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新潮社フォーサイト2014年12月12日 12:07では「増税派」「経済成長派」どちらの主張が正しいのか - 磯山友幸
安倍晋三首相が来年10月に予定されていた消費税率の再引き上げを見送ったことで、「増税派」と「成長派」のつばぜり合いが再び激しさを増している。方やこのままでは日本の財政は破綻し、国債は暴落しかねないとして早期の増税を主張。安倍首相の先送り判断を批判する。こなた、まずは経済を成長させることが第一で、成長によって税収が増えれば増税しなくても財政再建は可能になると主張する。もちろん、景気に配慮した安倍首相の判断は正しかったと見る。両者の主張は真正面から対立して相容れない。なかなか国民には理解しにくい議論だが、いったいどちらが正しいのか、どう考えれば良いのだろうか。
消費税を35%に!?
10月下旬、経済学者の小林慶一郎・慶應大学教授と社会学者の橋爪大三郎・東京工業大学名誉教授の共著『ジャパン・クライシス』が筑摩書房から刊行された。その2人に話を聞く機会があった。この本の副題には、「ハイパーインフレがこの国を滅ぼす」とある。このままアベノミクスの大胆な金融緩和を続けていたら、何かのきっかけで国債が大暴落し、手の付けられないハイパーインフレ、つまり凄まじい物価高騰がやってくる、というのだ。
確かに日本の財政状態は危機的である。
日本政府が抱える借金は昨年、1000兆円の大台に乗った。一方で、毎年の税収よりも歳出の方が大幅に多い状況が続いており、単年度赤字を垂れ流し続けている。国債の償還や利払いなどを除いた一般歳出と税収がトントンになるプライマリー・バランス(基礎的財政収支)にほど遠い状況が続いているのだ。さらに、少子高齢化によって年金や健康保険など社会保障費の国庫負担も毎年1兆円前後のペースで増え続けている。このままの状態を放置し続ければ、早晩限界がやって来るとしている。家計に例えてみれば分かりやすい。1000万円の借金を抱えているうえに、毎年収入が足りなくて50万円ずつ借り増ししているようなものだ。借金がどんどん膨らんでいくわけである。
「ハイパーインフレになれば、せっかくの資産も一瞬にして失われ、年金制度も破綻。企業や銀行も次々と倒産し、多数の国民が路頭に迷う」
『ジャパン・クライシス』はそう指摘する。
それを避ける方法も両教授は示している。消費税率を35%に引き上げるというのだ。
今の消費税率は4月に5%から引き上げられ、やっと8%になったところ。それでも消費の減速などが叫ばれている。安倍首相はそうした影響の大きさを捉え、8%を10%にするのを躊躇した。
そんな状況にあって35%という税率は凄まじい。欧州諸国でも20%弱といったところだ。「高福祉高負担」の典型例として日本でしばしば紹介される北欧諸国ですら25%である。世界最高水準の消費税率にしないと、日本の財政は再建困難だというわけだ。
「税収を増やす」では一致
こうした「危機」を一笑に付す人物が高橋洋一・嘉悦大学教授である。経済成長をすることでプライマリー・バランスを黒字化することは十分に可能で、増税なしに財政再建できると主張する。実際、小泉純一郎政権から第1次安倍政権にかけて、あと一歩で黒字化するところまで迫ったという具体例を示す。高橋教授は財務官僚出身で、古巣の官僚たちから蛇蝎のごとく嫌われている。財務省の主張をことごとく批判し、論破してきたからだ。
そんな高橋教授を、ジャーナリストの田原総一朗氏が司会を務めるBS朝日の番組『激論! クロスファイア』が、11月22日にゲストとして招いた。増税推進派の増田寛也・野村総研顧問と激論を闘わせていたが、番組には私もコメンテーターとして出させていただいた。
では、どちらの主張が正しいのか。順を追って考えてみよう。
まず、税収を増やさなければならない、という点については、ほぼ両陣営の意見は一致している。現在のように100兆円近い一般会計歳出があるのに、歳入が50兆円では話にならない。もっとも、税収を増やすための手段が異なる。増税派は、税収を増やすには税率を引き上げるのが先決という考えなのに対し、成長派は、税率を引き上げても、それで景気が悪化すれば税収は増えないと主張する。過去の消費税増税の例などを引いて、税率引き上げがむしろ税収減になる可能性すらあるとしている。
確かに、税率を引き上げても、景気が悪化して税収が減る可能性は十分にある。だが、経済成長だけで増税は不要というのは、なかなか確証が持てない。外部要因があったとはいえ、小泉・安倍政権でも結局はプライマリー・バランスを達成できなかった。
