2017年11月20日月曜日

円周率πが現われる世界(4)-3月14日は円周率(π)の日-


円周率πが現われる世界(4)-3月14日は円周率(π)の日-

保険研究部 取締役 研究理事 兼 年金総合リサーチセンター長   中村 亮一 
 

はじめに

3月14日は何の日か、と聞かれたら、多くの人は「ホワイトデー」1だと答えるだろう。間違っても「円周率(π)の日」だなどと答えようものなら、冷たい視線を浴びることになるかもしれない。

ところが、3月14日は、れっきとした世界的にも認められた「円周率(π)の日」ということになっている。

今回は、この「円周率(π)の日」について紹介する。 

1 日本においては、3月14日はホワイトデーとして知られているが、ホワイトデーの習慣は日本で生まれたもので、中国・台湾・韓国など東アジアの一部でも定着しているが、欧米ではこういった習慣は見られない、というのは有名な話である。

3月14日は、世界の多くの国で「円周率(π)の日(Pi Day)」

世界の多くの国で、円周率πは3.14と表記されることから、3月14日は「円周率(π)の日」とされている。π=3.14159……であることから、この日の1時59分か15時9分にお祝いが行われ、パイを食べたり、πについて議論したり、映画「π」2を鑑賞したりして、祝うとされている。

米国の下院では、2009年3月に、3月14日を「円周率の日(Pi Day)」とし、学校でこの日を利用して、生徒に円周率について教え、「数学を学ぶ魅力を伝える」よう呼びかける決議案("Supporting the designation of Pi Day, and for other purposes.")が承認されている。その制定の趣旨は、以下の通りと規定されている。

・世界中の円周率の日の指定及びそのお祝いをサポートする。
・国立科学財団の数学と科学教育プログラムの継続的な重要性を認識する。
・学校や教育者が、生徒にπについて教え、彼らが数学の研究について従事する適切な活動を観測することを奨励する。

2015年は「円周率(π)の日」にとって特別な年であった。なぜなら、米国式の表示では3/14/15(月日年)等々となるため、この日の9時26分53秒はπの最初の10桁を表していた。

米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)は、2012年から、その入学決定通知をオンラインで3月14日(Pi Day)のτ(タウ)3時刻(Tau Time)(東部標準時間)(March 14, at 6:28pm EDT)に公表している。なお、τ(タウ)時刻としているのは、ライバル数であるπとτを平等に称えるためであるとしている。 

なお、3月14日は、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)の誕生日でもある。アインシュタインは米国のニュージャージー州プリンストンに20年以上住んでいたので、この日には、通常の円周率の日に関係するイベントに加えて、アインシュタインそっくりさんコンテスト(look-alike contest)等も行われるとのことである。 

2 1998年に米国で製作された映画で、ダーレン・アロノフスキー監督による。1998年サンダンス映画祭最優秀監督賞や1999年インディペンデント・スピリット賞脚本賞を受賞した。常人離れした知能指数を持ち、世界を解明する究極の数字に取り憑かれた天才数学者マックス・コーエンを描いた異色のSFサスペンスである。男は自作のスーパーコンピュータを使ってカオス理論に基づいた株式市場予想の研究をしていたが、πの216桁の数字が持つ不可思議な魔力に取り付かれていくことになる。
3 τ(タウ)は、一部の研究者によって、円周率πに代わるべき定数として提唱されている数であり、円の半径に対する円周の比として定義されるもので、その値は2πに等しい。

日本における3月14日は

日本においては、日本数学検定協会が、3月14日を、円周率(π)の近似値3.14に因んで、1999年に「数学の日」と定めている4。数学を生涯学習として、子どもから大人まで楽しめるものに発展させようと制定したものとしている。日本数学検定協会はこの日に照準を合わせた各種イベント等も開催している。

また、同じく円周率(π)の近似値3.14であることと、バレンタインデーのお返しの日としてのホワイトデーに、生地を何度も折り返し、層を重ねて作るパイは贈り物にふさわしい、との理由から、料理やお菓子の「パイの日」ともなっている。なお、米国でも3月14日は「パイの日(Pie Day)」となっている。念のため申し添えておくが、π(Pi)とパイ(Pie)は英語でも同音異義語となっている。

