ホリエモン×ひろゆきが不倫問題で考える、「嫉妬されない無難な人」がよしとされるってどうなの?
週プレNEWS 4月26日(火)6時0分配信
ホリエモン×ひろゆきが不倫問題で考える、「嫉妬されない無難な人」がよしとされるってどうなの?
日本ではリーダーに協調性が求められすぎだとふたりは語る
最近、日本が不倫問題に揺れている。乙武洋匡氏の他、ベッキーとゲス川谷氏、さらにはカップヌードルの新CMに矢口真里氏が出演したら、「不倫した人を出すなんて」と炎上したりと、不倫に対して社会がヒステリック気味に拒否する状況が続いている。
【参照】ロンブー・田村淳がベッキーに許せなかったこととは…
『週刊プレイボーイ』本誌で対談コラム「帰ってきた!なんかヘンだよね」を連載中の“ホリエモン”こと堀江貴文氏と元「2ちゃんねる」管理人のひろゆき氏は、そんな反応に違和感を覚えるという。堀江氏が言う。
「矢口さんにしたって乙武さんにしたって、不倫をして世間に迷惑をかけているわけでもないのに、なんでこんなに責められる必要があるんだろ? 奥さんとかには謝る必要があっても、別に世間には謝罪しなくてもいいでしょ」
ひろゆき氏もうなずく。
「僕もそう思います。『不倫は当事者同士の問題』で、『周りがどうこういう話じゃない』と思うのは少数派なんすかね?」
では、当事者ではないのに、不倫を糾弾する人々は何が気に入らないのか? 堀江氏はこう推測する。
「結局、批判しているのって嫉妬してるからなんじゃないの? 結婚して不満を感じているけど、だからといって浮気する度胸も別れる勇気もない。『自分が我慢しているのにアイツは不倫して腹が立つ』とか、そういう種類の嫉妬だと思うな」
そんな嫉妬深い人々が、矢口氏のカップヌードルCMに抗議の電話をかけ、乙武氏を参院選不出馬に追いやった。そう、ふたりは見る。
「なんつーか、ただでさえ見返りの少ない政治家という仕事に就こうとしている人の足を引っ張ろうとするのかがわからない。やっぱり、世間の反応はヘンだよ」と堀江氏。
しかも、こうした傾向は決して日本のためにはならないのではないか? ひろゆき氏はその疑問から次のような持論を…。
「政治手腕と不倫は関係ないっすからね。なので、今回の件を見ていると、世間は政治家に優秀な人を求めてないんじゃないかっていう気がするんですよ。って考えると、無名の官僚が粛々(しゅくしゅく)と政治を進めていくのが日本は向いてるんでしょうね。でも、それだと高度成長期とかバブルみたいに進むべき方向が決まってる時はいいんですけど、どっちに進むか決めかねるような状況だと、だらだらと衰弱してくパターンになるんですよね。日本にとってよくはない状況なんですが。
てか、万人に好かれる優秀な人ってほぼいないですよね。僕、ダライ・ラマぐらいしか思いつかないんですが、彼も中国では嫌われてますしね。むしろ、一部の人は嫌いだけど一部の人は大好きっていう人のほうが優秀な場合が多いですよ。でも日本は、賛否両論ある優秀な人より、無名な無能の人を選んだりする。
『個性的であること』が“欠点”になるか、“美点”になるかの違いがありますよね。日本って他の人と違っていることは悪いって教えられて育ちますけど、アメリカではユニークであることが重要っていわれて育ちますから」
実際、堀江氏も「小学校の時の通信簿でめっちゃディスられてた」そうだ。
「俺、小学校の頃は、褒(ほ)められたことないからね。ひどいもんだったよ。いやみっぽく聞こえるかもだけど、勉強ができすぎて逆に褒められなかった。テストは大体5分くらいで終わっちゃうから『先生、寝ていい?』『遊んできていい?』って言ってたし」
そうした環境では、優秀なリーダーなど生まれないとひろゆき氏は言う。
「日本の教育では勉強ができることよりも協調性のほうが求められますからね。そして、そういうヘンな教育のおかげで日本人は政治家という日本のリーダーにも協調性を求める。でも、同僚を選ぶなら人柄が良くて協調性がある人のほうがいいでしょうけど、リーダーに協調性はそんなに必要ないわけです。だって、周りの反応を気にしていると大胆な政策なんて打ち出せないですから」
こうして、日本では「協調性があって嫉妬の対象にならない無難な人」がリーダーになり、ほとんどの人が得をしないというワケ。「一体、いつまでこんなヘンなこと続けるんだろ?」と、一連の不倫騒動から日本人気質の不毛さを嘆くふたりだが…。
●このコラムの全文は発売中の週刊プレイボーイ18号(4月18日発売)に掲載。是非そちらもお読みください!