3本柱を同時に実行
では、どうすれば良いか。
財務省を辞めて学者になった小黒一正・法政大学准教授の近著『財政危機の深層』では、「(現在の)危機的な状況を脱却するには、『経済成長』『歳出削減』『増税』の3つを同時に行っていかなければならない」「どれか単独の策で財政を立て直すのはムリ」だとしている。
3つを同時に、というのはバランスの取れた主張だろう。経済成長を追求しながら、歳出削減もやり、増税もする。これで早期のプライマリー・バランスを目指すというのは正しいだろう。
家計に置き換えてみても、月々赤字を垂れ流しているとしたら、まず支出を減らすことを考えるだろう。歳出削減を考えるのは当たり前のことである。増税で収入を増やすという方法ももちろんあるが、増税はなかなか国民の理解を得られない。また、前述の通り、税率引き上げが税収増に直結するわけでもない。
消費税率で35%が必要、というのも机上の計算だ。現実に消費に35%の税率をかけたら、消費が激減するのは間違いない。
昔、イタリアの観光地で買い物をした時、キャッシュで買って領収書はいらないと言ったら、2割以上安くなった。仮に店がその売り上げを申告しなかったとすれば、消費税分は値引きしても店に損はない。税率の高い欧州諸国では、消費が総じて低調なだけでなく、消費経済がアングラ化している。日本で仮に35%の税率を課したら、誰もまともに店で商品を買わなくなるだろう。日本人の事だから、すぐに物々交換サイトが立ち上がるなど、課税を逃れる“取引”が一気に広がるに違いない。そう考えると、税率35%というのは現実的ではない。
余談だが、「ハイパーインフレがやってくる」というのも現実的ではないように思う。戦争などで生産手段がすべて破壊でもされない限り、圧倒的なモノ不足は起きない。むしろ購買力が落ちてモノ余りが続けば、価格が一気に上昇するとは考えにくい。さらに、世界経済は相互に連関しあっているため、世界の工場である中国の経済が麻痺でもしない限り、高いインフレが発生する可能性は低いのではないか。
国債の価格にしても一方的に壊滅的な価格まで下落したり、デフォルトするとは考えにくい。世界的なカネ余りが続いていたとすれば、日本国債の価格が低下(利回りは上昇)すれば、割安感から買い物が入ってくる。それが市場原理というものだ。
公務員ボーナスは21%増!
では、1000兆円という借金を減らすにはどうしたらよいのか。
この方法は明らかだ。まずは、プライマリー・バランスを黒字化して、これ以上赤字を増やさないこと。そのうえで、借金を返すために、資産を売却することだ。まだ政府はJT株も保有しているし、日本郵便グループの株式も持つ。借金を減らさなければ破滅がやってくるというのであれば、否応なしに保有資産を売らなければならないだろう。それが、民間の家計では当たり前のことだ。高橋洋一氏は著書で、1000兆円を超す借金の反対側に650兆円の資産がある、と主張している。本気で借金を減らすのならば、一気にスリム化して借金を返すべきだろう。政府が保有するものの中には、プレミアムを付けて高く民間に売れるものも、まだまだある。
以上のように、成長だけで借金が返せるという“バラ色”の絵を描くのでなければ、やるべきことは(1)毎年垂れ流している赤字を止める(2)資産を売却して一気にスリム化する――この2つを取り急ぎやることだろう。これは民間の感覚からすれば、当たり前の事だ。赤字垂れ流しを止めるには、支出すべての見直しが不可欠だ。12月10日には国家公務員のボーナスが支給されたが、その額、1年前に比べて21%の増加だった。東日本大震災や財政悪化を理由とする減額措置を2年間で終了させた結果だ。赤字垂れ流しが続いているのに、給与やボーナスが大きく増えるというのは、民間の感覚で言えば信じられないことだ。逆に言えば、それほど本気で財政を立て直そうとしていないのではないか、と疑ってしまう。政府保有株の売却や政府機関の見直しなどもほとんど行われていない。そうした、民間ならば当然やるべき事を放置したまま、税率だけを引き上げるというのでは、国民はとうてい納得しないだろう。財務省出身の小黒氏ですら、日本の国の会計状況は複雑で分かりにくいと指摘している。ともかく実態を把握し、そのうえで、どうやれば借金が減らせるのかを真剣に考えていくことが不可欠だろう。http://blogos.com/article/101086/
このような高度のこと、多くの人は分からないのでは?
