イーロン・マスク氏曰く「私たちはビデオゲームの中で生きることができるようになる」
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イーロン・マスク
Takeshi Hirano by Takeshi Hirano on 2016.6.3
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<ピックアップ> Elon Musk says we could all be living in a video game
Amazonのジェフ・ベゾス氏が人工知能エージェントの可能性について語り、メアリー・ミーカー女史のインターネット・トレンドが発表され、ハルク・ホーガン訴訟で注目浴びてるゴーカーのニック・デントンCEOが登壇するなど相変わらずの豪華ぶりを発揮しているRecode主催のCodeconferenceですが、当然ながらこの人もやってきておりました。
イーロン・マスク氏です。
テスラモーターズおよびSpaceXのCEOである彼が登場するからには何か面白いこと言ってくれるんだろうと思ってたら期待通りでしたね。早速名言集がBusiness Insiderにまとまっていました。
想像の遥か上空を飛んでます。
startup-member_a
テスラのバッテリー工場となるGigafactoryは世界で最大の面積になると思うよ。そうだね「超弩級エイリアン」って感じだ。
人間かい?もうすでにサイボーグだよ。
計画では(火星に)多分、2024年には人を乗せて発射して、2025年には到着すると思うよ。
で、その他に言った話はビデオかBIの記事を見てもらうとしてこれが1番飛んでましたね。マスク氏曰く、私たちの存在は実は高度に進んだ文明によって運営されている仮想的なものになるのだと。いわゆるゲームの世界で生きるというアレです。
仮想空間に存在するために私たちが議論すべき最大のポイントはここなんだ:40年前、私たちは「Pong(※簡単なゲーム)」を手に入れた。2つの長方形とドットだ。そして今、40年後に私たちは仮想的に数百万人が遊んでいる写実的な3Dを手に入れている。仮に全てにおいてある一定の改善割合を想定したとしよう。たとえその割合が今の状況から1000以下に落ちたとしたとしても、おそらくゲームは現実と区別がつかないものになる。
これをどこかのテレビコメンテーターが電波の向こうで言ってたら「また出てきたな」と鼻で笑ってチャンネル変えるところですが、相手はマスク氏です。電気自動車普及させてロケット飛ばした(しかも戻した)男です。
実際、最近出てきたVR関連のヘッドセットは本当に没入感がすごく、体験した方はわかると思いますが、実際に見つめられてる感が半端ないです。あれは人間のそれとほぼ同じです。
ということでマトリックスの世界がもうすぐ近いということですからイメージトレーニングでも始めておくとしましょう。
via Business Insider, Recode
http://thebridge.jp/2016/06/elon-musk-says-we-could-all-be-living-in-a-video-game-pickupnews
再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。
虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。
そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。
人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。
世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。
多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。
このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(
再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;
再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得;
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること;
再生核研究所声明86(2012.4.25): 未だ おめでたい人類 - 先史時代;
再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ―
再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;
再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;
再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生
)、
一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。
しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。
人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。
以 上
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ
まずは 言葉を確認して置こう:
ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)
上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、
1) 広範に公開される。
2) 多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3) 繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。
などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。
以 上
再生核研究所声明299 (2016.05.21) いろいろ ちぐはぐな社会
人間社会は機械や計算機の世界のように きちんと行く道理は 生命現象としても有り得ず、いろいろ矛盾した多様で複雑な形相を本質的に持っているものであると考えるべきである:
