2014年12月16日火曜日

大きな正義の為に小さな悪を行うのは悪いことだと思いますか?

大きな正義の為に小さな悪を行うのは悪いことだと思いますか?
このようなことは、場合、場合、 状況によるので 一般的には言えないですね。
再生核研究所声明 69(2011/09/27) 
単細胞人間 ― 単細胞的思考

(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上

再生核研究所声明 139 (2013.10.22): 
正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める
(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)
まず、用語を確認して置こう:
正義(せいぎ、希: δικαιοσύνη、羅: jūstitia、英: justice、仏: justice、独: Gerechtigkeit)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについては義のページを参照。
定義[編集]
正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義、才能主義、身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より)
また、
義 
 「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。
 「羊」 を含むのは、祥・善 に羊を含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。
 もともと宜 と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。
 <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。
 <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。
 転じてすべてかどあるさまを義・儀 という。娥(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592。
また、
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
甲骨文字「義」

金文「義」
「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。
 このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。
また、
「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊(二玄社、2002年)】
上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。
まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲ならば、正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか:
再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは:
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則)
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。
ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。
そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。
その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。
これで、正義 は 確定し、正確に定義された。
それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。―
世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。
再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ、明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:
再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について
再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に
再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて
再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に
再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな
また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。
以 上
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。
正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。
芥川龍之介「侏儒の言葉」より

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