難しい判断をデタラメに問うは 無責任では?
再生核研究所声明 15 (2008/05/24): 空虚な日本の社会
バブル崩壊後の日本の社会とは、いたるところに現れた借金財政、無責任な責任者の態度とそれを許している社会、経済の停滞、精神の空白と無気力、教育の空洞化などである。これらは空虚な社会と表現されよう。もし日本国の再生がならず、このまま衰退を続ければ、世界の歴史には、かつてアジアに栄えた、ユニークな文化を持った日本国が存在したが、戦後の教育を誤ったために衰退して、かつての日本国をしのぶような国は いまや世界のどこにも無い と記録される時代を迎えるだろう。
何と、国、地方合わせて1000兆円を越える借金を抱えても、政治家もマスコミも危機感が足りないと言えよう。国防の最高責任者が接待漬けで、大臣がどこの国の国防大臣か分からないような発言をしていたのである。町まちはシャッター通りと称されて、衰退を続け、農村も荒廃を続け、若者は派遣社員として不安定な状況に追い込まれている。教育はただ勉強して良い大学に入る事を考えればよいという 受験勉強に退化したり、無気力に陥ったりしていて、本来の教育の理念さえ失っている時代とも言える。これらは氷山の一角で、象徴的な状況と言えよう。そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える。公務員はいわゆる親方日の丸で 税金がひとりでに入ってくるように感じている風潮で、貴重な税金といった考えが足りないと言えるだろう。
これでは、約5兆円もの防衛費をかけていても、日本国は外国軍の侵略を受ける前に、自滅、衰退してしまう状況ではないでしょうか。橋本大阪府知事のように、地方を、国を立て直す気迫ある若者達の立ち上がりと国民的な奮起を期待したい。
それには先ず大きなマイナスの仕事を減らし、公務員の財政意識を高め、綱紀を引き締め、公僕たる精神を初心として、国、地方の建て直しに取り掛かるように要請したい。危機意識を国民が共有して立ち上がる必要があると考えます。国、地方の豊かさはすべての基礎になるものであるから、おのおのの立場で、地域ごと経済再建にも努力して行きたい。教育問題にも抜本的な取り組みと検討が加えられなければならない。教育界も無気力、無責任な状態と言えよう。教育にも何か魂を入れる必要があるのと考える。江戸時代の幕末や明治政府には しっかりしないと外国の侵略を受けてしまうという危機感と連帯感があったと考える。今しっかりしないと 国が衰退してしまうという危機感と連帯感をもって国民が立ち上がるべき時である。
それらを展開する基本は 有能な人材を要所に配して、各級の人事を大幅に刷新することである。活力ある人材によって沈滞した社会を再生させる必要があると考えます。
国家は 大戦や地震など災害によって滅ぶことがあるが、多くの場合には、戦後50年を越えて内部から衰退するものである、という世界の歴史を想起したい。 以上。
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
国の借金、3月末に過去最大の1024兆円に
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
日本の財政を考える より
日本の借金時計
財部 誠一 財部 誠一ジャーナルより
全国都道府県の借金時計 より
日本の借金時計 (数字はうそをつかない)より
新政策機構「チームニッポン」 より http://www.team-nippon.com/
日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタより
リアルタイム財政赤字カウンターより
U.S. National Debt Clock : Real Time http://www.usdebtclock.org/
社会保障給付、100兆円に迫る 09年度、失業手当急増http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011102801000608.html
65歳以上、総人口の23.3%=過去最高を更新―高齢社会白書http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120615-00000026-jij-pol
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
I AM NOT MOVING - Short Film - Occupy Wall Street
次のような侮辱されたレポートに対して、石破氏はどの様にして、国の財政を建直すのかを国民に説明し、内部から崩壊しかねない日本国を建直す為、国家の安全の基本を説明していただきたいと思います。
