2017年11月20日月曜日

「中動態の世界」と医療 第16回小林秀雄賞 受賞記念インタビュー 國分 功一郎氏(高崎経済大学経済学部准教授/哲学)に聞く

「中動態の世界」と医療
第16回小林秀雄賞 受賞記念インタビュー
國分 功一郎氏(高崎経済大学経済学部准教授/哲学)に聞く

 第16回小林秀雄賞(新潮文芸振興会主催)に,《シリーズ ケアをひらく》の最新刊『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)が選出された。「中動態」とは何か,それが医療とどうかかわるのか。著者の國分功一郎氏に,執筆の経緯や本書に込めた思いとともに聞いた。


――受賞,おめでとうございます。受賞を知ったときの気持ちを教えてください。
國分 受賞は青天の霹靂でした。こういう話がきた場合,「断ったほうがカッコいい」と思う人もいるかもしれませんが,私はそういうカッコつけはしません(笑)。素直にうれしく,ありがたくいただきました。
――贈呈式では選考委員の加藤典洋さんから「この本には“重さのあるわからなさ”がある」という講評がありました。これを聞いてどう思いましたか。
國分 この本では明確な結論はあえて書きませんでした。何かを主張するというより,「中動態」という耳慣れない概念を読者の心に届けて,皆さんの考えが発展する役に立てばという思いが強かったからです。こうした思いが“重さ”として届いたようで,うれしかったです。

中動態の世界は「する/される」の外側に

――そもそも中動態とは何か,教えてください。
國分 能動態・受動態とは別の,もう一つの「態」です。かつてのインド=ヨーロッパ語に広く存在していました。プラトンやアリストテレスの時代のギリシアでは,中動態が普通に使われています。
――能動態と受動態の中間,というイメージでしょうか。
國分 よくそう誤解されるのですが,違います。実はかつて,行為は「能動/中動」の対立として認識されていました。つまり,能動/受動の枠組みとは別の概念として「中動態の世界」があったのです。
――能動/受動,つまり「する/される」とは別,とはどういうことでしょう。
國分 「能動/中動」の対立では行為を「自分の外側で終わるか/自分の中で完結するか」で分類します。例えば「惚れる」というのは中動態です。誰かを“好きになろう”と意識して惚れるのではなく,好きという感情が“自分の中に立ち現れてくる”というイメージですよね。
 一方,中動態と対立する意味での能動態は,例えば誰かを「殴る」というような“他人に働き掛ける”行為のことです。このように中動態の世界では,能動態のほうも現在のイメージとは異なっていたのです。

「意志」の出現とともに忘れられた中動態

――中動態はなぜ多くの言語で失われてしまったのでしょう。
國分 言語学的には能動/中動の対立が先にあり,中動態から受動態が派生した後,能動/受動の対立へと置き換わったことがわかっています。こうした変化には「意志」という概念が関係しているというのが私の見立てです。
――意志がキーワードなんですね。
國分 実は,古代ギリシアには意志という概念はありませんでした。ところがあるとき,意志という概念が成立し,それと並行するように中動態が言語の表舞台から消えてしまいました。
――意志とは当たり前に存在するものだと思っていました。
國分 それは意志を前提とした,能動/受動の枠組みにとどまっているからです。よく考えてみると,意志という概念は矛盾を抱えていることに簡単に気付きます。
――矛盾,ですか。
國分 まず,私が意志をもって何かをするというのは,自分だけがその行為の出発点になることを意味します。つまり自分以外に別の原因があれば,自分の意志でやったことにはなりません。
 しかし,過去の出来事や周りの状況に影響されない行為などありません。だから自分が行為の純粋な開始地点となることはあり得ない。でも意志の概念はそのような開始地点を前提にしています。
 「歩く」というありふれた行為を行う場合でも,私たちは筋肉や関節の一つ一つをコントロールしてはいないし,歩き方を選んだわけでもない。「私の意志に基づいて歩く」ではなく,「私のもとで歩行が実行されている」と言うほうが実際に近いかもしれません。
――「私のもとで歩行が実行されている」とは,いかにも中動態的な表現ですね。
國分 ええ。中動態の世界は意志という前提なしに成立していました。一方,能動/受動の枠組みにいる現代の私たちは,あたかも全ての行為には明確な意志が先立っているように感じてしまう。意志という概念は極めて曖昧なものであるにもかかわらず,私たちはこの存在を信じて,ある意味「無理をして」使っているのです。