(イラスト/西アズナブル)http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160426-00064493-playboyz-soci
一応反社会出的行為ですから、いかがなものか・・・・・・
特に上に立つ人は・・・・・
再生核研究所声明36(2010/05/14):
恋の原理と心得
元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。 元祖生命体においては 男女はなく一体の存在である。 従って、恋も、もちろん、男女の愛も親子の愛もそして死も本来存在しないものである。 元祖生命体においては 本来 永遠の生命を有していたから、 食欲や生命間の争いも無く、人類の進化の先をもっぱら志向しているとみられる。
しかしながら、物質の形をとって、 生命が存在するためには、そのままで、永年存続させることは、 物理的に不可能であり、再生機能による仕掛けを用意する必要があった。 厳しい自然環境に柔軟に対応できるように、多様な生体系に分け、多様性の観点から、高等生物を2種類に分け、2つの作用によって、生命を再生させる仕掛けができて、それらが、男女の誕生、恋、結婚、出生、育児、親子の基本的な営みができたというのが そもそも恋の原理である。 これが子の誕生と死の輪廻、再生の原理である。 実際、人類以外の多くの生物は、生きること、恋をすること、子を設け、育てることで 殆どその生命活動は尽きると言える。 もちろん生物である人類にとっても、 基本は同様であると言える。 実際、 人生のあらゆる活動の大部分を それらに関して費やしていると言える。 種の保存は あらゆる生物の第1原理 であるから、当然である。 実際、人生を表現するあらゆる文学の課題がそれらに絡む題材であると言っても過言ではない。
このような発想はギリシャと仏教の思想にあると考えるが、 夜明け前 よっちゃんの想い で最初に述べられた 最も大事なこと ― 必然的に新しい価値観と考え方を限りなく発展させて、雄大な世界を拓く - となるので、深入りはしないことにしたい。 そこで、心得の方に視点を移したい。
男女がどのように恋について関わるかは 2人の自由であるから、それらの内部関係ではなくて、社会的な在り様についてまず触れたい。 実際、現在でも国や、社会によって多様な在りようが存在するのが 現実であり、実際である。 しかしながら、それらの在りようの基本として、声明1に述べられている、 公正の原則は ここでも基本になり得ると考える:
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
殆どの小説の題材になる程に 恋の問題は、人間の精神に深い影響を与えるものであるから、 特に個人個人が 自己の心に忠実に、全体として、諒となるように対応するのが 最も肝要である。 自己の心とは実際深く、複雑なものであるから、しっかりと自分を捉えて対応するのが肝要である(恋の心得)。 上述のように そもそも 恋は生と死に関わる人生の大事 であるから、特に恋の 第一の結晶作用(スタンダール)がはじまる以前においては 慎重さが大事であり、第二の結晶作用 前においては 恋を解消する勇気を持ちながら、十分な時間をとり、全人格を賭けて決断を行なうことが特に肝要である。恋には、一個の人間の、愛、欲求、良心、熱情、不安、畏れ、などなどの激しい葛藤があり、その意味で、恋にどのように関わったかは、1個の人物の第1次の総合指標を表していると言える。
恋の現象として、特に印象深い、参考文献、表現について触れておきたい:
恋の問題を人生・世界の広い視点から深く扱っているものとして、ゲーテのファウスト。
女性の恋と性は簡単ではなく深いものであることに触れている、バルザックの谷間のゆり。
自殺する前に話した、先輩の言葉: 私の人生で、真実は唯一つ、A を愛したことだけである。- 実際、恋のいわば失敗で、自殺に追い込まれたり、生涯に亘る傷を負うことは世に多くみられる。
人生の基本定理(声明12)に寄せられた言葉: 出産が 私の最も感動したときである。