国の財政が破綻すれば、援助や防衛、安全どころではありません。
これは2001年9月にIMF(国際通貨基金)に近い筋のアメリカの専門家により作成されたというレポートで、その内容は国家財政の破綻をきたした国(レポートでは特に特定はされていないが想定しているのは日本)を如何にIMFが管理するかを記したアクションプログラムです。仮に、日本の国家財政が破綻し、IMF管理国になり「ネバダレポート」が実施されるとどのようになるかと言えば、下記に記した要点の内容が実施されると書かれています。
(ネバダレポートの要旨)
1. 公務員の総数および給料の30%カット。ボーナスは全てカット。
2. 公務員の退職金は100%カット。
3. 年金は一律30%カット。
4. 国債の利払いは5~10年間停止。
5. 消費税は15%引き上げて20%へ。
6. 課税最低額を年収100万円まで引き下げ。
7. 資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の5%を課税。債券/社債につい
ては、5~15%の課税。株式は取得金額の1%課税。
8. 預金は一律ペイオフを実施するとともに、第2段階として預金額を30~40%カットする。
まさかこんな事態は来ないと考えているのは日本の国民だけなのかもしれません。今や日本国債の価値はG7国の中で最低、さらに言えば人口170万人ながらも多くのダイヤモンド鉱脈を持つというアフリカのボツワナ共和国の国債よりも低い格付けになっています。そんな価値の日本国債を所有するのは、その40.3%を公的機関が所有し、33.7%を民間の金融機関が所有しています。つまり全体の74%が国民の個人資産を預けたお金で所有されていることになります。
更には、日本円の発券銀行である日本銀行が15%も所有している事をご存知でしょうか?
日銀は法律により国債を直接購入(政府=財務省よりの購入)する事は禁じられているので、市場で国債を購入しています。つまり、自分でお金を刷ってそのお金を基にせっせと国の借金の肩代わりをしている訳です。ここまでで、既に日本の国債発行残高の内89%は内国で消化されている事になります。
では、内国以外の外国人による所有の率はと見てみれば全体の3.3%しかない事が判ります。
つまり残り7.7%は、今度は個人向け国債と称される国民個人による国債購入によりカバーされている訳です。簡単に言ってしまえば、日本国の借金の内、約97%は国民が国にお金を貸している状態ということになります。ここで、この率を他の国と比較すると日本の特殊性が見えてきます。アメリカ国債は、その39.9%が海外所有者で、ドイツ国債は40.3%が海外所有です。
借金の殆どを国民からしているのだから、仮に国家が倒産したとしてもIMF管理国になる事はないであろうと思うのは早計です。日本の現在の状況を貸借対照表においてみれば、資産765.31兆円、負債992.71兆円、差引き227.4兆円の赤字となります。要は、日本株式会社は、その所有する国内の土地、有価証券、機械設備等を全て売却してもなお227.4兆円の借金が残る事になります。
一方、昨今の日本では景気上昇により明るい未来が来ているように思われていますが、景気が良くなれば当然税収増は期待できます。しかし一方で金利も上昇、金利が上がれば国債の利払いも増加します。更に、低金利で発行された国債の価値は下がり、これは国債の大量売りに繋がり国債価格の暴落という事態を引き起こします。このような状況の後にくるのは結果的に財政破綻です。仮に、政府が国民の個人資産を全て巻き上げて借金を棒引きにしたところで、先の貸借対照表で見るとおり明らかなように、それでも227.4兆円の赤字が残る訳です。この赤字を解消する為には外国(国際通貨基金=IMF=アメリカの管理下にある)からお金を借りざるを得ない訳です。そしてIMF管理下国になれば、前記したレポートが実施されるという筋書きになります。仮にこのレポートが実施されれば、経済的に日本はアメリカの植民地にならざるを得なくなります。以下略
ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。
日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります - マザー・テレサ
再生核研究所声明45(2010/07/23):第2次世界大戦と第3次世界混乱
この課題は重いので、まず ( … みんなで考えていこうというのが声明の精神です。
