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wasting time?2014年12月26日 00:15人物重視というアンフェア
最近、経済ネタが多いので教育ネタを二日続けて…。ほんとはもっといろんな話を書きたいのだがどうしても自分が今興味があって考えていることに話が集中してしまう…。幅広く世の中を見るのはなかなか難しい…。
以前から出ている話だが大学入試の見直しの話が出てきた。
大学入試の新共通試験、20年度から 中教審答申
大学入試改革を議論している中央教育審議会(中教審)は22日、大学入試センター試験に代わり、知識の活用力をみる新共通試験を導入するよう下村博文文部 科学相に答申した。現行の入試が知識偏重に陥っていると指摘。受験生の能力を多面的に評価する手法に抜本改革し、大学の個別試験も面接や小論文などによる 選抜に変えることを求めた。
(日経新聞より引用)
ということらしい。記事を読んでもらえばわかるが、学力到達度テストを高校2年生・3年生に課すという。たしかに高校生の学力を確認し目標を到達させることに一定の効果はあるかもしれないが、それ以上に2年生の時にもテストがあるとなると、高校生は今まで以上に勉強に時間を取られてしまうことは間違いないだろう。早めにどんどん授業を進められる中高一貫校がより有利になるかもしれない。
これは一部では学力が足りない大学生というのを減らそうということに役立つだろうとも考えているのだろうが、そもそも持って生まれた頭脳と努力するかしないかはテストがあるかどうかでは決まらない…。大学の数が多すぎるのが問題なのだからこのようなテストを導入することにはあまり意味はないだろう。
また、このようなテストが導入されると難関大学を狙う高校生はコツコツと高校1年生から勉強に励まねばならず、部活動に精を出すなどということは進学校ほど難しくなる可能性もある。また自由な校風を売りにしている学校にとっては不利にもなりかねないだろう。到達度テストのために早い段階から塾通い・予備校通いにせいを出さねばいけなくなるかもしれないし教育のコストがより上昇し低所得者がさらに不利に可能性もある。
まあ、そもそも高校で学ぶべきことを国が決めていること自体がおかしいのだが…。そのような統制がますます強まることは必定で各高校ごとの独自の教育などはよりやりにくくなりそうだ。
部活に精を出していた…。うっかり遊んでしまったり悪くなってしまったが最後の1年や浪人で猛烈に勉強して有名大学に合格したなどという例はかなり減ってしまい、コツコツ1年生から勉強し、先生の覚えが良くやりたくもないボランティア活動なども笑顔でやるといういわゆる優等生ばかりが増えそうだし人の顔色をうかがいながら生きる人を量産することにならないか。心配である。
また新しく導入するという大学入学希望者学力評価テスト(仮称)では英語は話すこと・書くことも採点に取り入れるという。
しかし、話すことや書くこともテストし採点するとなるとかなりの人手がかかりそうだが大丈夫なのだろうか。またそもそも、話すことを教えられる英語教師が日本にそんなにたくさんいるとも思えない…。話すことや書くことを重視したい大学が個別でそのようなテストを取り入れればいいだけの話だと思うのだがどうだろう。本当に話すことに興味がある生徒は放っておいてもやるだろうし、社会の要請があれば自然とそういったものを入試に取り入れる大学、そういった教育に力を入れる中学高校が増えるはずだ。事実英語教育に力を入れている大学は既に存在する。
さらに大学入試そのものにも面接・小論文・グループディスカッションなどを取り入れるように要請するとある。しかし、例えば東京大学でもすでに後期試験は小論文のはずだしすでに小論文を入試に取り入れている大学は多くある。改めてそのようなものを広範に取り入れる要請をする必要はあるのだろうか?
また面接に関しては大学教授という浮世離れした職業に就く人々がこれから世の中のために役に立つ人材をたかだか数分から数十分の面接で適切に評価できるとも思わない。また面接やグループディスカッションのためのテクニックを教える授業が増えるだろう。まあ、そのようなテクニックを学ぶのは悪くないだろうがが、大学生になってから・社会人になってからでも十分間に合うようには思うのだが…。
そもそもAO入試に一芸入試・スポーツ推薦に指定校推薦と多くの大学で多様な人材を評価する仕組みは既に存在する。むしろ、それらの入試方式によって大学生の基礎学力の低下が嘆かれている時代でもある。今更こんな改革にどの程度の価値が?と思うのは僕だけではあるまい。
学力重視が一番公平性が高いのは言うまでもない。そしてかなりの程度人の才能をうまく見極めるシステムであった。だからこそ日本は明治維新以降、ほかのアジア諸国に先駆けて発展したわけだ。もちろん、時代の要請によって変わっていく部分もあるだろうが別に政府がどうこうする必要もない。また大学として本当に必要なのは最低限の基礎学力を身に着けた学生であるのではないか?その素材をどう料理するか。それがより高度でより自由でより裁量がある大学教育の腕の見せ所ではないのか。
そのためにもむしろ、画一的に政府が方向性を決めるのではなく各教育機関がより独自性を打ち出せるような改革をすべきではないだ。また教育機関同士の競争をより促す方向の改革こそ促すべきだしいわゆる、名ばかり大学への補助金などは打ち切るべきだろう。押し付けのしかも?マークだらけの偽善に満ちたこのような改革に「ゆとり教育とその反動」を思い出さざるを得ないのは僕だけではないだろう。http://blogos.com/article/102177/
確かにいろいろ問題では? 実際の運用など、も検討すべきでは。 ここでの意見は概ね 適切では?
ある程度の柔軟性を残すような考えも大事では?
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
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