関口舞ブログ
会社をつくり、がんばっています! poolside inc. CEO →Lip Inc. co-founder 感性で出会う「nine」http://getnine.co をやっています。
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SNSで中途半端な承認欲求が満たされ、渇望感を欠いてしまっていたら、ダ・ヴィンチはモナリザを描き上げていない可能性がある
何か思うことがあったり、世の中に対してすごく言いたいことがあったり、社会に対して「この部分を、このように変えたい」と感じることがあったとする。
それを誰かに聞いてもらいたい。共感してもらいたい。認めてもらいたい。実際に結果として残したい。
そんなときに、どうするか?ということを考えたので。
私は大学生の頃、何かすごく言いたいことがあった。「言いたいこと」というのは別に、何かを批判するとか抗議するとかそういう「物を申したい」という意味のことではなくて、何か、わからないけれど、自分の言葉で、伝える価値のある物語が、どこかにあるような気がしていた。
誰かに聞いてほしくて、そして共感してほしくて、でもすぐ近くにそういう人がいないような気がしていた(いたのかもしれないけど、話そうと思わなかった)ために、世の中に発信したかったから、文章を書いていた。小説の類は、途中で自分の書いたものがくだらなく思えてしまってなかなか完成しない。短い文章や散文詩のようなものは、体調の優れない夕方などにいくらでも書くことができた。そういうものを、文芸誌に送ったり、賞に応募したりしていた。いくつか掲載されたり、小さな賞の最終選考に残ったりして、そういうことを以ってして初めて私は「自分の持っている物語」が少なくとも、ある程度の価値があって、誰かが興味をもってくれる・共感してくれるということを実感することができた。だから、もっとがんばろうと思った。淡々と、静かに。
今は、そこまでの苦労をしなくても、つまり「誰かに選ばれる」というような不確かで受動的なプロセスを通さなくても、自分の意思と行動で、世の中にこうやって考えを発表して、反応をもらいやすくなったと思う。「目指している賞の一次選考を通過する」という証明がなくても、「たくさん『いいね』と言ってもらえた」ことである程度の安心感を得ることができる。
SNSを眺めている時間が増えた代わりに、文章を書いたり、ああでもないこうでもないと考えたり、自分のやっていることが誰にも認められないような気がして不安になったり、なんだか周りに誰もいないような気がして寂しいと感じたりすることが減った。なんだか常に、色々な人とつながっていて、色々な情報があって、何か思うことを書けば反応がもらえる。とてもすばらしいことだけど、渇望感が減る場合があるのではないかと思う。
私は極端なことを考えるのが好きで、話を大きくする癖がある。なのでここでも極端な例を出してしまうけれど、例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチっていうとてもすごい方が昔、地球にいらっしゃった。私はあの人のことがなんとなく好きだから、上野公園で昔やっていた「ダ・ヴィンチ展」なるものに学生時代に行ってきた。そこで、「人間は飛べるはずだ!私にできなくても、いつか誰かが飛ぶに違いない」という言葉が紹介されていた。
一生をかけてあらゆる研究をして、あらゆる成果を出してきたダ・ヴィンチさん。絶対にこうである、という信念があって、それを確かめ、実証したいという強い想いがあってこそのあの生涯だったのかなと当時感じた。
ところが、果たして彼が(ダ・ヴィンチさんは、そもそもそういうキャラじゃない、というのは置いといて。)、「人間は飛べるはずだ!」とか、「貴婦人の絵を描こうと思っておりましてね」とfacebookなどに書いて、いいね!とたくさん言ってもらい、「そうだそうだ!」「それは無理ですよ。この記事にもあります通り~」「レオナルドさん天才!」「新しい絵、楽しみです!」などとたくさんの反応をもらい、それによって「ああ、わかってくれる人、いっぱいいるんだなあ」「やっぱり貴婦人っていいテーマだよな」と思って安心したり、「あなたの意見は◯◯の点から間違っています」などといちいち反論にたいして反応したりしていたら、あそこまでの成果は、あっただろうか。モナリザは完成していただろうか?そんなふうに思う。
davinci_monalisa00
出展:salvastyle.com http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci.html