みんなで、社会を良くするにはどうしたら良いか、自由に意見を交換して、より良い社会を作るために貢献したいと思っています。政治は大事ですから、それを避けず、より良い政治が行われるようにするのは、大事な要素になります。戦争、平和、経済、教育の基本に関わりますから。私は教育もおかしいと思っているので、いろいろ考察して、意見を述べていきたいと思っています。しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していくことと思っています。私は、そのきっかけを与えようとしているに過ぎません。──哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ──という言葉が想い出されます。私は、専門家や知識をもっている人だけが良識や見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見やご提案を期待しているのです。2009 年7月23 日にて: 夜明け前 よっちゃんの想い(以下YYと略す) 序文 最後)を想起したい。さらに、最近繰り返し注意しているように、イラク問題(YY. 101-102)やロッキード事件におけるもみ消し事件などに見られる(欧米では時間を越えて 真理、真実を追求しようとする文化がある (これは神の前に出るときには 清い心で望みたい という宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には 誤魔かしたり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに 深く根ざしているとも言える。 声明38)というように 日本では、歴史を直視できず、したがって、きちんと反省できず、同じような過ちを繰り返しているという、日本の本質的な弱点を重く受け止めるべきである(過去のことは過去のこと、と片付けるならば、我々は、未来まで片付けてしまうことになる - ウインストン・チャ-チル)というのが、この声明を考えた原点である。 なぜならば、日本は また第2次世界大戦と同じような誤りを繰り返す危険性が極めて高いと考えるからである。
さて、第2次世界大戦とはそもそも日本にとって何であったか、その本質は尊敬する大谷杉郎 群馬大学名誉教授が精魂を込めて書かれた文章の 次の文に簡潔に表現されていると考える: ( 第二次世界大戦と日本の良心 靖国神社問題に対する提案に対して/大谷杉郎(2007/4/12) … 。第二次世界大戦の本質は、世界列強の世界侵略に対する日本の切ない反逆です。… YY. 84-85)。 実際、当時の厳しい時代背景が述べられ、戦争に巻き込まれていった様が良く表現されている。 時代背景を顧ない表面的な事実の羅列は空しく、アジアの人々と共に時代背景を 反省を込めながら、共有したいと考える。 反省とは なぜ西欧列強にアジアが侵略され尽くされて来たかという重い事実である。日本国がアジアの弱小国家であったら、果たしてアジア諸国の独立が実現していたであろうかと考えざるを得ない時代背景である。さらに、当時の世界情勢を考えると 日本が戦端を切らずとも いずれいろいろな理由をつけて、戦争に突入させられていたのではないかと考えさせられる。
さて、現在の世界に目を移したいと考える。 日本国の防衛のためには、核武装が必要であるとか、軍備の重要性を主張する人たちがいる。これに対して、二元論の立場から、第3次世界大戦は起らない、起こせないと主張して、30年を越えている(YY. 217-218)。核兵器は戦艦大和のように もはや使えない無用の長物である。 国防の責任者たちは、また興味ある日本国民は 世界の核兵器使用の危険性について、またハードな戦争に巻き込まれる危険性について 冷静に、正確に、世界の状況を分析すべきである。 第2次世界大戦前にも、冷静に世界の状況を分析できれば、戦端を切るような愚かな役回りをするはずはなかったのではないだろうか。小学生や中学生に地球儀を見せて、世界を相手に戦った様を説明すれば、愚かな選択をしたと子供たちは判断するのではないだろうか。社会体制の在りようを評価しても、世界史における大義ある(声明41)戦争とは言えないと断定せざるを得ない。
第3次世界大戦は起きないと考えるが、世界混乱は起きる可能性が高いのではないだろうか。 その形相は金融不安、経済不振に絡んで、世界的な規模になるのではないだろうか。先ず、アメリカと日本の膨大な債務はいずれ、破綻を迎える危険性が大であり、いずれの破綻も世界を直撃し、世界混乱の発端になると危惧される。そのとき、ちょうど第2世界大戦の戦端を切らされた悪周りを 日本が再び背負わせられる危険性が高いと、ちょうど当時の世界状況と最近の国内状況を考えながら、危惧している。この声明の趣旨は、ちょうど第2次世界大戦の戦端を切ったと同じような悪周りを、日本が世界混乱をひき起こす原因にならないように警戒すること、及び世界混乱に陥った場合の対策を国家として講じるように 注意を喚起することにある。