少し、超越への道について触れたい。 食欲と性欲は 基本的な人間の欲求とされるが、上記 元祖生命体においては 本来それらは、無いものであり、本来の生命活動としては、それらを超えたところに存在するということである。 したがって、 食べるために生きる、恋のために生きるは、本質的な誤りを含んでいる。 真実、本質は逆である。 生きるために食べ、生きるために恋をするのである。 したがって、それらは無限ではあり得ない。 人類が 元祖生命体の人類の先を志向するのは、あらゆる生物のうちで、人類だけができる人類の崇高な使命である。 人類は己が存在の基礎に元祖生命体の己の分身が雄大に広がっていて、同じ運命共同体であることを忘れてはならない。 もちろん、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在である。 まこと 個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみると 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である。
元祖生命体の高度な謙虚な営みの一つして、 数学者の人生を紹介したい。 数学者は関係を追及していて、ただその関係はどうかという問題意識を持ち、あるいは その真偽の追求、あるいはそのような関係を求めて、真理の追求を行っている。 面白いのは、それらは世の中と何ら関係がなくても、 それはどうか、どうかと限りなく追及していることである。 しかも その中に、美と感動を見出して、その追求には終わりはなく、 無限である。実際、たとえば、オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる、と言える。数学者にとっては 人生は短すぎると言える。また、移ろい行くものや世事に関心が薄く、実際、戦場でも数学を考えていたというような逸話が残されている。 科学者や芸術家も同じような人生ではないかと考えられる。実際、人間は有限性と無限性の両面を持っている存在である。
以 上
再生核研究所声明261 (2015.12.08) 全面的な批判は慎もう ー 批判は具体的に、建設的に
具体例を上げて議論しよう。最近起きたパリのテロ事件で、オランド大統領は これは戦争だと公言してISへ爆撃を開始した。これは適切であろうか。テロの背後、責任を有する者への懲罰としての攻撃になるだろうか。― もっともそのような発想は 既に間違いであるが
(再生核研究所声明 130 (2013.9.1): 復讐心も、競争心も、嫉妬心も空しい: 忠臣蔵の断罪を求める。― 世界中のテロリストをなだめる方法(宗教間と民族間))―
同じように発想した 9.11ニューヨーク テロ事件の報復爆撃で、テロが逆に拡大した事実もあるのではないだろうか。多数の関係のない者を巻き込み、犠牲にしてはいないだろうか。また、マイナンバー制度など 行政の無駄を省き 公正な社会の実現のためには 導入は当然であるにも関わらず、管理される事を嫌って、拒否運動が起きている。さらに一部の事実、報道をもって、受信料支払い拒否や、新聞購読の中止等呼びかけている者もいる。また、個人が犯した犯罪に対して、国家や国民への憎しみを増長させる悪しき意見表明も広がっている。
これらは、小さな部分を見て、それが全体のように誤解して批判を大きくしているとは言えないだろうか。 そもそも、個人の視野、能力は極めて限られていて、部分を見てそれを全体だと誤解しやすい状況は根元的に存在する。個人は所詮、単細胞的存在であることを肝に銘じたい(再生核研究所声明 69: 単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
特に他を批判するときには、謙虚さを持って、批判は具体的、批判が相手に対して、参考になり、反省できるような形で行いたい。いわば揚げ足取りのような批判は所詮小者の卑小な人物のすることではないだろうか。無節制に批判を行えば、社会は暗いものになり、共生感に基づく喜びの感情、愛に満ちた美しい社会とは言えない。
特に、国家や民族を侮辱し、全面的な否定を意味するような言動は 厳に慎むべきである。どの様な国家にも民族にも多様な人々が存在していて、自分たちと同じような夢を描き、幸せを求めている事をしっかりと理解すべきである。友人や隣人、隣国を侮り、批判する世相は 美しい風土、自然環境、文化を有する日本国に ふさわしいものではないと考え、日本の一部の異常な意見表明に 嫌な感じを抱いている。
より良い社会を築く原理は 相手の立場、気持ちに思いを致すことであると再生核研究所声明1で言明している ― 公正の原則。命を掛けて抵抗する者の気持ちを無視して、侮り、それを抹殺しようとすれば、逆にテロによって人類が絶滅する危険性もあるのではないだろうか。地球も人類も絶対ではなく、動物よりも劣る人類は 外なる原因ではなく、環境汚染や人口の爆発、テロなどによる自業自得による自滅の可能性が高いのではないだろうか。恥ずべき世界史を変え、夜明けを迎えたい。
以 上
週プレNEWS 4月26日(火)6時0分配信
ホリエモン×ひろゆきが不倫問題で考える、「嫉妬されない無難な人」がよしとされるってどうなの?