考えをそのままにしておかないで、文字にして発信して、色々な人の反応を得たり、共有したりすることはとてもすばらしいことだと思う。しかし一方で、良くも悪くも、「自分の言っていること・やっていることに価値がある」という安心感を得たり、「なんだかすごく言いたいことがあって、メラメラしていたけど、みんなにわかってもらえたし、いいや」と気が済んでしまったり、そういう効果を得やすい行為だと思う。
起業して仕事をしていると、自分のやっていることや目指しているものに、必要以上に自信をもちたくなることがある。正直言って成功していない起業家なんて、売れてないアマチュアのミュージシャンと同じ。本来であれば曲、すなわちその仕事が世に出て、世の中の役に立ったり、世の中の人に楽しんでもらったりしてこそ、初めて価値が発揮される職業だと個人的には思っている。
だけど、幸か不幸か、アマチュアミュージシャンよりも起業家のほうが、ネット上で発信したものを読んでもらえる機会が多く、たいしたことをやっていなくても、あたかもたいした人かのように錯覚することがしやすいように思う。そういうふうにしていないと、不安になってしまうこともあるのかもしれない。でも、むしろその不安こそが、大切なのではないか。不安とか切なさとか孤独感を味わいまくって、それでも自分のやっていることは正しくて価値があると、成果を出すことでしか世の中に認めてもらえないからこそ、出せる力もあるように思う。
自分から発信をしていくことは、仲間を集めたり、応援してもらったり、同じ想いの人と出会ったり、自分自身の意思を確認したりなど、色々と素敵な効果もある。だから、せっかくこの時代にいるのだから、積極的にやっていきたい。でも、それで自分が中途半端な満足感を得てしまったり、渇望感を欠いたりすることのないように、本当に本当の信念は誰にも一切わかってもらえなくてもちゃんと心の中に灯して、それを実際の成果で証明できるためにこそ、生きていきたいと思う。
結果を出さなければ絶対に理解されず、そもそも人の目に触れることすらできない、そんな状況だからこそ感じる渇望感から生まれた仕事や、発明や、小説や絵や音楽も過去たくさんあったはずだから。http://maidmai.com/news/sns%E3%81%A7%E4%B8%AD%E9%80%94%E5%8D%8A%E7%AB%AF%E3%81%AA%E6%89%BF%E8%AA%8D%E6%AC%B2%E6%B1%82%E3%81%8C%E6%BA%80%E3%81%9F%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81%E6%B8%87%E6%9C%9B%E6%84%9F%E3%82%92%E6%AC%A0/
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
あらゆる生物の最も基本的な本能は、外部から取り入れるという、食の本能である。生きている顕著な営みであると言える。 この基本的な本能から、人間の基本的な要素を分析、考察し、人生の基本を理解したい。
認識できる人間は 自己の生命が求めていることを、欲求や欲望、求める、欲しいという感覚で自覚するが、求める、欲しいの 最も基本的なものは、空腹を満たし、食べたいという、欲求である。もちろん、苦痛からの解放など、生存を脅かす状況からの解放は当然である。
このことから 既に、人間が有限の存在であることを知る。食欲といえども食を無限に頂くことはできず、どんな好物でも やがて、飽きるだろう。有限のものを取り入れている存在であると言える。何を頂くか、何を頂きたいかは、我々の生命が何を要求しているかの 要求の自然な表現として現れていると考えられる。基本的には 好きなものを好きなだけ頂くのが 健康にも良いと考えられよう。 その原理は多様な食から、変化を持たせて、適度に頂くが基本ではないだろうか。すなわち、多様性の原理とそれを実現させる 飽きるという重要な感覚がある。 飽きるという感覚が無ければ、食に偏りを生じ、複雑な生命活動を維持するのに支障が生じるだろう。
この声明の趣旨は、ちょうど食欲の状況のように、外部からの情報を取り入れて 豊かな精神活動を展開しようという観点に思いを至らしむことにある:
1) 我々は有限のものしか受け入れられない、制限があること
2) 我々の生命が 心が何を求めているかを 注意深く絶えず、己が心に尋ねること;
生きたい、死にたくない、良く暮らしたい、それらを越えて、生きるということは どのようなことか、自らに問うて行きたい。
3) 何事集中しすぎると飽きてくるので、間を考え、適度に変化を持たせること
