2014年12月17日水曜日

SYNODOS2014年12月16日 12:05機械が人間の知性を超える日をどのように迎えるべきか?――AIとBI - 井上智洋 / マクロ経済学 1/2

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SYNODOS2014年12月16日 12:05機械が人間の知性を超える日をどのように迎えるべきか?――AIとBI - 井上智洋 / マクロ経済学 1/2
コンピュータが全人類の知性を超える未来のある時点は、シンギュラリティ(Singularity、特異点、技術的特異点)と呼ばれている。アメリカの著名な発明家カーツワイルによればそれは2045年に到来するという。そして、そのような時点に発生する様々な問題は、ひっくるめて2045年問題と言われている[*1]。
シンギュラリティとはもともと数学や物理学で使われている用語である。物理学では、シンギュラリティは物理法則(一般相対性理論)が通用しない特異な点である[*2]。技術的特異点としてのシンギュラリティもそれと同様に、技術に関する予測が成り立たず、既存の経済法則も通用しなくなるような時点である。
人類の経済社会における進化のオメガ点、つまり終局であるシンギュラリティに至ると、全ての労働は、人工知能とそれを搭載したロボットが行うので、人間は労働から解放されることになる。すると「労働からの解放と言うが、その時人々は一体どこから所得を得るのだろうか」とか「人々は遊んで暮らせるようになるのか、それとも単に機械に仕事を奪われて食べていけなくなるのか」といったような疑問が当然浮かんでくるだろう。
[*1] 2045年問題を扱った日本語文献に、松田卓也『2045年問題コンピュータが人類を超える日』がある。
[*2] 物理学におけるシンギュラリティはブラックホールの中にあると考えられている。ブラックホールの中にないものは、「裸の特異点」と言われているが、このような裸の特異点はないというのが、有名なペンローズの「宇宙検閲官仮説」である。
技術的失業
「技術的失業」(テクノロジー失業)という言葉が経済学にはある。これは新しい技術の導入がもたらす失業を意味する。「銀行にATMが導入されて、窓口係が必要なくなり職を失う」とか「Amazonなどのショッピングサイトの普及によって、街角の書店が廃業に追い込まれ従業員が職を失う」といったような失業のことである。あるいは、1台の自動車を作るのに6人の人手が必要だったのが、新しい機械の導入による生産性の向上により、4人で済むようになる。その際、消費需要が1.5倍になれば問題ないが、消費需要が変わらなければ6人中2人は失業する。これもまた、技術的失業の例である。
19世紀、第一次産業革命の頃には、機械の導入による技術的失業を恐れた労働者が「ラッダイト運動」という機械の打ち壊し運動を行った。そして、技術的失業は、シスモンディやマルサス、リカードなどの19世紀の経済学者によって度々に議論の俎上に載せられ、20世紀の初頭にはケインズによっても論じられた。ケインズは「われわれは一つの新しい病気に苦しめられつつある。一部の読者諸君はまだ一度もその病名を聞いたことがないかも知れないが、今後は大いにしばしば聞くことだろう。それは技術的失業(technological unempoloyment)である[*3]」と言っている。ところが、その後も人々はさしてこの病名を聞かされることはなかった。
[*3] ケインズ「わが孫たちのための経済的可能性」(『説得評論集』に収録)
忘れ去られたこの経済問題が再び甦ったのは、1990年代になってからである。この時期から、アメリカでは情報技術の導入がもたらす技術的失業を懸念し、このような技術の発達に反対するような運動「ネオ・ラッダイト運動」が起きており、その一部はシンギュラリティの阻止を目指した運動にも繋がっている。1990年代以降アカデミックの分野でも、技術的失業がノーベル経済学賞受賞者であるモーテンセンとピサリデスのような主流派の著名な経済学者によって研究されるようになった。
日本では2013年に、アメリカの経済学者ブリニョルフソンとリサーチサイエンティストのマカフィーによる『機械との競争』の翻訳書が出版され、技術的失業の脅威が広く認識されるようになった。彼らによれば、コンピュータは、未だに商品企画や研究開発などの創造的な労働や介護や建設などの肉体労働をできずにいる一方で、文書の作成や解析、事務手続きなどを効率化し必要な人手を減らしている。それゆえ、現在のところ主に雇用破壊が進んでいるのは、創造的な労働でも肉体労働でもなく、その中間に位置する事務的な労働であり、それは多くの中間所得層が従事している仕事である(図 1参照)。
図1:労働の種類と雇用量

このような要因により、世界金融危機後のアメリカでは、景気回復期において雇用が増大しない「ジョブレス・リカバリー」が発生し、また世帯所得の中央値が下落し続けているという。そのような問題に対し彼らが提案した解決案は、教育投資を増やし起業家精神を高めることで、人々を事務的な分野から創造的な分野へと「労働移動」させることである。
経済学者は、ほとんど常に、技術的失業を「摩擦的失業」(雇用を得るまでの時間が掛かるために起こる失業)や「ミスマッチによる失業」(求職者が求人の条件にマッチしていないことから生じる失業)と見なす。しかし、そうであるためには、どこかに求人が存在してなければならないが、常にそうであるとは限らない。例えば、図1に示すように情報技術の進歩によって事務的な労働が減ったとしよう。その時、創造的な労働(あるいは肉体的な労働)に対する需要が増えなければ、失業した労働者を吸収し得るだけの勤め口はそもそも存在しないことになる。その場合、労働移動は解決にならない。