さらに、日本においては、ホワイトデーに関係して「キャンディーの日」や「マシュマロデー」に、ホワイトから化粧品会社は「美白の日」に制定している。

加えて、1873年3月14日に政府が国際結婚を初めて公式に認めるとの布告を行ったことから「国際結婚の日」にもなっている。

ただし、先に述べたように、世界的にはむしろ「円周率(π)の日」というのが、より幅広く認識されており、適切だといえるかもしれない。 

4 日本数学検定協会は、数学の日を決めるにあたり、全国の算数・数学のファン等にアンケートを実施した。最も多かったのが3月14日で42.9%、次が掛け算の九九から9月9日で30.1%、さらに1が並ぶということから、11月1日が8.3%、1月11日が7.2%だった。こうした結果も踏まえて、3月14日が「数学の日」に定められた、とのことである。

円周率(π)近似値の日(Pi Approximation Day)

世界的に3月14日は円周率πの日であると述べたが、世界では、その他に「円周率の日」または「円周率近似値の日」と呼ばれる日が存在している。

7月22日は、欧州式の表示では22/7 となるが、/を割り算記号と見直すと、この値は3.14 …となることから、この日が「円周率の日」となる。世界で最初に円周率を計算したといわれているギリシャ出身の数学者アルキメデス(Archimedes)が、これを用いて計算したとされている。

中国では、12月21日が「円周率の日」となっている。この日は新年から数えて355日目になっているが、中国の南北朝時代の数学者である祖 冲之(そ ちゅうし)がπの値を 3.1415926 と 3.1415927 の間であるとして、その率を 355/113 (=3.141592 …)と定めたことに由来している。因みに、分母にあたる1時13分にお祝いが行われるとのことである。

このように、現在一般的に知られている「円周率(近似値)の日」は、少なくとも3日存在しているが、面白いことに年末に近づくにつれて、より正確な値に近くなっている。

なお、これら以外にも、元日から314日目の11月10日や、地球が軌道上で新年から軌道の直径分進む日(すなわち、前回の研究員の眼で述べたように、πラジアンの角度に相当するだけ進む日)である4月26日を「円周率(近似値)の日」と呼んでいる国もあるようだ。

最後に

ここまで述べてきたように、3月14日は、れっきとした世界的にも認められた「円周率(π)の日」なのである。

外国人と話をしている時に、「3月14日は何の日か」と聞かれたら、「円周率(π)の日」だと答えれば、決して冷たい視線を浴びることなく、あなたは物事をよく知っている人(?)だと認識されるかもしれない。

経済的には、3月14日が「ホワイトデー」として認識されて、消費の活性化に一役買う方が、目に見える形で社会に貢献しているのかもしれない。ただし、知的好奇心を醸成し、将来的な人財育成につながるという意味においては、「円周率(π)の日」や「数学の日」として幅広く認識してもらうことも大事なことだと思われるがいかがだろうか。http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=57204?site=nli

