2017年11月11日土曜日

ノーベル賞・益川敏英氏 物理学者の忖度しないイチャモン節

ノーベル賞・益川敏英氏 物理学者の忖度しないイチャモン節

 
理論物理学者の益川敏英氏といえば、ノーベル賞受賞の喜びを取材にきた記者やカメラを前にして、万歳のポーズをとりながら「わぁ~、うれしい、なんてやらないよ」と笑顔で応対し、へそ曲がりな対応を繰り返した。その一方で、同時に受賞した南部陽一郎氏について「南部先生にとっていただいたことが一番うれしい」と涙ながらに話すなど、愛すべき人柄も伝わった。その益川氏と対談した、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、本物の科学者について考えた。
 * * *
 2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英先生と先月、対談した。医師らが集まる会が主催した市民公開講座で、「今をどう生きる──子や孫が安心して暮らせる社会をどう残すか」というテーマで語り合った。
 ノーベル賞受賞の連絡が入ったとき、「たいしてうれしくない」「科学をやっているのであって、ノーベル賞を目標にやってきたのではない」と言い切った益川先生。
 骨太で、ひとクセある益川節が、対談でも炸裂。会場からはひっきりなしに笑いが起こった。ぼくもすっかり、その人柄に惚れてしまった。
 益川先生は、「いちゃもんの益川」という異名をもつ。名古屋大学の坂田昌一研究室で研究者生活をスタートさせたのだが、そこではみんな「二つ名」を持っていた。
 日本を代表する物理学者の坂田先生は、「屁理屈の坂田」を自称。議論好きだった益川先生は「いちゃもんの益川」と名乗った。
 いちゃもんをつけるのは、今も変わっていないようで、特定秘密保護法や安保法制に反対する発言を積極的にしている。研究だけしている「専門バカ」とは違う。世の中にモノ言う物理学者なのだ。
 特定秘密保護法については、市民の知る権利が大幅に制限され、取材・報道の自由、表現・出版の自由、学問の自由など、基本的人権が著しく侵害される危険があると抗議している。
 これをテレビで発言すると、ほどなくして外務省関係者が数人、大学の研究室にやって来た。懐柔しに来たのだろう。
 そのとき、益川先生は「原爆の父」といわれる物理学者オッペンハイマーのことを話したそうだ。オッペンハイマーは、巨大な破壊兵器を持つことで戦争の抑止力になると信じて原爆を開発した。
 しかし、広島・長崎で使われ、「我は死神なり。世界の破壊者なり」と後悔。次の水爆の開発に反対したことで、彼はソ連のスパイとでっちあげられ、研究者生命を事実上奪われた。科学者同士の嫉妬があったかもしれない。水爆の父エドワード・テラーと対立したことは大きかった。アメリカの原子力委員会はオッペンハイマーを休職処分にし、生涯FBIの監視下に置いた。
 益川先生は、科学が権力や戦争に利用されてきた歴史を苦々しく思っていた。二度と過ちを繰り返さないためにも、国家権力には「秘密」を握らせてはいけないという思いで、この話をしたのだろう。
◆科学者と「空気」の闘い
 科学は長い歴史のなかで、文明や社会を発展させてきたが、黒い歴史もある。つねに権力や戦争が、科学を利用しようと、魔の手をのばしてくる。
 ベトナム戦争当時、アメリカはジェイソン機関というものをつくり、ノーベル賞級の科学者にベトナム人を効率よく殺す方法を議論させた。一度、巻き込んでしまえば、戦争反対とは言い出しにくくなる。
 権力側は、豊富な資金も広報手段ももっている。研究内容は軍事に関することではなくても、軍事関係機関から研究助成を受ければ、それが目に見えない縛りになる。いや、軍事関係機関でなく、国の助成を受けているだけで、国の方針に反するのはおかしいといわれることもあるそうだ。
 真理を探究する科学の徒にも、「空気」はのしかかるのだ。科学者がそうした空気に染まらないようにするにはどうしたらいいのだろうか。益川先生は、科学者も一般の生活者だということを忘れてはいけない、と強調する。
「生活者オンチではダメだ。世の中の流れを知らなくちゃダメなのだ」「科学者である前に人間たれ」
 益川研究室の壁には、「戦争を目的とする研究と教育には従わない」「軍関係機関とは共同研究せず資金も受け入れない」という名古屋大学平和憲章が掲げられている。1987年に自ら呼びかけて作成したものだ。
 益川先生は、浪花節なところもある。ノーベル賞受賞の報に際して、「(師匠の)坂田先生がノーベル賞をとれなかったのは、弟子である私たちがだらしなかったからだ」と語った。同じ年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏には、最大の敬意を示し、我が事以上に喜んでいる。本物は本物を知る、ということだろう。
 科学というのは、壮大な知のバトンタッチだ。先人たちの血のにじむような研究が少しずつ積み重なって、今につながっている。
 一人の偉大な業績は、その人だけのものではない。過去の何人もの科学者が渡してきたバトンが、自分の手のなかで形になったにすぎないことをよく知っている。だからこそ、本物の科学者は科学を私物化しないのだ。
●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に、『検査なんか嫌いだ』『カマタノコトバ』。
※週刊ポスト2017年11月17日号