再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える。
あまりにきちんとしていれば、社会は逆に窮屈になり、息苦しいものになるだろう。戦時や独裁者国家などによく現れていると言える。もし、法でも、道徳律、習慣でさえ程よく幅をもち、反社会的と評されるものでさえ、存在して娑婆の面白みと言える面が有るのではないだろうか。それらは多様性のある豊かな社会の大事な要素ではないだろうか。
しかしながら、本末転倒、あべこべが行き過ぎるとこれもまた、おかしな社会になってしまう。そこで、行き過ぎた ちぐはぐな存在に見える、感じられることに言及して、省察、有り様について 注意を換気させたい。
最近の例だと高齢者に3万円を 苦しい財政状況の中で、ばらまいているが、国家はもっともっと、資金援助、充実させる配布先はないのであろうか? 誠に奇妙な政策と言える。多くは退職者の年齢であろうが、現役の若者たちは将来の生活の設計、やり繰りで苦労されているのではないだろうか。大学の予算不足なども大いに心を痛められる。
憲法改正の考えや軍事費の増大もこの観点では奇妙に見える。日本が自ら緊張関係を生み出して、軍拡競争を煽っているように見える。国防と安全を考えるは国家の基本であるが、新しい国防観による、平和の建設に対して、時代遅れの思考で対応を考えているように見える。今後の平和と安全の有り様を軍事費増大ではなく 異なった方向での対応を思考すべきではないだろうか。軍事、平和の問題は 創造的に先取の精神で取り組むべきことが 世界史の教えるところである。
人を適材、適所に配置するは 社会の有り様、活力を維持する基本であるが、それらの基になる、教育全般、大学入試、大学教育、就職の有り様、評価の有り様など相当にちぐはぐで、上手く人事が行っていないようなことはないだろうか。いわゆる職業選択におけるミスマッチの問題である。人材を発掘できない状況、活用できない状況など大いに気になる。例えば、公務員は人気があって、優遇される状況があるように感じられるが、公務員は公僕であり、多くは決まった安定した仕事が多いことに鑑み、優秀な人材を生きた社会で生かすような大勢は大事ではないだろうか。もちろん、国家や組織で大事な役割を果たす職種で優秀な人材の登用は古来重要である。公僕の精神を忘れて公務員が社会の優雅な人たちの層を今やなしてはいないだろうか。政治家の選択も民主主義の政治の中で、上手く機能せず、日本の政治家はEUなどの諸国に比べて少しお粗末な政治家が多いように感じられる。公や国家のことより、政争、利害対立に明け暮れている様が見えないだろうか。
研究、教育、人事、評価なども大学法人化後、特に相当に混乱していて、日本の将来には危惧の念を抱かざるを得ない。行き過ぎた過重な受験競争、成果や評価に縛られ汲々とした教育と研究の場、意図的に作られた雑用の多さ、教育と研究の乖離、形ばかりの成果にとらわれ過ぎて真に研究に値しないような小さな研究課題に細分化する傾向が進んでいるのではないだろうか。軍事と同様、研究は創造性ある新規、開拓の精神が最も重視されるべきところ、確立した分野の末梢の研究課題が重視されるような風潮はないだろうか。あらゆる研究の初期の状況を省みたい。
日本のテレビ曲の、ドラマ制作力、音楽、芸術、スポーツ関係の充実ぶりは素晴らしいものと高く評価されるが、ニュース、政治などの番組は相当に質が落ちている面はないだろうか。マスコミ、新聞などの国際評価が驚く程低いことに大いに注意しておきたい。個人の犯罪や問題など騒ぎすぎで、質を落としているような面はないだろうか。民間テレビ局などでは、科学、工科系の番組は極端に弱く、如何にも文系、芸能関係、スポーツ関係者のもののように偏っているように見える。
この声明は題名からして、世相に対する印象のような形になってしまった。
以 上
再生核研究所声明301 (2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所では、もちろん、人間、社会、人生についていろいろな視点から意見表明をしてきている:
再生核研究所声明172(2014.8.5) 人間の愚かさについて
再生核研究所声明 180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点
再生核研究所声明 273 (2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
作られた人間が、相当に運命づけられているのは歴然である。しかしながら、作られた存在で、定められていても それらに従う、 自分の様を反省して、やがて自分たちの存在、営みそのそのものが 愚かしいことと気づくようになるだろう。人間の基本的な有り様とは、本能原理によって、生きること、家族をもち、育児を行うこと、などが基本であるが、それらを可能にして、保証するために、健康維持の観点から、食、住、環境の整備、恋の問題や、愛の問題、社会内存在を安定させるために仕事や地位を確保、生活を軌道にのせるなど基本的なことに追われる生活を余儀なくされる。自由の存在であると言える状況は 中々難しく、人生で束縛された生活が永く続いているのではないだろうか。現在でも、自由な存在よりも、生きることに精一杯の状況が多いと言える。
円熟期に入って、退職などすれば、相当に生活環境が変わり、関心の対象も大きな変化を受ける。言わば夢中で環境の中で生きてきた過去が、ただ夢中な存在で、何をしていたのかと反省させられる。しかしながら、一途に真面目に生きてきた者は自らをいじらしい存在として、評価もでき、回想できる余裕が出てくるのではないだろうか。
恋も、仕事も、志も 思えば、愚かしいこと、人間の営みと表現しようとしたが、書き始めるや、そのような発想は良くなく、表現を変える必要性を感じてきた。作られた人間が、造物主の意思に逆らえず、造物主の意思に従って生きざるを得ない自らの定めを自覚して、人間は人生の大部分を夢中で生きるだろう。しかし、やがて、そのような存在に飽き飽きして、造物主の意思を超えて、自らの存在、本能をも否定できるようになれば、それは一種の解脱、超越、悟りのレヴェルに至る完成の域に達していると言えるのではないだろうか。人生を諒として、超越して行けるからである。そのときは、本能や人間存在の本質さえ、返上できる心境だからである。神と自然を超えた存在の域に達していると言える。
そもそも生物とは遺伝子の乗り物であるという現実を知って、生物は真剣にその使命を果たすように運命づけられている切ない存在であるが、それを知って、定めにしたがっている存在が人間の賢さであると言える。