4) 生命作用は複雑な存在だから、幅広い世界、情報に接するように配慮すること
5) 年齢、健康状態、環境などに影響をうけること
6) 慣れる、習慣、学習効果などにも配慮すること。
近年、インターネットの普及で、名曲や名画、映画の名場面など繰り返し、繰り返し楽しむことができる時代を迎えている。また、知識や情報が幾らでも入り、友人、知人、友達など幾らでも増やせる自由な時代を迎えている。それゆえに逆に、自己の世界をきちんと整理、制御して、取捨選択をきちんとして行かないと、いたずらに情報に振り回されて、適切でない食生活が健康を害するように、我々の精神を害することになるだろう。大いに気を付け、配慮して行きたい。
食も、飽きるものと、飽きないで、基本的に続けられるものが在ることにも注目したい。確かに定食など永く続けていても 適当な間隔で頂けば、飽きないで永続できるものがある。水やエネルギー源などは 基本的に必要であり、精神活動でも適度な刺激、変化、発見など、同様に基本的に心がけなければならないものが有り、また、いくら続けても、求道、芸術や研究活動などの創造活動のように 続けられる分野 が有ることに注目したい。
したがって、そのような永続するものを しっかりと受け止めて、適当に揺らぎを取り入れた生き方が、人生を豊かにする秘訣であると言えるだろう。
個人にはそれぞれの才に器が有り、生命作用は内部から、湧いている。教育の原理は その生命作用を補助することにある。 日本の公教育の現状は 個人の食欲を弁えず、一方的に強制して与えすぎで、消化不良と分裂、混乱させ、不健康な人間を大量育成している状況が有るのではないかと危惧している。これは、2500年も前に 中国古代で、既に注意されている事実である(再生核研究所声明2:教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。)。
美しいものをみたい、聞きたい、義に生きたい、人生の意味を知りたい、真相を知りたい、世の法則を知りたい、道を究めたい などなどは、食欲と同様、我々の生命が求めているのである。 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。 これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。
以 上
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何か思うことがあったり、世の中に対してすごく言いたいことがあったり、社会に対して「この部分を、このように変えたい」と感じることがあったとする。
それを誰かに聞いてもらいたい。共感してもらいたい。認めてもらいたい。実際に結果として残したい。
そんなときに、どうするか?ということを考えたので。
私は大学生の頃、何かすごく言いたいことがあった。「言いたいこと」というのは別に、何かを批判するとか抗議するとかそういう「物を申したい」という意味のことではなくて、何か、わからないけれど、自分の言葉で、伝える価値のある物語が、どこかにあるような気がしていた。
誰かに聞いてほしくて、そして共感してほしくて、でもすぐ近くにそういう人がいないような気がしていた(いたのかもしれないけど、話そうと思わなかった)ために、世の中に発信したかったから、文章を書いていた。小説の類は、途中で自分の書いたものがくだらなく思えてしまってなかなか完成しない。短い文章や散文詩のようなものは、体調の優れない夕方などにいくらでも書くことができた。そういうものを、文芸誌に送ったり、賞に応募したりしていた。いくつか掲載されたり、小さな賞の最終選考に残ったりして、そういうことを以ってして初めて私は「自分の持っている物語」が少なくとも、ある程度の価値があって、誰かが興味をもってくれる・共感してくれるということを実感することができた。だから、もっとがんばろうと思った。淡々と、静かに。
今は、そこまでの苦労をしなくても、つまり「誰かに選ばれる」というような不確かで受動的なプロセスを通さなくても、自分の意思と行動で、世の中にこうやって考えを発表して、反応をもらいやすくなったと思う。「目指している賞の一次選考を通過する」という証明がなくても、「たくさん『いいね』と言ってもらえた」ことである程度の安心感を得ることができる。
SNSを眺めている時間が増えた代わりに、文章を書いたり、ああでもないこうでもないと考えたり、自分のやっていることが誰にも認められないような気がして不安になったり、なんだか周りに誰もいないような気がして寂しいと感じたりすることが減った。なんだか常に、色々な人とつながっていて、色々な情報があって、何か思うことを書けば反応がもらえる。とてもすばらしいことだけど、渇望感が減る場合があるのではないかと思う。