中動態は医療の可能性をどう開くか

――中動態と出合ったのはいつごろでしたか。
國分 中動態という概念自体は大学生のころから知っていました。重要な概念だという印象は持ちながらも,どういう問題と交差するのかがわからなかった。「鍵を持っているのに,開けるドアが見つからなかった」というイメージです。
――これは多くの読者が知りたいことでしょうが,哲学者である國分先生が,なぜ医学書として『中動態の世界』をお書きになったのでしょう。
國分 あるイベントで,薬物依存症の女性をサポートする「ダルク女性ハウス」の施設長,上岡陽江さんと出会ったのがきっかけです。「自分の意志で薬を飲んでいるのだから,やめられないのは努力不足だ」と周囲の人は言う。でも「やめようと思うと余計にやめられない」というのが依存症だと。それを聞いたとき,「中動態という鍵が使える」とピンときました。
 数日後,そのイベントに来ていた医学書院の白石さんから,Twitterのダイレクトメッセージで執筆を頼まれたんです。
――依存症という切り口で中動態を論じてみて,いかがでしたか。
國分 依存症という切実で具体的な困難を抱えている現実の人々に応えられる本になっているかどうかを常に確かめながら書き進めました。医学書だったからこそ自分に厳しくなれ,最後までぶれずに書ききることができました。
――依存症という問題に対し,哲学者として,中動態という概念で応えたということですね。
國分 はい。よく「哲学は真理を追求する学問」と思っている人がいますが,哲学者はぼんやりと中空を眺めながら真理を探しているのではありません。実際は,具体的な問題に直面して,それに応える概念を出すというのが哲学なんですよ。
――本書を読んだ医療者からは「欲しかった概念」という声もあがりました。
國分 医者という主体が,患者という客体を「治す」というやり方には限界がある。それに気付いて,いろいろな形で実践されてきた方々が抱いていたもやもやした気持ちに応えることができたのかもしれません。
――中動態はこれからの医療にどうかかわってくるでしょうか。
國分 今,医療のさまざまな場面で,「意志さえあれば何とかなる」という前提がなくなって,中動態的な方向に進んでいるような気がします。例えば糖尿病の食事療法は「食べ過ぎるとこうなりますよ」と患者の我慢を促すだけではなかなか長続きせず,「味わって食べる」という視点も重要とされているそうです。これは意志の力に訴えるのではなく「食べる」という行為そのものに注目する,ある意味中動態的方法ではないでしょうか。
 こうしたやり方がうまくいくのは,実は私たちが今も「中動態の世界」を生きているからかもしれないですね。
――この本を通して,國分先生が医療者に伝えたいことは何でしょうか。
國分 私たちが当たり前だと思っている能動/受動の対立や意志という概念は,実は全く普遍的なものではないということです。中動態というキーワードがそのことへの気付きをもたらしてくれると思います。中動態の世界を知れば,皆さんが抱えている“もやもやした何か”が少し整理できるかもしれません。

ホテルオークラ東京で行われた贈呈式にて(左は第16回新潮ドキュメント賞を受賞したブレイディみかこ氏)
(了)

こくぶん・こういちろう氏
1997年に早大政治経済学部政治学科を卒業後,東大大学院,パリ第10大学,社会科学高等研究院(いずれもフランス)などで哲学を学ぶ。博士(学術)。2011年より現職。主な著書に,『スピノザの方法』(みすず書房),『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版),『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)など。


とても興味深く読みました:
再生核研究所声明 403(2017.11.20): 私より私らしい私の出現 - アンドロイド
先日徹子の部屋で アンドロイド の様子を見て、衝撃を受けた:

