2017年11月23日木曜日

前文部科学事務次官いわく、ネトウヨは「教育の失敗」 前川喜平×寺脇研『これからの日本、これからの教育』を読む - 辻田 真佐憲

前文部科学事務次官いわく、ネトウヨは「教育の失敗」 前川喜平×寺脇研『これからの日本、これからの教育』を読む - 辻田 真佐憲

前文部科学事務次官いわく、ネトウヨは「教育の失敗」 前川喜平×寺脇研『これからの日本、これからの教育』を読む - 辻田 真佐憲 
文部官僚は地味と寡黙で知られる。政治家にほとんど転ぜず、著作も少ない。それゆえ、まずは物珍しく読んだ。先日発売された、前川喜平と寺脇研の対談本『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)である。
 対談者のふたりについて詳しい説明はいるまい。前川は加計学園問題で一躍有名になった前文部科学事務次官、寺脇は「ゆとり教育」の推進で知られる元文部官僚だ。

前川喜平前文科事務次官 ©三宅史郎/文藝春秋

ネトウヨは「学び直す機会が必要」

 能弁な寺脇にくらべて前川は控えめながら、ときおり驚くような発言をする。
「『ネトウヨ』といわれる人たちは、きっと自己肯定感の低い人たちなんだろうと思います。『個の確立』ができていないのでしょうね。ある意味、教育の失敗だと思います。学び直す機会が必要なんじゃないでしょうか」
 教育行政の事務方の前トップから直々に「教育の失敗」と認定され、「学び直せ」といわれるネトウヨもなかなかに哀れである。「ひとりひとりの学ぶ権利の保障」を丁寧に説く前川だけに、その放言はいっそう際立つ。よほどネット上の批判が腹に据えかねたのだろうか。
 このほか、官房副長官(当時)の萩生田光一が事務次官会議で『シン・ゴジラ』を「ぜひ観るように」と話していた、文科省時代の前川のノートパソコンの待ち受け画像がチェ・ゲバラの肖像写真だった、などのエピソードも興味深い。

前川喜平元次官 ©三宅史郎/文藝春秋

良くも悪くも「役人」というキャラクター

 ただ、全体的にはやはり物足りないといわざるをえない。
 前川については、一方では聖人化され、もう一方では悪魔化され、両極端な見方が強い。だが、じっさいはそのどちらでもなく、元行政官がたまたま目立ってしまったにすぎない。
 自身が取り組んできた仕事については熱心に話すし、その内容は大きく間違ってはいない。そのいっぽうで、自身が詳しくない、思い入れのない分野については、あまり語ろうとしない。ときおり放言もする――。これは、元行政官でも、元会社員でも、同じことだろう。

寺脇研氏 ©山田真実/文藝春秋
 たしかに、対談相手の寺脇は、後輩で部下だったこともある前川に甘すぎる。天下り問題や大学行政の問題(予算削減による研究環境の悪化)などについて、もう少し追及があってもよかったはずだ。
 とはいえ、それもおのずと限界がある。前川は良くも悪くも「役人」で、キャラクター化がしにくい。叩いてもたいしてホコリが出ない。奇人変人のオンパレードだった森友学園問題の登場人物たちとはそこが大きく違うところだ。

官邸文部局という実際と、文科省なりの戦い方とは?

 文科省は、所管する教育こそ重要(国家百年の大計)だが、それを自前で切り盛りする力がない。そのため、旧文部省の時代から、力のある組織に左右されてきた。
 戦前には、内務省に支配されたので、内務省文部局と揶揄された。そして戦中には陸軍省文部局。敗戦後にはCIE文部局(CIEはGHQの特別参謀部。民間情報教育局)。高度成長期には自民党文教局もしくは日経連教育局……という具合だ。
 それゆえ、加計学園問題をめぐって、今日の強大化する首相官邸や、その威を借りる内閣府に影響されていたとしても何の驚きもない。
 ただ、「影響」といっても、文科省なりの戦い方はあるらしい。本書の、教育再生実行会議について触れた部分でそれが感じられた。

2017年5月に開催された教育再生実行会議 ©時事通信社
 教育再生実行会議は、安倍首相の私的諮問機関で、保守系の言論人が多数メンバーとなっている。前川はそのメンバーについて「はっきり言って偏っています」と断言し、中央教育審議会を使って、教育委員会の見直しに関し「もう少しバランスのとれた考え方にしようと、修正を図りました」と述べている。