図2:減少する人間の労働需要
図2のように、今後、ロボットに対する需要が増大するとともに、人間の労働需要は減少していき、シンギュラリティではゼロになる。しばらくは肉体労働や創造的労働は増えるだろうが、長期的にはそれらも減少傾向にある。したがって、一方の雇用が減る代わりに都合よく他方の雇用が増えるような状況が次第に得られにくくなる。失業者が就職活動をどんなに続けても、さらには求人の条件にマッチするように職業訓練を行っても、雇用されないケースが増えてくる。こうして発生する失業は、摩擦的失業でもミスマッチによる失業でもなく、需要が増大しない限り解消されることのない「需要不足による失業」である。
経済学者は一般に、技術的失業を需要不足による失業とは考えない。しかし、先の自動車の例では、消費需要が1.5倍に増大しないからこそ6人中2人は失業するのであって、やはり需要不足が関係している。その際、他の業種に2人分の勤め口があるならば、そこへ就職するまでの間の摩擦的失業ということになるが、マクロ経済全体を見渡して、どこにも勤め口がないならば、それは需要不足による失業と言うべきである。【次ページにつづく】http://blogos.com/article/101427/


再生核研究所声明 144 (2013.12.12) 
人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
(2013.12.6.3時45分 夢の中で新しい原理を 情景を交えながら発見し、目を覚ましました。グローバリゼーションの危険性と、人類滅亡の原理です。 声明の案にできそうです。適切か検討します。 ― その夢は 農村地帯で、1軒の農家の畑だけが緑の野菜で覆われ、 広い農地は 灰色になって広がり、異様であったが、一人の青年が、グローバリゼーションの影響で他の農家がやって行けず、 農家では お金が入らないと言っていました。人類滅亡の概念は哲学的、根本的な大事な原理を述べているが、それは その後 夢、うつつ に考察したものである。 成文化を試みたい。)
上記の中で、閃めいた 原理は 端的に述べれば、 いわゆる進歩は 末期への進歩であって 原理的に終末に近づいている ということである。 そして 進歩には 必然的な、エントロピー増大の法則のように 必然性が有るのではないだろうか。 良く生きるということは 必然的に 終末を上手く受け入れるように 精神構造が 本能的に作られているのではないだろうか。
さらに、 人は 人間存在の原理で、いろいろ知りたい、 いろいろ原因を知りたいと 真理を追究するが、その先には、生命の空しさと 自分の無智を知らされ、結局 生命と人生の否定に繋がり、 安らかな悟りに至るという、人間観、人生観である。
人は 先に、先に進もうとしているが、それは、自滅への道であり、 夢中で生きているのが 生命の実相ではないだろうか。 ちょうど子供たちが、夢中で はしゃいでいるように。
知ることも、真理を追究するのも 危険である。 しかしながら、エントロピー増大の原理のように 追及しないではいられないのが人間で、 それは 人間の 定めであると考えられる。
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、あわてず、 自分の心の状態を尊重する ということである。
人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
しかしながら、結局、人生では 始めも、終わりも分からず、夢中で、踊っているようなものであるとすれば、 やはり空しく、 寂しいものだ と考えるだろう。
この空虚を満たすには、健全な精神の 健全な進化による、悟りと神への帰依が望まれる(再生核研究所声明 132: 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか)。
以 上
追記 参考資料(ウィキペディア):
定義[編集]
進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である[2][1]。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある[3][4]。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない[1][2]。
また狭義に、種以上のレベルでの変化のみを進化とみなすこともあるが、一般的ではない[3]。逆に、文化的伝達による累積的変化や生物群集の変化をも広く進化と呼ぶこともある[3]。日常表現としては単なる「変化」の同義語として使われることも多く、恒星や政治体制が「進化」するということもあるが、これは生物学でいう進化とは異なる[4]。
進化過程である器官が単純化したり、縮小したりすることを退化というが[3]、これもあくまで進化の一つである。退化は進化の対義語ではない。

再生核研究所声明75(2012.2.10):  政治・経済の在りようについて
(この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)
上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。
もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。
現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。
しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。
しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。
債務の増大と金融不安、
過熱な自由競争の国際化、
過熱な投機の在り様、
行きすぎた世界的な経済活動、
行きすぎた世界の均一化、
多くの失業者の出現、
為替の急激な変動、
貧富の大きな格差、
アメリカなどに見られる 軍事産業の力、
大量生産、大量消費の在り様、
お金、お金の風潮の増大、
社会生活まで、共生より競争の世相、成果主義や評価、評価の厳しい世相、 
経済活動の環境、社会への大きな影響 など、
それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。
上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。
他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。
逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。
以 上

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