毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。また大坂城入りを励ました妻[注釈 1]は、戦前は銃後の守りの手本として、『婦女鑑』(明治20年)などに取り上げられている[1]。
前歴[編集]
天正15年(1587年)、九州平定を終えた秀吉は、豊前国8郡の内、黒田孝高に6郡12万石を、吉成に規矩郡、高羽郡の2郡6万石を与えて小倉の領主としたが、この6万石の内の1万石が勝永に与えられた[7]。ただし『慶長4年諸侯分限帳』では、勝永の分を4万8,000石としている[8]。
豊前に封された際に、秀吉の指示によって森(もり)姓から中国地方の毛利氏と同じ毛利(もり)の漢字を変えて改姓したとされるが[9]、翌年正月19日の秀吉朱印状の宛名は「森壱岐守とのへ」となっているので、実際に毛利姓に変えた時期は、肥後国人一揆・豊前国人一揆の鎮圧後のことである[10]。
天正16年(1588年)、毛利輝元の接待役となり、能興行で太鼓を披露し、輝元や公家衆との会見に相伴を許された[11]。天正18年(1590年)、巡察師ヴァリニャーノが再来日した際に小倉で出迎えた[12]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦した。領国のある九州に下向していた父に代わり中央で軍勢を指揮した勝永は伏見城の戦いで格別な戦功をあげ、毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受ける。しかし、毛利九左衛門(香春岳城城主)や毛利勘左衛門などの多くの家臣を失った。続く安濃津城の戦いや関ヶ原本戦時には、勝永は輝元家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に置かれ、家中も混乱状態にあり[15]、活躍の場なく終わった。
豊前では小倉城を黒田如水(孝高)に奪われており、戦後改易となった。父と共にその身柄を加藤清正[16]、次いで山内一豊に預けられた[17]。旧知でもあり親交のあった山内家では1千石の封地をあてがわれ、父子とも手厚く遇されたという。殊に勝永の弟は山内姓を与えられ、山内吉近を名乗り2千石を与えられたが、慶長18年頃、土佐を去り紀州浅野家に仕えたとされる[18]。一方、勝永は高知城の北部の久万村で生活をし、折々に登城をすることもあった[19]。 慶長15年(1610年)5月25日、正室の安姫が死去したので[20]、勝永は髪を剃って出家し、一斎と号した。翌年5月6日に父・勝信が死去し、7日に白雲院殿好雪神祇と諡して江ノ口村尾戸山喜圓坊に葬り、後に秦村泰山に改葬した[21]。
大坂の陣[編集]
慶長19年(1614年)、豊臣秀頼よりの招きを受け、土佐からの脱出を計画。その際に留守居役の山内康豊に対して、勝永は徳川方に付いた藩主・山内忠義とは昔衆道の間柄で身命を賭けて助け合う約束をしているからどうか忠義の陣中(つまり包囲側)に行かせてほしいと頼んだ[22]。長男・毛利勝家を留守居に、次男鶴千代(太郎兵衛)を城へ人質として残すと云うので[23]、康豊は安心して行かせたが、勝永と共に勝家も船で逃げ去り、大坂方に走った。山内忠義は激怒して、勝家の見張りだった山内四郎兵衛に切腹を命じ[24]、鶴千代と勝永の妻と娘は城内に軟禁された[25]。
大坂城に入城した毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称された[26]。大坂冬の陣では、城の西北隅、現在の今橋付近を守備したものの、目立った活躍はなかった[27]。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤基次らの敗残兵を、毛利勝永隊が収容[28]。勝永は、自軍の中から抽出した鉄砲隊を殿に残し、勝永自身は本隊を率いて、大坂城方面に撤収した[29]。
7日の天王寺口の戦いでは、息子の勝家・樫井昌孝・山本公雄・竹田永翁・浅井長房[30]ら兵4千を率いて、徳川家康本陣の正面にあたる四天王寺南門前に布陣した。本多忠朝の攻撃を受けると、真田信繁はこれに応じないように勝永に伝令し、勝永も味方を抑えようとしたが、戦闘が激しくなって断念。却って本多隊に逆襲して、忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を瞬く間に討ち取った[31]。続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたためついに撤退を始めた。七手組諸将が反撃に転じて藤堂高虎隊を撃ち破ると、勝永隊もこれに協力して土山でしばらく井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いでいたが、城内へ撤収した[32]。
