2016年6月7日火曜日

SMAP5人が解散「しない」と初めて明言 「覚悟を決め、前へ」 デイリースポーツ 6月7日(火)12時34分配信

SMAP5人が解散「しない」と初めて明言 「覚悟を決め、前へ」
デイリースポーツ 6月7日(火)12時34分配信

 1月の解散危機を乗り越えたSMAPが初めて解散は「しない」と明言した。7日、ジャニーズファミリークラブ会員宛に届けられた会報内で「今、伝えたいこと。」と題し、メンバー5人が解散騒動、1月18日のフジテレビ系「SMAP×SMAP」の緊急生謝罪、近況について語っている。

 「本当に申し訳ない気持ちでいっぱい」と改めて謝罪した木村拓哉(43)は生謝罪に「何のトライもせずに『ジ・エンドです』と言うっていうのは絶対にないな…と思い、ああいう形での報告をさせてもらったんだ。元の状態に戻るために、5人5様の覚悟を決め、前に進んでいくために」と生謝罪の経緯を説明した。

 会見直後は周囲から反応があったそうで、「海仲間も心配そうに『あれって解散する…ってことっスか?』なんて天然な質問してきて、『だから、しないって言っただろ!』って、こっちは苦笑いで答えたり」。会見では解散を否定する具体的な言葉がなかったことから契約更新となる9月解散説がささやかれていたが、木村は会見が解散を否定したものであると仲間にはっきり伝えていた。

 中居正広(43)は「ボクはふだんからネットはいっさいみなければ、この時期は新聞も読まなかったしテレビもほとんどみてなかったので、どんな騒動になっていたのか、実際にはよくわかっていないんだよね。ただ、今回の件で、SMAPがどれだけ皆さんに支えられていただいているのかということを、改めて強く感じました。これからもよろしくお願いします」とつづっている。

 稲垣吾郎(42)は「本当に申し訳ないと思っている。SMAPというグループの大きさに改めて驚いた」、草なぎ剛(41)も「今回、自分たちのことを応援してくれる人がこんなにもいるんだ…っていうのを、肌で感じることができた」、香取慎吾(39)も「SMAPというグループの大きさを、今回改めて感じました」と国民的グループの重みを実感したことを語っている。

 1991年にデビューした5人は今年9月にデビュー25周年を迎える。今後について、木村が「5人が気持ちをしっかりと切り替え、SMAPとして前に進んでいきたい」と語れば、稲垣も「ファンのみなさんへ、何か恩返しできたら」と5人で歩んでいくことをつづっている。

 解散は「ありえない」と明言したジャニー喜多川社長(84)は5月に記念イベントやライブを「やるべき」と語っている。今回のメンバーの発言を機に25周年記念コンサートなど記念イヤーに向けた活動が期待される。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160607-00000043-dal-ent

再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か

つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上

再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ

人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上


再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴

(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。

以 上


再生核研究所声明302(2016.05.24)燕の神秘性 ― 動植物の営みの神秘性
野生生物、小鳥や草花の豊かな営みを見ていて それらの営みが神秘的であると感銘して、我が家の燕の生態を観測して、その神秘性を書きたい心情が湧いて来た。そこで、そのような題材では既に書いた事があるので、先ず確認を行いたい:

再生核研究所声明240(2015.7.22)燕の神秘性 ― 燕の巣立ちを祝して
燕が孵る2日前に 蛇に狙われ、危うい直前 いたたましい叫びで、異常に気づき、巣を見たところ、蛇が巣直前まで迫り 卵が飲み込まれるところ、竿で撃退、間一髪で救われた。その後順調に経過し、元気に巣立つことができた。蛇の再来など警戒して、燕の生態、成長過程などを観測してきた。そこから感じ、学んだことに触れたい。
まず、印象深い情景を回想したい。
卵から孵ったときは 分からず、気づいたら、面白く ようやく口と頭だけが巣に並んで、口を開けるのが ただ仕事のように見え、親は餌を運ぶのに喜々としていて、勇壮な活動ぶりは美しく、素晴らしかった。(これは、かつて母に最も充実していた時代を聞いたところ、2人の息子に 毎月 郵便局から仕送りをしていた頃が 最も充実していたと述べていたことを想起させる。 同じような質問をよく散歩で会う90歳の方にしたところ、 地域で婦人会会長をしていた頃がと述べられたことに通じている。)
だんだんひとりでに成長して、頭と口、それに白いお腹が大きく目立つようになり、羽ばたいたりするようになり、巣立つ準備を始めていた。夜、親鳥と慎ましく並んで巣にいるのは 誠に微笑ましく、限りなく愛しく,至福の時のように感じられた。― 親は意外に警戒していたのかも知れない。
卵が孵るのは 本当に神秘的で、いわば、物に命が吹き込まれ、― 尤も卵の中でも生命活動はどんどん進んでいる訳であるが、孵ると 唯食べるだけであるが、本能的にいろいろ成長しているのが良くわかる。 誰が教えた訳でもないのに 糞を お尻を外に向けて巣外にするのは 大いに感心させられる。誰に教えられた訳でもないのに 巣立つ時には ひとりでに飛べて、餌さえ なんとかは取れる状態になる。飛ぶ行為などは極めて複雑、分析不可能、餌を取る行為などもそうである。本能的に進むは 本当に神秘的な世界であると言える。さらに凄いことは、 南国まで飛んでいき、恋人とともに帰ってきて同様な生態を延々と続けてきた事実である。何千年どころか、何千万年と繰り返してきた生態ではないだろうか。動物でも、植物でも生物は、生命は神秘に満ちていて,殆ど何も分からないと言える。
散歩の折り、80代や90代の方々といろいろ話し、 色とりどりの野の花をみる。奇妙にも、様々な植物、動物、人間の存在、生態が 殆ど変わらず、同じような存在だと感じている。燕や植物の生態のように、人間も 生まれる前も、 死後も そして、現世、生きている実際も 殆ど分からず、全てが大きな流れの上を流されているような存在に見える。自分さえ自分ではなく,唯生かされている存在であるように感じられる。
我々を生かし、存在させてきた何億年と続いてきた環境を大事にして、生態系を大事にして、その大きなものとの調和を志向しようというのが、燕の生態を観測していて学んだ大事なことである。燕が訪れ、巣立つのは共感,共鳴で、家族が増えたように明るくさせ 来年の夢を与えてくれる。元気な巣立ちを祝し、元気な帰宅を願っている。
なお、大きな生命ではなくて、個々の生命の存在が極めて偶然性によっている事実を深く受け止めて置きたい。                                                                           以上 
小さな小鳥が、複雑な飛翔を行い、恋をして生存を続ける能力がどうして備わっているのかと思うと、他の動植物と同様であるが、生物の営みはただ神秘的であると感銘させられる。生命の営みは共感、共鳴を呼び覚ます。切なくもいじらしい。人間よりも完全な存在であるように感じられる。
痩せた土地にいろいろな植物がいろいろ神秘的な色彩の花を咲かせているのにも驚嘆させられる。 燕は、今、卵を暖めているところ。大都市建設、原発事故、原爆投下などは無数の生物たちの慎ましい生活を破壊してきたことを反省したい。 まるで、人類は地球上の生態系を破壊する癌細胞のような存在には見えないだろうか。― 上記に現れた蛇にも神秘性と愛おしさを感じている。年に1度の機会を狙っているが、その能力も誠に神秘的である。


以 上











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