民主主義は本質的に衆愚政治になる危険性が高く、国民が賢明になる必要があり、全ての責任は 第2次世界大戦の苦しみと同じように、結局自分たちの上にのしかかることを国民が自戒するのは当然である。ここで、マスコミの果たす役割の重要性を指摘する必要がある。 戦前、戦中、日本のマスコミは何ら有効に機能せず、敗戦において、大きな反省をしたはずであるが、現状は如何であろうか。ただ雑な情報を流したり、偏っていたりして、国家と国民を導く、重要な役割を果たしてはいないと評価せざるを得ない。マスコミは賢明になり、きちんと的確に情報を掌握し、適切に国民に提供するように期待する。また、国を導く建設的な提案を積極的に行って頂きたい。日本の言論界の在りようとレベルも同じようなものであると言える。
ところで、上記、世界混乱を避けることができたとしても、永く苦しい時代を 日本は世界と共に 耐えることになるだろう。そのような時代への準備も 多面的に講じる必要があるのではないだろうか。 要の心得は 国際社会そのものである アメリカ、中国、EUとの友好親善関係を大事にして、徹底的に耐えることではないだろうか。日本の文化力は戦前以下であり、欧米のレベルに いまだ達していないと考える。
再生核研究所声明 102(2012.10.10): 成果主義の弊害について
特に アメリカからの影響と考えられるが、成果主義という 概念と言葉 が世に氾濫して、のんびりとしてはいられない世相 になって来ている。これは 優雅な感じであった ポルトガルでも 年年ひしひしと感じられる状況である。主に大学で暮らしてきた者なので、大学を主に想定しながら、その弊害を考察して置きたい。
背景であるが、アメリカでは、 多様な人種、民族が共生し、自由と平等、正義と公正 を建国の精神としており、そもそも客観的な評価を行なうは それらの基礎であり、そのために、評価システムについては 良くも悪しくも、世界で最も発展していると考えられる。それゆえに、評価、成果主義の背景には 普遍的な要素があると考えられる。正当な評価の客観化である。それらに加えて現れた要素として、財政状況が厳しくなり、 資金配分の効率化の観点から、重点配分や競争的な資金の配分である。こうなると、良い成果が挙げられる計画、貢献できるところに重点的に配分するという考え方から、成果主義の観点が強まって来る。
これらは、資金や待遇の配分に関する考え方であるが、人物評価と研究資金や予算の配分に分けて考えよう。
人物評価についてであるが、これは給与や昇任における評価で、当然、多様であり、複雑で、日本には伝統的に いわゆる 年功序列の基本的な考え が有ったが、何らかの客観的な指標によって人物を評価して、それらの指標によって処遇しようということである。
典型的なのは、大学では、研究業績、教育実績、社会貢献、学内行政貢献度などで 評価が数値化され、それによって 給与に反映されるような状況が現れている。いろいろな組織・社会でもそのような傾向が現れているのではないだろうか。
人物評価ばかりではなく、予算配分でも、期待される貢献度に応じて、資金を重点的に配分していくことは 貴重な予算を使う立場からは当然である。
上記のように考察すると、評価、成果主義には当然の背景があり、基本的に諒であると考えられる。しかし、特に 成果主義 には 何か嫌な語感が するのではないだろうか。そのような暗い面について 考察して置きたい。
そこで始めに ウィキペディア から、状況を押さえておこう:
労働意欲の向上 [編集]
成果主義により、向上心がある人は、より自分を高めようと努力する。
残した「成果」の高い人が、「成果」の低い人よりも多くの仕事をしている(成果をあげている)にもかかわらず、給与面での差が小さい場合、不満につながり、結果として商品の生産性や品質が落ちる可能性があるが、「成果」で給与を査定することにより、高い生産性を維持できる(と期待される)。しかし、成果主義による目立った成功例がなく、合理的でないとの指摘もある。また、従業員の会社への信頼感が低下して社員の能力の弱体化に繋がるとの発表もある(企業活力研究所[1])。
成果主義の欠点 [編集]
客観性のない基準 [編集]
成果は、売り上げ以外だと「品質向上の度合い」や「社員の技術力」など数値で表すことができず、客観性を見い出せないものも多い。査定者が人間である以上、査定者の基準次第で貢献量に対して成果が食い違うといったことになりがちである。査定者が社員に近いと、無意識に評価にバイアスがかかってしまう可能性もある。