元文部官僚の内輪話を読める機会はあまりない

 まさに面従腹背だが、このようなフィルタリングこそ、文科省が果たすべき役割のひとつなのだろう。そうしなければ、文科省は、官邸文部局、内閣府文部局に成り下がってしまう。
 もちろん、これはこれで、政治主導が官僚の思惑で骨抜きにされかねないという懸念も残るのだが。
 いずれにせよ、このような元文部官僚の内輪話を読める機会はあまりない。私はかつて『文部省の研究』を書いたとき、資料集めに大変苦労した。世間を騒がす加計学園問題にも、思わぬ拾い物があったわけである。

 
(辻田 真佐憲)http://blogos.com/article/260823/




再生核研究所声明 76(2012/2/16)  
教育における心得 ― 教育原理
                                            
人間の教育には微妙で複雑な要素がある。 その要点について触れ、教育の原理に思いを寄せたい。 また、学校教育や、家庭教育、人間の在りようの心得としたい。
教育とは要するに、 外なる刺激で、人間の成長、発展を促すことであるが、要点は外なる刺激が、個々の人間にどのように影響して、好ましい影響を与えるかである。
好ましい影響とはそもそも何であろうか。 簡単に考えれば、次が 基本ではないだろうか:

個人の才能を伸ばしたり、活かしたり、 究極には個人が幸せになること、 

および

良き社会人になり、社会に貢献できるような人間に成長できるようにすること。

両者は矛盾するものではなく、表裏一体、車の両輪と言えるだろう。なぜならば、 人間は 社会の中の存在だからである。
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。
日本の大きな教育目標が 本来あるべき教育の理念からずれ、受験勉強やそのための学力を付ける いわゆる科目の勉強に重点が行き過ぎてはいないだろうか。 ひどい場合だと、ただ良い大学に入ることばかりが目的で、文科系を専攻したいのに、理工系,医学系が 評判が良いので 評判の良い方に入学したということは 世に多い現象である。 また、近年はいわゆる名門大学に入るために、 小さなころから 塾通いをしたり、入試を有利にするために、専門的な学校に入学して、特訓をしている場合が 世に多いのではないだろうか。
これらは、昔の軍国主義教育と同じように 何か変な教育で、おかしな人間を大量に育てているのではないかとの危惧の念を抱いている。また入試の共通テスト方式の悪い影響を危惧したり(再生核研究所声明 20:大学入試センター試験の見直しを提案する)、貧しい、競争をあおる風潮にも懸念を表明したり(再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)、 天才教育などに対する配慮なども提案している(再生核研究所声明 60: 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会)。
そのような面からも、日本の教育の在りようについては 初心に戻って考え直す必要が有るのではないか(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)
と、 再検討を広く訴えたい。
EUやアメリカでは、日本のような上記教育問題が 顕在化していない様に見えるが、実体の解明と比較検討は 大いに参考になるのではないだろうか。
もちろん 教育の問題は、人間存在の意義 と同じく、永遠の問題であり、絶えず、各級で検討され続けて行かなければない。

以 上

再生核研究所声明 123 (2013.8.18): 日本国の自立を求めて ー なぜ自立を求めるか -それは、 日本の固有の美しい文化を維持、発展させるためである

(2013.8.10.08:35 再生核研究所代表と電車の中で話しているときに、突然、自然に構想が湧いたものである)