この声明は始めに意図したものとは全然違う趣旨のものに ひとりでになってしまった。
以 上










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<ピックアップ> Elon Musk says we could all be living in a video game
Amazonのジェフ・ベゾス氏が人工知能エージェントの可能性について語り、メアリー・ミーカー女史のインターネット・トレンドが発表され、ハルク・ホーガン訴訟で注目浴びてるゴーカーのニック・デントンCEOが登壇するなど相変わらずの豪華ぶりを発揮しているRecode主催のCodeconferenceですが、当然ながらこの人もやってきておりました。
イーロン・マスク氏です。
テスラモーターズおよびSpaceXのCEOである彼が登場するからには何か面白いこと言ってくれるんだろうと思ってたら期待通りでしたね。早速名言集がBusiness Insiderにまとまっていました。
想像の遥か上空を飛んでます。
startup-member_a
テスラのバッテリー工場となるGigafactoryは世界で最大の面積になると思うよ。そうだね「超弩級エイリアン」って感じだ。
人間かい?もうすでにサイボーグだよ。
計画では(火星に)多分、2024年には人を乗せて発射して、2025年には到着すると思うよ。
で、その他に言った話はビデオかBIの記事を見てもらうとしてこれが1番飛んでましたね。マスク氏曰く、私たちの存在は実は高度に進んだ文明によって運営されている仮想的なものになるのだと。いわゆるゲームの世界で生きるというアレです。
仮想空間に存在するために私たちが議論すべき最大のポイントはここなんだ:40年前、私たちは「Pong(※簡単なゲーム)」を手に入れた。2つの長方形とドットだ。そして今、40年後に私たちは仮想的に数百万人が遊んでいる写実的な3Dを手に入れている。仮に全てにおいてある一定の改善割合を想定したとしよう。たとえその割合が今の状況から1000以下に落ちたとしたとしても、おそらくゲームは現実と区別がつかないものになる。
これをどこかのテレビコメンテーターが電波の向こうで言ってたら「また出てきたな」と鼻で笑ってチャンネル変えるところですが、相手はマスク氏です。電気自動車普及させてロケット飛ばした(しかも戻した)男です。
実際、最近出てきたVR関連のヘッドセットは本当に没入感がすごく、体験した方はわかると思いますが、実際に見つめられてる感が半端ないです。あれは人間のそれとほぼ同じです。
ということでマトリックスの世界がもうすぐ近いということですからイメージトレーニングでも始めておくとしましょう。
via Business Insider, Recode
http://thebridge.jp/2016/06/elon-musk-says-we-could-all-be-living-in-a-video-game-pickupnews
再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。
虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。
そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。
人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。
世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。
多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。
このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(
再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;
再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得;
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること;
再生核研究所声明86(2012.4.25): 未だ おめでたい人類 - 先史時代;
再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ―
再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;
再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;
再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生
)、
一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。
しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。
人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。
以 上
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ
まずは 言葉を確認して置こう:
ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)
上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、
1) 広範に公開される。
2) 多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3) 繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。
などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。
以 上
再生核研究所声明299 (2016.05.21) いろいろ ちぐはぐな社会
人間社会は機械や計算機の世界のように きちんと行く道理は 生命現象としても有り得ず、いろいろ矛盾した多様で複雑な形相を本質的に持っているものであると考えるべきである:
再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える。