戦後、徳川家康は、土佐の山内忠義に城内に留め置かれていた母子3名を京へ護送するように命じた。10歳の太郎兵衛は成敗されたが、太郎兵衛以外の身内は助命され、土佐に戻された[35]。
逸話[編集]
- 大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。勝永は喜んで一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。のちにこれを聞いた家康は「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたという[36][注釈 1]。
- 道明寺の戦いでは濃霧のため、真田信繁、毛利勝永らの後詰が間に合わず、後藤基次ら名のある武将が討死した。遅れて合流した真田信繁は勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰めたという[37]。
- 毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「金ノ輪抜の旗指物の城兵が力戦しているが、あの大将は誰であろうか」と尋ねた。嘉明は「毛利壱岐守が子なり」と答えた。それを聞いた長政は「ついこの間まで幼若の者と思っていたが、武略に練達した大将となったものよ」と感嘆したという[38][39][注釈 3]。
- 当時、大坂城の戦いを見聞した宣教師は「先頭には真田及び他の一司令官毛利の豊前あり、言ふべからざる勇気を以って戦ひ、三、四回激しく敵を攻撃したれば、(中略)内府(徳川家康)も失望に陥り、日本の風習に依り、其腹を切らんとせし由」と以上のように報告した(「1615年及び1616年耶蘇会のパードレ等より同会の総長に送りし日本の年報」[40]。真田・毛利の奮闘は『山下秘録』、『常山紀談』、『武家事記』の記述にも見える[41]。
- 江戸時代中期の文人・神沢貞幹は、自身の著した随筆『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し「惜しい哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と記している[42]。
- 大坂の陣の後、土佐山内家では勝永の旧臣・杉助左衛門に命じて勝永のことをまとめさせた。これは『毛利豊前守殿一巻』として長く山内家に伝来し、勝永に関する記録としては唯一のものである[43]。大正末年に福本日南がこれを見て『大坂城の七将星』(下掲)を書いている。現在巷間に流布している勝永の生年などは『毛利豊前守殿一巻』に基づいたものである。
関連作品[編集]
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まず、直感として、あのような経歴、状況では幸村及び周辺の人は、きりさんの勧めのように、大阪方につかざるを得なかったのではないだろうか。幸村にとって、父の影響、そして秀吉の寵愛と信頼、石田三成など仲間たちと輝いた時代、さらに淀君の想い、それらは人生そのものであり、それらに帰することは共生感に基づく喜びの感情、愛の本質から言っても必然的であると言える。― ついでであるか、きりさんの魅力には大いに感銘させられる。
そこで、赤穂浪士や、大奥の人たち、本能寺の変に加わった兵士たち、多くの人間の行為はそうは自由でなくて、時代背景や置かれた立場で相当に必然性が有って、人間とは、人生とはそんなに自由な存在ではないのではないだろうか。
例えば 進学、就職、結婚など大事な志、決断と選択は確かに存在するが、それらに対しても相当に環境の影響と背景で実は制限されている現実がある。特に、志、好み、関心は生い立ちや環境によって大きく影響され、人間が環境にどのように影響されるかは興味ある課題である。人間の心さえ、環境の影響で相当に定まっている面を強く感じる。そう、ここで言いたかったことは、人間とは相当に環境、生い立ちで形作られるものであるということである。相当に人間は同じように作られているということである。人々が円熟期に至って、結局みんな同じような存在で、人間そのものが草木や動物たちと本質的に同じような存在であるという、認識を深めるだろう。
人間は、何者かによって作られた存在で、その枠内で存在しているものだと述べた。生れる前も、生きている間も、先も分からず、大きな流れに流されているような存在である。
その意味で、人生とは簡単であった、自分の心と環境に調和して 心がはずむように生きれば良いということになる。このように思えるようになれば、幸せな人生と言えるが、環境が厳しく、中々調和したような存在にはなれず、不満や苦痛、厳しさに苛まれることが多いのが人生と言えるのではないだろうか。生活を社会的に整えるのが基本であるが、そのために汲々としてしまいがちであるが、良き政治が行われ、共生、共感、共鳴できるような美しい社会を築きたいものである。