とても興味深く読みました:ゼロ除算記念日・誕生日も・・・・

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日
                                                                                        
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0

ソクラテス・プラトン・アリストテレス その他


再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
数学の本質論については 次で相当深く触れた:
ここでは、現実の問題から、研究姿勢、路線について具体的に考察したい。
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる関係の全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになる. しかし、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、未来人が高い評価を与える場合もある。また、
デカルトの円定理:
定理は3つの外接する円に対して、それらに内接する円と外接する円の半径を、3つの円の半径で表わす公式を与えたものであるが、その公式は美しい形を有している。ところで、円の半径がゼロならば、点円、半径が無限大ならば、直線になると考えられる。後者の解釈については、ゼロ除算算法の導入で、直線とは中心が原点、半径ゼロの円と見なせるという知見をもたらした。点も直線も円の1種であるという考えから、それではデカルトの美しい定理で、円を直線や点の場合にも成り立つかと考えた。ゼロ除算算法で、2つが円で1つが点以外は、そのまま成り立つことが確認され、この例外である場合に、驚嘆すべきことが分った。3つの円が接しているとき、デカルトの定理は成り立っている。そこで、1つを点に近づけ、点に成ったときにデカルトの定理がどうなるかを調べた。点のときは内接円も外接円も存在しないから、デカルトの定理は成り立たないと考えられる。ところが、点に成ったとき、ゼロ除算算法で解析すると、その点は3つの場合に突然、変化する現象が現れた。点以外に、美しい円が2つ現れる。これらの円について、デカルトの定理を成り立たせる解釈が存在することが分った。― 点が変化して、変化した円で、デカルトの定理が成り立っている。専門家 奥村博博士と論文を執筆中である(2017.11.5.6.57)。この予稿版は2017.11.14に公刊された:https://arxiv.org/abs/1711.04961
そこで、次の研究課題として、如何に進めるべきかを考えている。当面研究課題が無い場合には、課題を探すことになる。しかし今回の場合には、次々と研究課題が存在することが分る。まずは、デカルトの円定理、外接する3つの円が、2つ交わった場合、3つ交わった場合どうなるかの問題が存在する。さらに、今回考えたように、その円の幾つかが、点や直線になった場合にはどうなるかの問題がある。それらの研究内容は今回の論文の6倍から、12倍以上の内容が存在することが予想される。数学の常道である多次元化を考えれば、それらはそれらの研究課題は20倍を超える世界で、挑戦すれば、1冊の著書と生涯の仕事に成り得ると考えられる。そこで如何に進むべきかと思案することになる。論文を出版する事が要求されている場合など、特に他に挑戦する課題が無い場合には、とりあえず、それらの大きな計画の最初の2,3歩を歩み出したいと考えるだろう。より良い課題を持っていれば、その課題に当面挑戦したいと成るだろう。その時の価値判断は 純粋な個人の思いと社会的な影響や共同研究者の意見、希望等が影響するものと考えられる。純粋な個人の価値判断と対社会的な反響に影響されることになる。このとき、その個人の数学観、人生観、価値観などが影響を与え、そのような経緯がその個人の数学を発展させていく原理になる。
今回の場合には、ユークリッド幾何学の世界は、やれば何でもできるので もはや興味も、関心もないという考えが基礎にあるが、全く新奇な現象が出ると分かれば、新規な現象になれるまでは、研究を続行したくなるだろう。人間の心とは極めて微妙で やればできるとなれば、大きな魅力は失われ、予想できない難しい分野に心が向く、真智への愛 が目覚めてくる。創造とは何か、生命とは何か、人工知能の発展とともに絶えず問われることになるだろう。人間にとって真に価値あるものとは何か。人間はどのようなものに感動を覚えるか。絶えず問うていくことになる。
                                       以 上


再生核研究所声明 401(2017.11.18):  数学の全体、姿、生命力


ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
この文脈で数学の全体と生命力について言及して置きたい。数学とは、時間にもエネルギーにもよらない関係の全体であるから、数学的な論理思考を備えた高度な人工知能が自動的に数学を発展させていく可能性を否定できない。初歩的な数学では、実際、そのような試みがなされているという。人間を離れた、数学の全体像はどのようになるだろうか。基本的な仮説の上に何でも考えて、- これはいろいろな場合に当たって 何でも試行していく方法がとられるだろう。- しかしながら、人工知能が新しい概念や、定義を与えられるかは本質的な問題ではないだろうか。このような思いで数学の全体像を想像すると、基本的な仮定からどんどんいろいろな関係を導き、それは大樹のような姿に成るのではないだろうか。数学の客観的な存在はそのようであると考えられる。
ところが現在数学は人が展開して、発展させている状況から、数学の発展は 人間によるという現実がある。数学の客観的な在りように人間が関与してくる。そこで、関与する人間の興味と関心でどんどん進む状況と他からの要請でどんどん進む方向が存在する。後者は位置づけが明瞭であるが、前者の純粋数学の発展の様は大いに注目される。共通的な興味、関心で研究者の多い分野が存在し、いわゆる権威ある者の影響で門下生が多く、深く研究が進む状況は良くみられる。有名な難問に挑戦する相当な研究者集団も顕著である。数学にもブームや流行が有って、ある時期、相当に流行って研究会などで大きな話題になった話題が20年や30年くらい経つと関与する研究者が殆どいなくなってしまう状況がみられる。
それで、数学が大きな生命力をもって発展する華やかな時代と、細分化が進み、他との関係、他に影響や関心を与えない程になって、衰退していく、いわば大木では幹の部分から小さな枝や葉の部分になって数学は終末を迎えるのではないだろうか。数学は時間やエネルギーにもよらない不変なものであるが 数学の担い手である、人間に関与していて、人間が命ある生命であるように 数学も人間の影響を受けていると考えられる。
その意味で純粋数学者は、現在の 数学の位置づけ と 自分の心 をしっかりと捉えることが大事ではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い