アンドロイドとは (アンドロイドとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

dic.nicovideo.jp/a/アンドロイド
アンドロイドandroid)とは、人間そっくりな人工生命体の事である。人造人間のこと。
当日の様子では、徹子さんそっくりのロボット(?)で、会話ができ、表情も徹子さんそっくりの表情である。主観であるが、徹子さんが自分そっくりの人物の出現に畏れていた表情さえ感じられた。作成者の石黒氏は加えてアンドロイドは年をとらない、若さを何時までも保てる、逆に私たちが整形して若返ると良いなどの意見も表明されていた。
この簡単な事実から、いろいろ考察したい。
まず、最近のロボット、人工知能の発展は目覚ましく、予想を超えて質さえ変化させているようである。アンドロイドが進化すれば、ある人物の経験、会話、知識、文章、あらゆる情報を取り組み、人物の表現、発想、心さえ相当に取り組み多くの対話や日記なども書けるように進化する可能性が高まる。いろいろな質問に解答でき、判断さえできて、基礎知識の確実な蓄積は生身の人間を超えて高い、判断力や解答を与えられるようになるのではないだろうか。医師の診察や判断、治療方法など人工知能が人間を超えてより適切にできる可能性は 大きい。楽器の演奏、作詞、作曲さえ可能になってくるのではないだろうか。多くの形式的な対応は、ロボットが人間に代わって行なうように成るだろう。
人間そっくりの能力を備えたロボットの考察は、それでは人間とは何だろうか、生命とは何だろうかの問いを絶えず迫ることになるだろう。
人間は自分の存在に対して、生きた記念碑を残したいという、相当に強い欲求を有している ― 秦の始皇帝の墓、ピラミッド建設、微積分学の先取性を争ったニュートンとライプニッツの生涯にわたっての争いなど、多くの人間の営みの根源的なものと考えられる。
秦の始皇帝やピラミッド建設者は、今日のアンドロイドを見たら驚嘆して、自分のアンドロイドを作る努力をしたのではないだろうか。 それで、今後大きな関心を起こし、自分のアンドロイドを作成したい人々が 大量に現れ、社会混乱さえ起すのではないだろうか。 始めから危惧の念が 湧いてきた。
生物本能の生きたい、自分に代わって生きていく存在に変化する可能性が高いからである。
歴史上では 影武者の存在が注目された時もあるが より強力な存在が可能性として出てきたと言える。
アンドロイドと人間は、哲学的な問題を提起し、社会問題を、倫理問題を生み出すだろう。
人間とは何か、アンドロイドとは 何か、社会問題や倫理上の問題とともに考察を広く深く始めるべきである。
しかしながら、人造人間と呼べば、始めから嫌な感じが湧き、生命の尊厳に根本的に抵触し、古来偶像崇拝を禁じてきた精神にも通じて、慎重な対応が必要であると考える。人工知能としての働き、応用展開とは別である。人格と生命の尊厳に抵触することに対する危惧である。
以 上


再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
数学の本質論については 次で相当深く触れた:
ここでは、現実の問題から、研究姿勢、路線について具体的に考察したい。
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる関係の全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになる. しかし、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、未来人が高い評価を与える場合もある。また、
デカルトの円定理:
定理は3つの外接する円に対して、それらに内接する円と外接する円の半径を、3つの円の半径で表わす公式を与えたものであるが、その公式は美しい形を有している。ところで、円の半径がゼロならば、点円、半径が無限大ならば、直線になると考えられる。後者の解釈については、ゼロ除算算法の導入で、直線とは中心が原点、半径ゼロの円と見なせるという知見をもたらした。点も直線も円の1種であるという考えから、それではデカルトの美しい定理で、円を直線や点の場合にも成り立つかと考えた。ゼロ除算算法で、2つが円で1つが点以外は、そのまま成り立つことが確認され、この例外である場合に、驚嘆すべきことが分った。3つの円が接しているとき、デカルトの定理は成り立っている。そこで、1つを点に近づけ、点に成ったときにデカルトの定理がどうなるかを調べた。点のときは内接円も外接円も存在しないから、デカルトの定理は成り立たないと考えられる。ところが、点に成ったとき、ゼロ除算算法で解析すると、その点は3つの場合に突然、変化する現象が現れた。点以外に、美しい円が2つ現れる。これらの円について、デカルトの定理を成り立たせる解釈が存在することが分った。― 点が変化して、変化した円で、デカルトの定理が成り立っている。専門家 奥村博博士と論文を執筆中である(2017.11.5.6.57)。この予稿版は2017.11.14に公刊された:https://arxiv.org/abs/1711.04961
そこで、次の研究課題として、如何に進めるべきかを考えている。当面研究課題が無い場合には、課題を探すことになる。しかし今回の場合には、次々と研究課題が存在することが分る。まずは、デカルトの円定理、外接する3つの円が、2つ交わった場合、3つ交わった場合どうなるかの問題が存在する。さらに、今回考えたように、その円の幾つかが、点や直線になった場合にはどうなるかの問題がある。それらの研究内容は今回の論文の6倍から、12倍以上の内容が存在することが予想される。数学の常道である多次元化を考えれば、それらはそれらの研究課題は20倍を超える世界で、挑戦すれば、1冊の著書と生涯の仕事に成り得ると考えられる。そこで如何に進むべきかと思案することになる。論文を出版する事が要求されている場合など、特に他に挑戦する課題が無い場合には、とりあえず、それらの大きな計画の最初の2,3歩を歩み出したいと考えるだろう。より良い課題を持っていれば、その課題に当面挑戦したいと成るだろう。その時の価値判断は 純粋な個人の思いと社会的な影響や共同研究者の意見、希望等が影響するものと考えられる。純粋な個人の価値判断と対社会的な反響に影響されることになる。このとき、その個人の数学観、人生観、価値観などが影響を与え、そのような経緯がその個人の数学を発展させていく原理になる。
今回の場合には、ユークリッド幾何学の世界は、やれば何でもできるので もはや興味も、関心もないという考えが基礎にあるが、全く新奇な現象が出ると分かれば、新規な現象になれるまでは、研究を続行したくなるだろう。人間の心とは極めて微妙で やればできるとなれば、大きな魅力は失われ、予想できない難しい分野に心が向く、真智への愛 が目覚めてくる。創造とは何か、生命とは何か、人工知能の発展とともに絶えず問われることになるだろう。人間にとって真に価値あるものとは何か。人間はどのようなものに感動を覚えるか。絶えず問うていくことになる。
                                       以 上