私は極端なことを考えるのが好きで、話を大きくする癖がある。なのでここでも極端な例を出してしまうけれど、例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチっていうとてもすごい方が昔、地球にいらっしゃった。私はあの人のことがなんとなく好きだから、上野公園で昔やっていた「ダ・ヴィンチ展」なるものに学生時代に行ってきた。そこで、「人間は飛べるはずだ!私にできなくても、いつか誰かが飛ぶに違いない」という言葉が紹介されていた。
一生をかけてあらゆる研究をして、あらゆる成果を出してきたダ・ヴィンチさん。絶対にこうである、という信念があって、それを確かめ、実証したいという強い想いがあってこそのあの生涯だったのかなと当時感じた。
ところが、果たして彼が(ダ・ヴィンチさんは、そもそもそういうキャラじゃない、というのは置いといて。)、「人間は飛べるはずだ!」とか、「貴婦人の絵を描こうと思っておりましてね」とfacebookなどに書いて、いいね!とたくさん言ってもらい、「そうだそうだ!」「それは無理ですよ。この記事にもあります通り~」「レオナルドさん天才!」「新しい絵、楽しみです!」などとたくさんの反応をもらい、それによって「ああ、わかってくれる人、いっぱいいるんだなあ」「やっぱり貴婦人っていいテーマだよな」と思って安心したり、「あなたの意見は◯◯の点から間違っています」などといちいち反論にたいして反応したりしていたら、あそこまでの成果は、あっただろうか。モナリザは完成していただろうか?そんなふうに思う。
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出展:salvastyle.com http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci.html
考えをそのままにしておかないで、文字にして発信して、色々な人の反応を得たり、共有したりすることはとてもすばらしいことだと思う。しかし一方で、良くも悪くも、「自分の言っていること・やっていることに価値がある」という安心感を得たり、「なんだかすごく言いたいことがあって、メラメラしていたけど、みんなにわかってもらえたし、いいや」と気が済んでしまったり、そういう効果を得やすい行為だと思う。
起業して仕事をしていると、自分のやっていることや目指しているものに、必要以上に自信をもちたくなることがある。正直言って成功していない起業家なんて、売れてないアマチュアのミュージシャンと同じ。本来であれば曲、すなわちその仕事が世に出て、世の中の役に立ったり、世の中の人に楽しんでもらったりしてこそ、初めて価値が発揮される職業だと個人的には思っている。
だけど、幸か不幸か、アマチュアミュージシャンよりも起業家のほうが、ネット上で発信したものを読んでもらえる機会が多く、たいしたことをやっていなくても、あたかもたいした人かのように錯覚することがしやすいように思う。そういうふうにしていないと、不安になってしまうこともあるのかもしれない。でも、むしろその不安こそが、大切なのではないか。不安とか切なさとか孤独感を味わいまくって、それでも自分のやっていることは正しくて価値があると、成果を出すことでしか世の中に認めてもらえないからこそ、出せる力もあるように思う。
自分から発信をしていくことは、仲間を集めたり、応援してもらったり、同じ想いの人と出会ったり、自分自身の意思を確認したりなど、色々と素敵な効果もある。だから、せっかくこの時代にいるのだから、積極的にやっていきたい。でも、それで自分が中途半端な満足感を得てしまったり、渇望感を欠いたりすることのないように、本当に本当の信念は誰にも一切わかってもらえなくてもちゃんと心の中に灯して、それを実際の成果で証明できるためにこそ、生きていきたいと思う。
結果を出さなければ絶対に理解されず、そもそも人の目に触れることすらできない、そんな状況だからこそ感じる渇望感から生まれた仕事や、発明や、小説や絵や音楽も過去たくさんあったはずだから。http://maidmai.com/news/sns%E3%81%A7%E4%B8%AD%E9%80%94%E5%8D%8A%E7%AB%AF%E3%81%AA%E6%89%BF%E8%AA%8D%E6%AC%B2%E6%B1%82%E3%81%8C%E6%BA%80%E3%81%9F%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81%E6%B8%87%E6%9C%9B%E6%84%9F%E3%82%92%E6%AC%A0/
