2016年4月19日火曜日

記事 韋駄天太助2016年04月18日 13:14熊本地震で企業と個人の支援行為偽善叩きの違いについて考えたこと

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韋駄天太助2016年04月18日 13:14熊本地震で企業と個人の支援行為偽善叩きの違いについて考えたこと




熊本県を中心に発生した大地震で被災された方にお見舞い申し上げます。

平素は言葉の過ぎるブログですので、私なりの自粛モードで書くつもりですが、今回も自然災害時の募金や支援への偽善批判について思わされたことがあるので書いてみます。
東日本大震災の時もありましたが、有名人や実業家が寄付したと表明なりリークされると、金持ちなのに少ないとか売名行為だ偽善者だと叩かれるケースがあります。

一言で終わらせると、「偽善や売名だとしたら何なのか?」となるのですが。
被災地に送られる100万円は100万円で、1億円は1億円だし、もっとストレートに言えば金額より気持ちの方が無力だと・・。

俺は黙って千円寄付した善人なのに、1億円寄付して公表するお前ら大金持ちは売名行為だケシカランと叩きたくなる気持ちは健全なのでしょうか?
こういう勘違いした正義(と思ってるのかな?)は他人に(自分と同じと思ってるのかな?)高貴過ぎる精神を要求し、結果偽善と名付けた行為が全滅すれば困るのが被災地だということがわからない。
結局、全財産でも投げ打って寄付しない限り偽善者と糾弾するのではあまりにも幼稚に思えます。

個人だから色々言いたくなるのでしょうが、法人に置き換えて考えてみれば如何に馬鹿げたことを糾弾しているかがわかると思います。
今回もコンビニや小売り等の企業は食料等の支援物資を被災地に無償提供し、且つその事実を公表していますが、これに対して偽善や売名という糾弾は少ないと思います。
何故なら、企業に偽善や売名という意図が一切ないと思っている人はいないだろうし、それを世間が受け入れているからではないでしょうか?

企業に感情はなく利益を追求する存在であり、無償で物資を提供するのは利益を減らす行為に過ぎず株主への背信行為です。
でも、株主はそれにノーを突き付けないし、寧ろ支援しないことにノーを突き付けるでしょう。
何故なら、それが株主の被災地への気持ちだからではなく(そうであれば個人で行えばいいだけ)、企業の「売名」と「偽善」(?)によるイメージアップを通じで将来の企業利益が増えて自分の懐が潤うと考えるからです。

これは良い悪いではなく資本主義のドライな仕組みです。
結果としては、マイナスイメージを避ける為に企業間で支援合戦が行われるので、特別に特定の企業利益が増えることはなく、見方を変えれば企業は株主の金(利益)を原資にして被災地に無償支援をしていることになります。

中には株主でもないのに企業は売名や偽善で支援してケシカランと怒る高貴な精神の持ち主もごく一部いるでしょう。
でも、イオンやセブン&アイが匿名で無償支援すれば(事実上不可能ですが)企業に慈善活動ではなく増益と配当を求めている株主が怒ります。
当たり前のことです。売名する企業を偽善と叩く何ら利害関係のない世間こそが偽善者なのです。

また、企業は必ずしも善の存在ではなく結果として悪も社会に撒いてしまいます。
従って、自動車販売台数世界一の日本企業は地球温暖化に多大な悪の貢献をしていることになりますが、一方では世界で植林ボランティアをしています。

そうですね、偽善でしょうね。罪ほろぼしですね。
地球にまき散らした排気ガスを浄化するにはどれだけやっても足りないでしょうね。
同時に無理がある「地球にやさしい」企業イメージアップ作戦の売名ですね。
でも、やらないよりいいし、偽善行為それ自体は素晴らしい行いで結構なことですね。

善も悪も行い両方を抱えているのが1企業で、多くの人はそれを理解します。
でも、この考えを法人のみならず個人に適用すると途端に賛同しない人が急増します。
売名でも偽善でも個人の寄付や支援が行われればいいし、拍手することではないですか?

有名人や実業家が寄付をして、その事実を公表する時にそういう気持ちが全くないと言えばイチャモン付けたくなりますね。
だからと言って、偽善が含まれているからと言って、善意が否定される訳ではないのです。
それを必死で叩く人はあまりにも未熟な子供で、自分の偽悪なり不作為を必死で正当化しようとしているようで哀れです。

法人と同じように99%の個人は善も悪も行い両方抱えているし、売名や偽善を許す、むしろ奨励することが回り回って被災地が支援されることは理解した上でモノを言いたいですね。
偽善を声高に糾弾していいのは、その行いが他人(の一部)に悪をもたらすか自己の利益だけを100%追求しているのに詭弁を弄している場合です。

実業家が100億円寄付して叩かれる社会はどこかおかしい。
個人や経営企業の売名という気持ちがあったとしても尊敬してやれとは言わないが拍手は送りたいですね。
偽善と声高に叩く人が一番、世の中から「偽善」すら糾弾して消え去った後に一体何が残るのかは、自分の胸に聞けばわかると思うのだが・・。

わからないのは自分が善100%(と勘違いしているの)か悪100%だからで、故に異質な「偽善」にアレルギー反応を示すのだろうか?
個人も心を持たない法人を見習うべきなのかも知れませんね。
資本主義の中で利潤を追求する性善説も何もない存在が結果として、心ある個人より大きな力で無償支援して社会貢献しているのですから。
善とか悪とか、そういう次元じゃなくて、そういう枠じゃなくて、気持ちの問題じゃなくて、結果何が為されるのかと・・。
良い結果を招くならその手段に貼られたレッテルが「偽善」でも「売名」でも何でもいいと考える力が物資と共に不足しているのかなと・・。http://blogos.com/article/172362/

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上

再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/










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