植民地支配を受けた多くの国が、文化面ばかりではなく、経済的にも豊かになり、反って植民地支配の恩恵を受けているようにみえる状況は 広く見られる。このような場合、 自立とか、独立は 反って変な状況をもたらす面も無いとは言えない。もし悪い政府に帰属されれば、そのような存念を一層深めるのではないだろうか。
日本国とて、敗戦によって、自由と民主主義が与えられ、女性の解放、多くの良き明るい文化をもたらされた面は多く、そのような点では 戦勝国アメリカに対する、謝意と敬意を抱くのは当然である。
しかしながら、日本国は より自立した国家を目指すべきである。その主な理由を 簡潔に纏めてみたい。
アメリカに一層従属していれば、戦後アメリカが侵してきた軍事面での失政に 同盟国としての参戦 あるいは、軍事的な貢献は 実際避けられなかったろう。ベトナム戦争、その後におけるアラブにおける軍事介入など、アメリカの大義なき戦争への参戦である。すなわち、アメリカに対する盲目的な従属は危険であり、命も 経済面での損失も計り知れない犠牲を強いられたであろう。- ここで、アメリカと一緒に 軍事、経済を同盟国として、一緒に進めたいという考えには 一理あると考えるが、再生核研究所の志向は、自立した国家として、適切に助言し、共に世界史の進化を志向しようとの考え方である(再生核研究所声明 25:日本の対米、対中国姿勢の在りようについて)。アメリカ国民にとっても、上記ベトナム戦争や、アラブ軍事介入などは望ましいものではなく、そのような愚かな方向に行かないように同盟国として、頼られ、信頼される国家たるを目指すべきである。
上記のように敗戦によって、大きな明るい文化がもたらされたことは高く評価されるが、他方、ここ60年を越えて、日本固有の美しい文化が侵され、競争社会、評価主義などがグローバリゼーションの名の下に広範な影響を受けて、日本社会が暗い、悪い方向に向いている状況が 顕著に出てきている。
対アメリカと比較すれば、多くは、日本社会や日本文化の方が優れているのに、反って悪い社会や低質な文化を受け入れているように見える。
現在のような 従属的な在りようを続ければ、どんどん日本の美しい文化が侵され、日本国の 日本国たるもの を失ってしまうのではないかと危惧される。
しかるに、少しでも自立した真面な国家を志向しようとしたら、マスコミを始め、検察や言論界など政界に圧力をかけて、アメリカ従属姿勢を志向し、日本国の自立を自ら放棄しているように見えるのは はなはだ残念である。
当たり前の、自立した真面な国家を目指そうではないか。そのような方向で、世界史の進化を志向し、世界に貢献していきたい。 基本は、平和憲法の精神で、平和憲法の維持によってできると考える。
以 上

付記:
3.30 美しい国、日本(2008/2/11):

今日は、建国記念日です。日本には、世界に誇るべき美しい文化と人類を導く良い考え方があると思います。 多額の借金と少子化及び教育の荒廃によって、このままいくと日本国は、衰退の道を辿る事にならないでしょうか。 何とか、日本国の再生を期したいと思います。 もちろん、日本国の神話は大事にすべきではないでしょうか。

美しい国、日本

日本は美しい島国です。
豊かな水で多くの川が流れています。
日本には山が多く、山々は緑に覆われ、また雪に覆われたりしています。

日本の空と海は美しく、多くの詩と夢を育んできました。
日本は大きなひとつの家族のようで、みんな一緒に助け合ってきました。
言葉がなくてもお互いに理解でき、細長い国のため、四季とともに多様性にとんでいます。

日本には天皇陛下がおられて、家々の氏神様の頂点におります。 
天皇陛下のおられる皇居は 日本の美しいものの、心の源になっています。
ですから先の大戦では 天皇のお言葉一つで 完全なる終戦を迎えることができたのです。

京都は千年をこえる日本の都でしたので、日本人の故郷です。
多くの人は京都を訪れて、故郷に帰ったような不思議な郷愁を感じるのです。
伊勢は古代からより古い日本人の故郷です。ですから日本の首相は新年にまず伊勢神宮を参拝するのです。

日本の文化には 自然とともにある繊細さがあります。俳句や和歌を多くの人々が愛でて、人に優しく気遣いができるのです。遠くのインドのお釈迦様の教えや中国の孔子様の教えが、美しい風土からうまれた神道と共に溶け込んでいるのです。

これが世界に唯一つしかない 美しい日本国です。
 
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!

日本の借金、初めて1000兆円超える
http://www.afpbb.com/article/economy/2961007/11157482

日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
アメリカから自立しようとする政治家を、Y新聞グループや
T地検特捜部を使って、日本人自身の手で葬り去るやり方は
欧米の植民地支配そのもの
この状態から抜け出すのは不可能 


再生核研究所声明902012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察

世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。

再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する

センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
 
1)     センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2)     教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3)     センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4)     永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5)     2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6)     センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7)     センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8)     共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。

以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては

1)     大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2)     逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3)     センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。

等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。

以上



特に次の観点を指摘して置きたい:

1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。

上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで  画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以  上

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