人間生きて居れば楽しいとき、苦しいとき、感情の起伏は避けられない。人間の感情は絶えず揺れ動くものである。数学の研究におけるそのような感情の起伏を回想しながら纏めてみたい。
研究の初期であるが、何を研究するか、研究課題の選択は非常に難しく一般には研究生活における苦しい時期ではないだろうか。もちろん好きだから数学を専攻したのだから、学んでいるときには新しい世界がどんどん広がって、楽しいが、新しい結果を得るには一般には容易なことでないと言える。広く深い現代数学において研究課題の選択は研究者の将来を相当に定めることになる。一般には好きな分野での好きな指導教授の数学の範囲での選択に成る。そこで、何か新しいことを発見、解決して、論文を出版することが大事な目標になる。論文を出版する事は博士号の取得や研究職に付くための条件に成るから、何が何でも論文を書くが 直接の目標になる。この時、手っ取り早い方法は提起されている問題を解決したり、読んだ論文の内容の一般化、精密化、類似の理論の展開などであるが、それらとて甘くはなく、いずれもそれぞれの専門家が出来なかったこと、気づかないことの発見、新規な展開だから、研究は厳しく、研究の初期は誠に厳しいものであると考えられる。- 数学を志す者にはいわば優秀な人が多く、難なくここを踏破していく者も多い。しかし、簡単に踏破していくような人は行き詰る場合も多く、苦労して研究課題を自分に合ったように選択した者は、最初は遅れても永く研究が続く面もあるようである。- この観点からは、早期の成果を期待し過ぎの風潮は問題があるのではないだろうか。何事初期の取り組みが大事なようである。専門化、高度化の厳しい現代数学、簡単には研究課題は変えられず、生涯の研究の方向は 多くは初期で決まっている現実があると考えられる。― これは何でも飛び越えていくような天才的な人を想定しているのではなく、一般的な数学者を想定している。
1つの研究課題で論文が連続的に書けるような時代に入れば、充実した研究生活で、創造活動ができる輝ける時代を歩めるのではないだろうか。新しい考えが湧いたとき、思わぬことを発見したとき、またそのような予感がする時は 研究者の充実しているときであると言える。良い考えが湧いたときなど、眩暈がするほどの喜びが湧き、それは苦しいほどであると表現できる。発見の瞬間、得た結果の評価に対する共感、共鳴は人間の最高の喜びの類に入るだろう。評価が違って共感が得られなかったり、論文執筆上の形式的な気遣いは研究生活における影の部分に成るが、それが研究の芽に成るので、苦しみも喜びの内と考えるべきである。研究課題の行き詰まりもそうである。行き詰るから新しい芽が出てくるのである。苦しみと喜びは絶えず変化し、喜びも苦しみも区別がつかず、その活動が研究生活と言える。
若い研究者の博士号取得、就職、そしてパーマネントの研究職に付くまでの厳しさは回想しても苦しい、修業時代と言える。しかしそれらが、生涯の研究の基礎に成る。
所謂論文投稿から採否決定までの間、永さは 研究者にとっては一般に苦しい状態ではないだろうか。研究成果を評価に活かせないからである。その点、インターネットの普及で論文原稿をアーカイブなどで公開できるシステムには 格段の進歩と高く評価される。- 英文書き換え要求に対して 多くは1週間かけて 進んだIBM 修正機能付きの電子タイプライターで書き替え、原稿の送付と返事にさらに2週間掛ったが、現在は、修正は分単位、何回でも書き換えができて、連絡は1日で十分である。素晴しい時代を迎えていると言える。
研究者の嫌なこととは集中している折り、いろいろ雑用が入ることではないだろうか。一心不乱に研究に専念しているとき、それを乱されるとき、本能的に嫌がるのは自然な心で、心此処にあらずの状況は良き家庭人や良き親であることの余裕を失わせ、いろいろ良からぬ家庭問題や対人関係を作りかねないと憂慮される。大学の法人化後の日本の大学の多くが研究者の大事な自由な時間と余裕を失なわしめ、逆に雑用を多くして、研究者を虐待しているように感じられる。5年間ポルトガルの大学から研究員として招待され、研究に専念できたが、過ごした経験から、あまりにも大きな違いを感じて 唖然としている。
それから、数学の研究成果の発表では 間違いをおかしてはならないことは 相当に厳しい原則であるから、投稿したら、間違いがあった、出版済みの論文に間違いを発見した等の場合には、相当ショックで、相当に苦しい心理状況に追い込まれる。研究上の相当な時間は 繰り返し不備はないか、間違いはないかの省察の時間ではないだろうか。絶えず、大丈夫か、大丈夫か、間違いはないか、間違いはないかと自問していると言える。もちろん、理論の全体の在り様に対する想いは、真智への愛 である。
以 上

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