2016年4月21日木曜日

「芸術の良し悪し」を決める絶対的な、客観的な基準はほんとうに無いのでしょうか?

「芸術の良し悪し」を決める絶対的な、客観的な基準はほんとうに無いのでしょうか?
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よく音楽カテで「この時代の音楽は良かった」「この曲良いよね」などというような会話を見ますし、現実世界でもツイッターでも見ます。でもそれに対して「良し悪しは人それぞれなんだよ。今の音楽は駄目だという人もいれば、今の音楽を良いと思う人もいる。それだけ」とか言う人もいます。

そう言われたらじゃあ「客観的な基準で、俺が好きな音楽を客観的に肯定したい。いっつもいっつも人それぞれってうるさいな。少なくともAKBもあの曲よりも俺が好きなあの曲の方が客観的にも良い曲のはずなんだ。でも客観的に良し悪しを割り出す方法が分からない。どうも「人それぞれ」論者を論破できない。どうすればいいんだ!!客観的な良し悪しを割り出す方法か、または「客観的な良し悪しは存在」のならばそれがなぜなのか理解できるよう教えてくれ!!」ってなりますよね?というか僕がそういう感じになっているのですが、教えてくれませんか?

自分が芸術に「良さ」を感じる時、それが「完全に自分に固有の感覚」だとは信じらないし、そうじゃない部分もあるはずじゃないですか。良し悪しを語れないなんて、いちいち「自分にとっては」という接頭句をつけられるほど、感覚的に納得できません。例えば同じバンドのライブに行って盛り上がって、帰りに「良かったね」って言うのも「それは完全に固有の感覚であり、他人に共感を求められる性質のものではない。そもそも感覚が別々なのだから、同じものを見ているわけではない。あなたはボーカルを聴いていてボーカルの顔を見ていたのかもしれないし、私は会場の雰囲気、ギターの演奏、生の音圧を感じてたかもしれないじゃない。本当に同じものを感じてたかなんてわからない。だから「あなたも私も人それぞれ」」ってものなんでしょうか?

例えば「100点が一番良い点数/0点が一番悪い点数」と、命題的な基準が設けられているものならば良し悪しは決められると思いますし「良い悪い」も語って良いと思いますし、「お前の中ではそうなんだろう」とは基本的に成立しない物だと思います。でも芸術の良し悪しはどうなんでしょうか?

音楽や芸術という慰め機能を持つ存在に「共感」という行為が客観的に成立しないなんて納得できません。納得するにはどう捉えればいいですか?音楽だけじゃなく絵でも写真でもです。

補足
「良し悪しは何を基準に語るかで変わる。だから人それぞれ論者は「人それぞれ基準が違うのだから共感を求めるものではない」と言う。

確かに人それぞれ違う基準を持っているかもしれない。だけどなぜその「基準」をたった一つのものにしたがるのだろうか?良し悪しを感じる基準は複数あると考えるのがより正確だし、そして「いくつかの基準は被っているかもしれない」と考えるのが正確ではないのか?」

ってとこまでは浮かびました!!良い線行ってませんか?

「でもその「いくつかの基準」さえも元々それを統率する人間本体が違うから~」とか返されるのもなんか微妙じゃないですか?

共感した 0http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12158395147


再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)

世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました. 
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか. 
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか. 
3) それはみんなに受け入れられるか.  
4) それは安定的に実現可能か. 
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる. 
(再生核研究所声明1)。

相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。

以 上


再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ 

人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上









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