とても興味深く読みました:


再生核研究所声明 390(2017.10.31):  人間は 何をしているのだろう。
高い山の頂きから人里を見ながら、ふと思う。人間は一体何をしているのだろうかと。人間はもちろん、生物であり、動物であるから、生命の本質である本能原理に動かされていることは歴然である。動物が争い、食し、朽ち果てていくのを見ると 同じ生物としての哀しい定めに共感、共鳴を覚える。人間が何をしているのかと思えば、多くはそれら本能原理に占められていることを実感する。まず、生きること、家族、家庭を大事にして仲間と助け会う、少しばかりは安定し、それぞれの社会で良い関係 立場に立ちたい、それらは分かり易いが 多くの人間の共通する部分で、それらのための努力が人生の大部分である。政治家が 生活が大事だというとき、それらは、居、食、住、民政を整え、安心して暮らせるような社会を目指していると言えよう。問題はそれらで人生の大部分に成っている現実である。それらの基礎において人間は相当に同じようではないだろうか。
このような生物的な基本が満たされたら、人間は一体何をなすだろうか。人間はその先、何をなすように作られているのだろうか。退職などして、大きな自由を得たとき、人間は何をするだろうか。もちろん、喜びや感動をしたい、良い気持ちに成りたいのである。人間進化の先、人間は一体何を求めるように作られているのだろうか。人間いったい何をなすべきか。
人生とは一体何だろうか。人間は一体何を目指しているのだろうか。社会も人も、生きよ、生きよと言って、生きることをひたすらに求めている。しかしながら、生きるということの意味は それではそれは何だろうか。ただ生物が生きるように 少しでも永く生きていれば良いのであろうか。- もちろん、生きて存在しなければ始まらない、それは生命の基本定理である。その先の意味を求めている。物心つく前の天才少年の様は その観点から極めて興味深く、進化する人間の姿として考えられる(再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える。)
このような問題意識を抱くこと、それ自体が人生についての ある迷いの表れである と言える。そこで、人生の原理を確認したい。われ思う故に我あり、生きて存在しなければ始まらない。人生の意義は 感動することにある。人間の生きる究極の在り様は 真智への愛 - 神の意志を求めること にある。
人は、好きなことを求めて行くということである。志が有ったり、好きなことがきちんとあって個人的にも社会的にも調和していれば それは幸せな人生と言えるのではないだろうか。
人生について語れば、曖昧にならざるを得ない。人の心は 内と外の環境で揺れ動くものである。

同じような心境で書いた次も参照:
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察

以 上

再生核研究所声明 395(2017.11.5):  ゼロ除算物語 - 記録、回想
ゼロで割る問題は、ゼロ除算は 2014.2.2 友人二人に100/0=0を認識したとメールしてから、面白いいろいろな経過があって発展している。 再生核研究所声明や解説などで経過を述べてきたが、印象深い事実をできるだけ事実として記録して置きたい。文献は整理して保管するように整理して置きたい。事実を記録するため、以下詳しい記録は特別な仲間以外は この世を去って3年間は未公開としたい。絶えずできるだけ更新、記録を随時追加していきたい。
2017.11.05.05:40 晴天


再生核研究所声明 394(2017.11.4):  ゼロで割れるか ― ゼロで割ったらユークリッド以来の新世界が現れた
ゼロで割る問題は、ゼロ除算は Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスはゼロ除算の不可能性を述べていたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べている。
まずゼロで割れるか否かの問題を論じるとき、その定義をしっかりすることが大事である。 定義をきちんとしないために空回りの議論をしている文献が大部分である。何十年も超えて空回りをしている者が多い。割れるとはどのような意味かと問題にしなければならない。 数学界の常識、割り算は掛け算の逆であり、az =b の解をb割るaと定義し、分数b/a を定義すると考えれば、直ちにa=0の場合には、一般に考えられないと結論される。それで、ゼロ除算は神でもできないとか神秘的な議論が世に氾濫している。しかしながら、この基本的な方程式の解が何時でも一意に存在するように定義するいろいろな考え方が存在する。有名で相当な歴史を有する考え方が、Moore-Penrose一般逆である。その解はa=0 のとき、ただ一つの解z=0 を定める。よって、この意味で方程式の解を定義すれば、ゼロ除算 b/0, b割るゼロはゼロであると言える。そこで、このような発想、定義は自然であるから、発見の動機、経緯は違うが、ゼロ除算は可能で、b/0=0 であると言明した。Moore-Penrose一般逆の自然性を認識して、ゼロ除算は自明であり、b/0=0 であるとした。
それゆえに、神秘的な歴史を持つ、ゼロ除算は 実は当たり前であったが、現在でもそうは認識されず混乱が続いている。その理由は、関数 W = 1/z の原点での値をゼロとする考えに発展、適用するとユークリッド以来、アリストテレス以来の世界観の変更に繋がるからである。1/0は無限大、無限と発想しているからである。実際、原点の近くは限りなく原点から遠ざかり、限りなく遠くの点、無限の彼方に写っている歴然とした現象か存在する。しかるに 原点が原点に写るというのであるから、これらの世界観は ユークリッド空間、アリストテレスの世界観に反することになる。それゆえに Moore-Penrose一般逆は一元一次方程式の場合、意味がないものとして思考が封じられてきたと考えられる。
そこで、この新しい数学、世界観が、我々の数学や世界に合っているか否かを広範囲に調べてみることにした。その結果、ユークリッドやアリストテレスの世界観は違っていて、広範な修正が必要であることが分った。