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
あらゆる生物の最も基本的な本能は、外部から取り入れるという、食の本能である。生きている顕著な営みであると言える。 この基本的な本能から、人間の基本的な要素を分析、考察し、人生の基本を理解したい。
認識できる人間は 自己の生命が求めていることを、欲求や欲望、求める、欲しいという感覚で自覚するが、求める、欲しいの 最も基本的なものは、空腹を満たし、食べたいという、欲求である。もちろん、苦痛からの解放など、生存を脅かす状況からの解放は当然である。
このことから 既に、人間が有限の存在であることを知る。食欲といえども食を無限に頂くことはできず、どんな好物でも やがて、飽きるだろう。有限のものを取り入れている存在であると言える。何を頂くか、何を頂きたいかは、我々の生命が何を要求しているかの 要求の自然な表現として現れていると考えられる。基本的には 好きなものを好きなだけ頂くのが 健康にも良いと考えられよう。 その原理は多様な食から、変化を持たせて、適度に頂くが基本ではないだろうか。すなわち、多様性の原理とそれを実現させる 飽きるという重要な感覚がある。 飽きるという感覚が無ければ、食に偏りを生じ、複雑な生命活動を維持するのに支障が生じるだろう。
この声明の趣旨は、ちょうど食欲の状況のように、外部からの情報を取り入れて 豊かな精神活動を展開しようという観点に思いを至らしむことにある:
1) 我々は有限のものしか受け入れられない、制限があること
2) 我々の生命が 心が何を求めているかを 注意深く絶えず、己が心に尋ねること;
生きたい、死にたくない、良く暮らしたい、それらを越えて、生きるということは どのようなことか、自らに問うて行きたい。
3) 何事集中しすぎると飽きてくるので、間を考え、適度に変化を持たせること
4) 生命作用は複雑な存在だから、幅広い世界、情報に接するように配慮すること
5) 年齢、健康状態、環境などに影響をうけること
6) 慣れる、習慣、学習効果などにも配慮すること。
近年、インターネットの普及で、名曲や名画、映画の名場面など繰り返し、繰り返し楽しむことができる時代を迎えている。また、知識や情報が幾らでも入り、友人、知人、友達など幾らでも増やせる自由な時代を迎えている。それゆえに逆に、自己の世界をきちんと整理、制御して、取捨選択をきちんとして行かないと、いたずらに情報に振り回されて、適切でない食生活が健康を害するように、我々の精神を害することになるだろう。大いに気を付け、配慮して行きたい。
食も、飽きるものと、飽きないで、基本的に続けられるものが在ることにも注目したい。確かに定食など永く続けていても 適当な間隔で頂けば、飽きないで永続できるものがある。水やエネルギー源などは 基本的に必要であり、精神活動でも適度な刺激、変化、発見など、同様に基本的に心がけなければならないものが有り、また、いくら続けても、求道、芸術や研究活動などの創造活動のように 続けられる分野 が有ることに注目したい。
したがって、そのような永続するものを しっかりと受け止めて、適当に揺らぎを取り入れた生き方が、人生を豊かにする秘訣であると言えるだろう。
個人にはそれぞれの才に器が有り、生命作用は内部から、湧いている。教育の原理は その生命作用を補助することにある。 日本の公教育の現状は 個人の食欲を弁えず、一方的に強制して与えすぎで、消化不良と分裂、混乱させ、不健康な人間を大量育成している状況が有るのではないかと危惧している。これは、2500年も前に 中国古代で、既に注意されている事実である(再生核研究所声明2:教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。)。
美しいものをみたい、聞きたい、義に生きたい、人生の意味を知りたい、真相を知りたい、世の法則を知りたい、道を究めたい などなどは、食欲と同様、我々の生命が求めているのである。 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。 これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。
以 上
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