再生核研究所声明 401(2017.11.18):  数学の全体、姿、生命力


ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
この文脈で数学の全体と生命力について言及して置きたい。数学とは、時間にもエネルギーにもよらない関係の全体であるから、数学的な論理思考を備えた高度な人工知能が自動的に数学を発展させていく可能性を否定できない。初歩的な数学では、実際、そのような試みがなされているという。人間を離れた、数学の全体像はどのようになるだろうか。基本的な仮説の上に何でも考えて、- これはいろいろな場合に当たって 何でも試行していく方法がとられるだろう。- しかしながら、人工知能が新しい概念や、定義を与えられるかは本質的な問題ではないだろうか。このような思いで数学の全体像を想像すると、基本的な仮定からどんどんいろいろな関係を導き、それは大樹のような姿に成るのではないだろうか。数学の客観的な存在はそのようであると考えられる。
ところが現在数学は人が展開して、発展させている状況から、数学の発展は 人間によるという現実がある。数学の客観的な在りように人間が関与してくる。そこで、関与する人間の興味と関心でどんどん進む状況と他からの要請でどんどん進む方向が存在する。後者は位置づけが明瞭であるが、前者の純粋数学の発展の様は大いに注目される。共通的な興味、関心で研究者の多い分野が存在し、いわゆる権威ある者の影響で門下生が多く、深く研究が進む状況は良くみられる。有名な難問に挑戦する相当な研究者集団も顕著である。数学にもブームや流行が有って、ある時期、相当に流行って研究会などで大きな話題になった話題が20年や30年くらい経つと関与する研究者が殆どいなくなってしまう状況がみられる。
それで、数学が大きな生命力をもって発展する華やかな時代と、細分化が進み、他との関係、他に影響や関心を与えない程になって、衰退していく、いわば大木では幹の部分から小さな枝や葉の部分になって数学は終末を迎えるのではないだろうか。数学は時間やエネルギーにもよらない不変なものであるが 数学の担い手である、人間に関与していて、人間が命ある生命であるように 数学も人間の影響を受けていると考えられる。
その意味で純粋数学者は、現在の 数学の位置づけ と 自分の心 をしっかりと捉えることが大事ではないだろうか。
以 上