そこで、次のように表現して、広く内外に意見を求めている:

 Dear the leading mathematicians and colleagues:
 Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16.  
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
 三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40) 
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:

 

数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学

www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上

再生核研究所声明 393(2017.11.3):  ゼロ除算の認知と真相の解明、究明を求める

ゼロで割る問題、ゼロ除算は 狭くは Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスがゼロ除算の不可能性を示していたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している状況である。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べて、 次のように表現して、広く内外に意見を求めている:

 Dear the leading mathematicians and colleagues:
 Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hi roshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16.  
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
 三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40) 
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:

 

数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学

www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上

再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について
平和が永く続くと歌謡界、スポーツ界、芸能界など、重層に深く発展して、いわゆる一般の人たちには近づけない形相を帯びてくる。NHK大河ドラマや朝ドラなどの映像など 高級でどうして作れたか不思議でならない。しかし、ここに挙げた分野などでは、それらの良さが一般の人たちにも理解され 楽しませてくれるので、社会貢献、社会の役割などは相当理解できる。
このような視点から、数学について考えてみたい。人類精神の名誉のため の研究ではなく、専門外の人にとっての数学である。
まず、数学の役割であるが、それはギリシャ時代以来、数学の学習を通しての論理的な思考の訓練と、科学を記述する言語としての数学教育が重要視され、実際、各種入試などでは 数学の学力は重視されてきている。- これらの要請は、計算機や人工知能が 発達しても当分 本質は変わらないと言えるだろう。しかし、これらの状況に従って、カリキュラムの在り様や、教育の精神は絶えず変更が必要であろう。
上記に述べられている内容については、素材は相当に固まっていて、教育内容は安定していると見られるのではないだろうか。
そこで、日進月歩の数学研究内容の高度化と深さは、他の分野に比べて、数学の抽象性もあって、理解が困難で、専門家の間でさえ交流できない状況は普遍的見られる。一般人にとっては、大抵は始めから話題にもできず、内容の理解の最初の1歩さえ、踏み込めないであろう。すなわち多くの研究成果は、社会的にも一般の人にも何にもならない内容であると考えられる。しかし、物理的な問題、医学的な問題など具体的な問題解決の観点から等 具体的な研究の位置づけのある研究は 何も一般人に理解できなくても 当然そのような研究は十分に意義があることは誰にでも分かるだろう。しかしながら、数学内部から湧いた純粋な数学の内容は高級で、抽象的で、理解もできず、興味、関心を呼び起こすことは相当に難しいのではないだろうか。そのような課題は、数学界以外では ほとんど意味がないと言われかねない。これが現代数学における純粋数学の姿ではないだろうか。
もちろん、人類の名誉のための 自由な研究は それ自体 誠に 尊いものである。しかしながら、数学界が社会でより安定的な存在になるためには、高等数学より、基礎的な数学を重視し、数学の興味や好奇心を駆り立てる教育的な視点を強めていくのが 良いのではないだろうか。教育より研究であるという発想は、高等研究機関や大学などでは当然、としても 広範な大学や学校では勧められない発想ではないだろうか。 評価、評価の世相が 研究や形式的な研究業績などに拘りすぎている世相が無いかと気になる。数学の教育や数学の社会的な存在性に配慮していきたい。― 何のための数学かとは 絶えず問うていきたい。
数学の研究ではなく、数学を楽しんでいるような先生は、教授は世に必要であり、良い先生であり、良い教育者ではないだろうか。世情、研究者自身本意ではない つまらない抽象的な研究に走り過ぎてはいないであろうか。楽しむような数学を世に広めたい。― もちろん、これは一面の観点である。
以 上

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