと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、インターネットはすでにニュース情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。ちなみに2007年はテレビ68%、インターネット34%であり、急速にインターネットのシェアが延びている。
そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。このことは、次の観点を思い起こさせる:
再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について 
― まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見は何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
― これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。― 
というように、ニュースの重要性、価値判断は 多くは、上記のようにマスメディアを操作している人たちによって定められるという観点である。インターネットの普及で、個人たちが社会への影響を志向して、いろいろ積極的な働きかけがなされるようになってきているが、当分、新聞やテレビ、ラジオの影響の大きさは 続くのではないだろうか。
そこで、そのような関係者は、文化を支え、社会的な価値判断をしている現実を真摯に受け止め、声明165に有るように、責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。
特に、この声明の発想は、ニュースとして扱われる重要性をきちんと評価され、適切に扱い、伝えられることを 要望したいということである。
卑小な犯罪や、つまらないニュースを繰り返し、繰り返し扱い、伝えられているようなことはないだろうか。ニュースの低俗化などはないだろうか。(最近のある会合で、テレビを持たないという高貴な方から、そのようなニ-ハに興味があるのかという、話しを珍しくお聞きした。)他方、伝えられるべき 価値あるニュースで、無視されているようなことはないだろうか。新しい価値を見い出したり、世相を高め、浄化するような視点にも配慮し、より良い社会を築くために ニュースの質、扱いの妥当性を検討するように 精進、また見識を高められるように、関係者に要請したい。
本声明は、報道関係者に マスメディアの社会における重要な役割を 思い起こさせることにある。
                                     以 上

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