また、査定基準の設定次第では「貢献したのに評価が下がった」「がんばっても評価が上がらない」という事態にもつながる。また、経営者側が単に「人件費抑制」のために成果主義を導入し、査定者が(個人的に)気に入らない従業員に対し、主観的・恣意的に悪い評価をつけ、従業員全体の人件費を抑えるケースも間々ある。
挑戦意欲の低下 [編集]
売り上げや品質が下がれば「成果が下がった」と見なされやすい。そのため、「売れるかわからない=査定が下がる」リスクが大きくなる新規の商品や意欲的な商品、そして冒険的な商品には誰も担当したがらなくなり、「安定して高い売り上げが期待できる=査定が上がりやすい」人気商品や定番商品だけにしか人材が集まらなくなる。さらに、それでも挑戦したい者がいても、巻き添えで査定を下げられたくない雰囲気になるため反対意見が続出し、失敗するリスクが高いと考えられる商品は企画が通りにくくなる。そのため、製品ラインナップには人気・定番商品のみが並ぶようになり革新的な商品・技術が生まれにくくなってしまう。
短期的な目線・結果だけの追求 [編集]
将来性といった長期的な貢献や、意欲や途中の過程(プロセス)はほとんど評価されない。そのため、後につながる商品や技術を開発したとしても目標が達成できなかったり、売り上げが低かった場合は評価が上がりにくい。そのため自主目標を設定できても短期的なものかつ達成しやすい内容になってしまう(目標を達成しても、それに対する手当や報酬が支給されるとは限らない)。
横のつながりの希薄化 [編集]
他人あるいは他部署に技術を教えるということは、すなわち相手に成果を上げさせ、自分が蹴落とされることになる可能性がある。そのため部署間はもちろん、制度によっては先輩・後輩間でも技術の継承が希薄になってしまう。また他部署が優秀な技術を持っているのにそれが使えない・使いたくないという事態につながり、効率や品質が悪化してしまう。
導入したものの頓挫した例 [編集]
いちいち容易に想像されることがよく纏められている。 要点は次のように纏められるのではないだろうか。
1) 適切な評価ができるかの 評価の問題。 特に、本来の業務や職務とは 無関係な指標で 評価している状況は 世に多いと言える。
2) 評価をあからさまに行うことの 人間関係への悪影響、競争的な感情が人間関係を悪化させる要素、評価される側も、する方も 嫌な感情を重く持つ。
3) 評価し、実行するための要務の増大。
何でも行き過ぎは良くなく、 評価は簡単な方法で、あまりぎすぎすさせないように、あまり成果、成果といった雰囲気にならないように配慮するのが 良いのではないだろうか。
余裕を持った柔軟性のあるやりよう、扱いが大事ではないだろうか。その方向での基本的な考えは、年功序列の考え方の良い背景、生活権、基本的な生存権における対する優しい配慮ではないだろうか。世に多く現れた現象は ぎすぎすした世相、成果が上がった、努力したようにみせかける 様々な見せかけの書類作りや演出 ではないだろうか:
そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える(再生核研究所声明 15: 空虚な日本の社会)。
評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明 70: 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。
以 上
あく‐びょうどう 〔‐ビヤウドウ〕 【悪平等】
[名・形動]何もかも一律に平等に扱うこと。形の上だけ平等にして、かえって不公平になっていること。また、そのさま。「頭割りでは―な仕事だ」
近年いろいろな計画や政策が、場当たり式で、もともと見方が甘いずさんな計画である事が、到る所に見出されるのではないでしょうか。
全てが場当たり式、短絡的な計画が多くなされていると思います。
その原因は、深いのですが、一つの観点として、成果主義の導入 風潮があるのではないでしょうか。
最近話題になったAIGの役員のボーナスが巨額で、しかも破産寸前に追い込まれています。
成果主義をとると、関係者は、自分の在任中に見かけ上最大の成果が上がる様に、考えがちです。
するとその後は、どうでもよいという考え方になってしまいますから、極めて危険な経営のあり方になってしまいます。
これと同じようではないでしょうか。
関係者は、自分の在職中に、成果を上げたいと思い、後の事は、十分な配慮がなされなくなってしまうのではないでしょうか。
これでは世の中上手くいくはずはないのではないでしょうか
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