あまりにきちんとしていれば、社会は逆に窮屈になり、息苦しいものになるだろう。戦時や独裁者国家などによく現れていると言える。もし、法でも、道徳律、習慣でさえ程よく幅をもち、反社会的と評されるものでさえ、存在して娑婆の面白みと言える面が有るのではないだろうか。それらは多様性のある豊かな社会の大事な要素ではないだろうか。
しかしながら、本末転倒、あべこべが行き過ぎるとこれもまた、おかしな社会になってしまう。そこで、行き過ぎた ちぐはぐな存在に見える、感じられることに言及して、省察、有り様について 注意を換気させたい。
最近の例だと高齢者に3万円を 苦しい財政状況の中で、ばらまいているが、国家はもっともっと、資金援助、充実させる配布先はないのであろうか? 誠に奇妙な政策と言える。多くは退職者の年齢であろうが、現役の若者たちは将来の生活の設計、やり繰りで苦労されているのではないだろうか。大学の予算不足なども大いに心を痛められる。
憲法改正の考えや軍事費の増大もこの観点では奇妙に見える。日本が自ら緊張関係を生み出して、軍拡競争を煽っているように見える。国防と安全を考えるは国家の基本であるが、新しい国防観による、平和の建設に対して、時代遅れの思考で対応を考えているように見える。今後の平和と安全の有り様を軍事費増大ではなく 異なった方向での対応を思考すべきではないだろうか。軍事、平和の問題は 創造的に先取の精神で取り組むべきことが 世界史の教えるところである。
人を適材、適所に配置するは 社会の有り様、活力を維持する基本であるが、それらの基になる、教育全般、大学入試、大学教育、就職の有り様、評価の有り様など相当にちぐはぐで、上手く人事が行っていないようなことはないだろうか。いわゆる職業選択におけるミスマッチの問題である。人材を発掘できない状況、活用できない状況など大いに気になる。例えば、公務員は人気があって、優遇される状況があるように感じられるが、公務員は公僕であり、多くは決まった安定した仕事が多いことに鑑み、優秀な人材を生きた社会で生かすような大勢は大事ではないだろうか。もちろん、国家や組織で大事な役割を果たす職種で優秀な人材の登用は古来重要である。公僕の精神を忘れて公務員が社会の優雅な人たちの層を今やなしてはいないだろうか。政治家の選択も民主主義の政治の中で、上手く機能せず、日本の政治家はEUなどの諸国に比べて少しお粗末な政治家が多いように感じられる。公や国家のことより、政争、利害対立に明け暮れている様が見えないだろうか。
研究、教育、人事、評価なども大学法人化後、特に相当に混乱していて、日本の将来には危惧の念を抱かざるを得ない。行き過ぎた過重な受験競争、成果や評価に縛られ汲々とした教育と研究の場、意図的に作られた雑用の多さ、教育と研究の乖離、形ばかりの成果にとらわれ過ぎて真に研究に値しないような小さな研究課題に細分化する傾向が進んでいるのではないだろうか。軍事と同様、研究は創造性ある新規、開拓の精神が最も重視されるべきところ、確立した分野の末梢の研究課題が重視されるような風潮はないだろうか。あらゆる研究の初期の状況を省みたい。
日本のテレビ曲の、ドラマ制作力、音楽、芸術、スポーツ関係の充実ぶりは素晴らしいものと高く評価されるが、ニュース、政治などの番組は相当に質が落ちている面はないだろうか。マスコミ、新聞などの国際評価が驚く程低いことに大いに注意しておきたい。個人の犯罪や問題など騒ぎすぎで、質を落としているような面はないだろうか。民間テレビ局などでは、科学、工科系の番組は極端に弱く、如何にも文系、芸能関係、スポーツ関係者のもののように偏っているように見える。
この声明は題名からして、世相に対する印象のような形になってしまった。
以 上
再生核研究所声明301 (2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所では、もちろん、人間、社会、人生についていろいろな視点から意見表明をしてきている:
再生核研究所声明172(2014.8.5) 人間の愚かさについて
再生核研究所声明 180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点
再生核研究所声明 273 (2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
作られた人間が、相当に運命づけられているのは歴然である。しかしながら、作られた存在で、定められていても それらに従う、 自分の様を反省して、やがて自分たちの存在、営みそのそのものが 愚かしいことと気づくようになるだろう。人間の基本的な有り様とは、本能原理によって、生きること、家族をもち、育児を行うこと、などが基本であるが、それらを可能にして、保証するために、健康維持の観点から、食、住、環境の整備、恋の問題や、愛の問題、社会内存在を安定させるために仕事や地位を確保、生活を軌道にのせるなど基本的なことに追われる生活を余儀なくされる。自由の存在であると言える状況は 中々難しく、人生で束縛された生活が永く続いているのではないだろうか。現在でも、自由な存在よりも、生きることに精一杯の状況が多いと言える。
円熟期に入って、退職などすれば、相当に生活環境が変わり、関心の対象も大きな変化を受ける。言わば夢中で環境の中で生きてきた過去が、ただ夢中な存在で、何をしていたのかと反省させられる。しかしながら、一途に真面目に生きてきた者は自らをいじらしい存在として、評価もでき、回想できる余裕が出てくるのではないだろうか。
恋も、仕事も、志も 思えば、愚かしいこと、人間の営みと表現しようとしたが、書き始めるや、そのような発想は良くなく、表現を変える必要性を感じてきた。作られた人間が、造物主の意思に逆らえず、造物主の意思に従って生きざるを得ない自らの定めを自覚して、人間は人生の大部分を夢中で生きるだろう。しかし、やがて、そのような存在に飽き飽きして、造物主の意思を超えて、自らの存在、本能をも否定できるようになれば、それは一種の解脱、超越、悟りのレヴェルに至る完成の域に達していると言えるのではないだろうか。人生を諒として、超越して行けるからである。そのときは、本能や人間存在の本質さえ、返上できる心境だからである。神と自然を超えた存在の域に達していると言える。
そもそも生物とは遺伝子の乗り物であるという現実を知って、生物は真剣にその使命を果たすように運命づけられている切ない存在であるが、それを知って、定めにしたがっている存在が人間の賢さであると言える。
この声明は始めに意図したものとは全然違う趣旨のものに ひとりでになってしまった。
以 上










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