 
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い


人間生きて居れば楽しいとき、苦しいとき、感情の起伏は避けられない。人間の感情は絶えず揺れ動くものである。数学の研究におけるそのような感情の起伏を回想しながら纏めてみたい。
研究の初期であるが、何を研究するか、研究課題の選択は非常に難しく一般には研究生活における苦しい時期ではないだろうか。もちろん好きだから数学を専攻したのだから、学んでいるときには新しい世界がどんどん広がって、楽しいが、新しい結果を得るには一般には容易なことでないと言える。広く深い現代数学において研究課題の選択は研究者の将来を相当に定めることになる。一般には好きな分野での好きな指導教授の数学の範囲での選択に成る。そこで、何か新しいことを発見、解決して、論文を出版することが大事な目標になる。論文を出版する事は博士号の取得や研究職に付くための条件に成るから、何が何でも論文を書くが 直接の目標になる。この時、手っ取り早い方法は提起されている問題を解決したり、読んだ論文の内容の一般化、精密化、類似の理論の展開などであるが、それらとて甘くはなく、いずれもそれぞれの専門家が出来なかったこと、気づかないことの発見、新規な展開だから、研究は厳しく、研究の初期は誠に厳しいものであると考えられる。- 数学を志す者にはいわば優秀な人が多く、難なくここを踏破していく者も多い。しかし、簡単に踏破していくような人は行き詰る場合も多く、苦労して研究課題を自分に合ったように選択した者は、最初は遅れても永く研究が続く面もあるようである。- この観点からは、早期の成果を期待し過ぎの風潮は問題があるのではないだろうか。何事初期の取り組みが大事なようである。専門化、高度化の厳しい現代数学、簡単には研究課題は変えられず、生涯の研究の方向は 多くは初期で決まっている現実があると考えられる。― これは何でも飛び越えていくような天才的な人を想定しているのではなく、一般的な数学者を想定している。
1つの研究課題で論文が連続的に書けるような時代に入れば、充実した研究生活で、創造活動ができる輝ける時代を歩めるのではないだろうか。新しい考えが湧いたとき、思わぬことを発見したとき、またそのような予感がする時は 研究者の充実しているときであると言える。良い考えが湧いたときなど、眩暈がするほどの喜びが湧き、それは苦しいほどであると表現できる。発見の瞬間、得た結果の評価に対する共感、共鳴は人間の最高の喜びの類に入るだろう。評価が違って共感が得られなかったり、論文執筆上の形式的な気遣いは研究生活における影の部分に成るが、それが研究の芽に成るので、苦しみも喜びの内と考えるべきである。研究課題の行き詰まりもそうである。行き詰るから新しい芽が出てくるのである。苦しみと喜びは絶えず変化し、喜びも苦しみも区別がつかず、その活動が研究生活と言える。
若い研究者の博士号取得、就職、そしてパーマネントの研究職に付くまでの厳しさは回想しても苦しい、修業時代と言える。しかしそれらが、生涯の研究の基礎に成る。
所謂論文投稿から採否決定までの間、永さは 研究者にとっては一般に苦しい状態ではないだろうか。研究成果を評価に活かせないからである。その点、インターネットの普及で論文原稿をアーカイブなどで公開できるシステムには 格段の進歩と高く評価される。- 英文書き換え要求に対して 多くは1週間かけて 進んだIBM 修正機能付きの電子タイプライターで書き替え、原稿の送付と返事にさらに2週間掛ったが、現在は、修正は分単位、何回でも書き換えができて、連絡は1日で十分である。素晴しい時代を迎えていると言える。
研究者の嫌なこととは集中している折り、いろいろ雑用が入ることではないだろうか。一心不乱に研究に専念しているとき、それを乱されるとき、本能的に嫌がるのは自然な心で、心此処にあらずの状況は良き家庭人や良き親であることの余裕を失わせ、いろいろ良からぬ家庭問題や対人関係を作りかねないと憂慮される。大学の法人化後の日本の大学の多くが研究者の大事な自由な時間と余裕を失なわしめ、逆に雑用を多くして、研究者を虐待しているように感じられる。5年間ポルトガルの大学から研究員として招待され、研究に専念できたが、過ごした経験から、あまりにも大きな違いを感じて 唖然としている。
それから、数学の研究成果の発表では 間違いをおかしてはならないことは 相当に厳しい原則であるから、投稿したら、間違いがあった、出版済みの論文に間違いを発見した等の場合には、相当ショックで、相当に苦しい心理状況に追い込まれる。研究上の相当な時間は 繰り返し不備はないか、間違いはないかの省察の時間ではないだろうか。絶えず、大丈夫か、大丈夫か、間違いはないか、間違いはないかと自問していると言える。もちろん、理論の全体の在り様に対する想いは、真智への愛 である。
以 上

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