上記で、そのような時代に、そのような環境にあれば、そうせざるを得なかったということに対しては、社会の進化を志向し、人間の心が、生命が活かせる、輝かせるような社会の建設を目指したい。
人間が環境の影響を受けて形づけられる以上、時代の影響を越えた存在は難しく、芸術でも学問、研究でさえ、時代の流れ、世相を反映させていると言える。
そこで、環境を整えるとなれば、政治、マスコミ、教育の影響は大きいので、関係者の精進・努力をお願いしたい。基本精神は賢明になり、公正の原則を尊重、社会正義の追求ではないだろうか。
人間については、下記のように触れてきた:
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再生核研究所声明 70: 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず
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再生核研究所声明77(2012.2.18): 人生における心得
再生核研究所声明 141(2013.11.14): 結局、人間とは、人生とは 何だろうか、どの様なものか
再生核研究所声明145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
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以 上
ドラマが虚像に満ちているとしても、ドラマ制作力の進化には驚かされる。ここでは、真田幸村の大阪城入場の背景を考えなから、人間、人生について感じたことを纏めてみたい。
まず、直感として、あのような経歴、状況では幸村及び周辺の人は、きりさんの勧めのように、大阪方につかざるを得なかったのではないだろうか。幸村にとって、父の影響、そして秀吉の寵愛と信頼、石田三成など仲間たちと輝いた時代、さらに淀君の想い、それらは人生そのものであり、それらに帰することは共生感に基づく喜びの感情、愛の本質から言っても必然的であると言える。― ついでであるか、きりさんの魅力には大いに感銘させられる。
そこで、赤穂浪士や、大奥の人たち、本能寺の変に加わった兵士たち、多くの人間の行為はそうは自由でなくて、時代背景や置かれた立場で相当に必然性が有って、人間とは、人生とはそんなに自由な存在ではないのではないだろうか。
例えば 進学、就職、結婚など大事な志、決断と選択は確かに存在するが、それらに対しても相当に環境の影響と背景で実は制限されている現実がある。特に、志、好み、関心は生い立ちや環境によって大きく影響され、人間が環境にどのように影響されるかは興味ある課題である。人間の心さえ、環境の影響で相当に定まっている面を強く感じる。そう、ここで言いたかったことは、人間とは相当に環境、生い立ちで形作られるものであるということである。相当に人間は同じように作られているということである。人々が円熟期に至って、結局みんな同じような存在で、人間そのものが草木や動物たちと本質的に同じような存在であるという、認識を深めるだろう。
人間は、何者かによって作られた存在で、その枠内で存在しているものだと述べた。生れる前も、生きている間も、先も分からず、大きな流れに流されているような存在である。
その意味で、人生とは簡単であった、自分の心と環境に調和して 心がはずむように生きれば良いということになる。このように思えるようになれば、幸せな人生と言えるが、環境が厳しく、中々調和したような存在にはなれず、不満や苦痛、厳しさに苛まれることが多いのが人生と言えるのではないだろうか。生活を社会的に整えるのが基本であるが、そのために汲々としてしまいがちであるが、良き政治が行われ、共生、共感、共鳴できるような美しい社会を築きたいものである。
上記で、そのような時代に、そのような環境にあれば、そうせざるを得なかったということに対しては、社会の進化を志向し、人間の心が、生命が活かせる、輝かせるような社会の建設を目指したい。
人間が環境の影響を受けて形づけられる以上、時代の影響を越えた存在は難しく、芸術でも学問、研究でさえ、時代の流れ、世相を反映させていると言える。
そこで、環境を整えるとなれば、政治、マスコミ、教育の影響は大きいので、関係者の精進・努力をお願いしたい。基本精神は賢明になり、公正の原則を尊重、社会正義の追求ではないだろうか。
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