日本ではリーダーに協調性が求められすぎだとふたりは語る
最近、日本が不倫問題に揺れている。乙武洋匡氏の他、ベッキーとゲス川谷氏、さらにはカップヌードルの新CMに矢口真里氏が出演したら、「不倫した人を出すなんて」と炎上したりと、不倫に対して社会がヒステリック気味に拒否する状況が続いている。
【参照】ロンブー・田村淳がベッキーに許せなかったこととは…
『週刊プレイボーイ』本誌で対談コラム「帰ってきた!なんかヘンだよね」を連載中の“ホリエモン”こと堀江貴文氏と元「2ちゃんねる」管理人のひろゆき氏は、そんな反応に違和感を覚えるという。堀江氏が言う。
「矢口さんにしたって乙武さんにしたって、不倫をして世間に迷惑をかけているわけでもないのに、なんでこんなに責められる必要があるんだろ? 奥さんとかには謝る必要があっても、別に世間には謝罪しなくてもいいでしょ」
ひろゆき氏もうなずく。
「僕もそう思います。『不倫は当事者同士の問題』で、『周りがどうこういう話じゃない』と思うのは少数派なんすかね?」
では、当事者ではないのに、不倫を糾弾する人々は何が気に入らないのか? 堀江氏はこう推測する。
「結局、批判しているのって嫉妬してるからなんじゃないの? 結婚して不満を感じているけど、だからといって浮気する度胸も別れる勇気もない。『自分が我慢しているのにアイツは不倫して腹が立つ』とか、そういう種類の嫉妬だと思うな」
そんな嫉妬深い人々が、矢口氏のカップヌードルCMに抗議の電話をかけ、乙武氏を参院選不出馬に追いやった。そう、ふたりは見る。
「なんつーか、ただでさえ見返りの少ない政治家という仕事に就こうとしている人の足を引っ張ろうとするのかがわからない。やっぱり、世間の反応はヘンだよ」と堀江氏。
しかも、こうした傾向は決して日本のためにはならないのではないか? ひろゆき氏はその疑問から次のような持論を…。
「政治手腕と不倫は関係ないっすからね。なので、今回の件を見ていると、世間は政治家に優秀な人を求めてないんじゃないかっていう気がするんですよ。って考えると、無名の官僚が粛々(しゅくしゅく)と政治を進めていくのが日本は向いてるんでしょうね。でも、それだと高度成長期とかバブルみたいに進むべき方向が決まってる時はいいんですけど、どっちに進むか決めかねるような状況だと、だらだらと衰弱してくパターンになるんですよね。日本にとってよくはない状況なんですが。
てか、万人に好かれる優秀な人ってほぼいないですよね。僕、ダライ・ラマぐらいしか思いつかないんですが、彼も中国では嫌われてますしね。むしろ、一部の人は嫌いだけど一部の人は大好きっていう人のほうが優秀な場合が多いですよ。でも日本は、賛否両論ある優秀な人より、無名な無能の人を選んだりする。
『個性的であること』が“欠点”になるか、“美点”になるかの違いがありますよね。日本って他の人と違っていることは悪いって教えられて育ちますけど、アメリカではユニークであることが重要っていわれて育ちますから」
実際、堀江氏も「小学校の時の通信簿でめっちゃディスられてた」そうだ。
「俺、小学校の頃は、褒(ほ)められたことないからね。ひどいもんだったよ。いやみっぽく聞こえるかもだけど、勉強ができすぎて逆に褒められなかった。テストは大体5分くらいで終わっちゃうから『先生、寝ていい?』『遊んできていい?』って言ってたし」
そうした環境では、優秀なリーダーなど生まれないとひろゆき氏は言う。
「日本の教育では勉強ができることよりも協調性のほうが求められますからね。そして、そういうヘンな教育のおかげで日本人は政治家という日本のリーダーにも協調性を求める。でも、同僚を選ぶなら人柄が良くて協調性がある人のほうがいいでしょうけど、リーダーに協調性はそんなに必要ないわけです。だって、周りの反応を気にしていると大胆な政策なんて打ち出せないですから」
こうして、日本では「協調性があって嫉妬の対象にならない無難な人」がリーダーになり、ほとんどの人が得をしないというワケ。「一体、いつまでこんなヘンなこと続けるんだろ?」と、一連の不倫騒動から日本人気質の不毛さを嘆くふたりだが…。
●このコラムの全文は発売中の週刊プレイボーイ18号(4月18日発売)に掲載。是非そちらもお読みください!
(イラスト/西アズナブル)http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160426-00064493-playboyz-soci
一応反社会出的行為ですから、いかがなものか・・・・・・
特に上に立つ人は・・・・・
再生核研究所声明36(2010/05/14):
恋の原理と心得
元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。 元祖生命体においては 男女はなく一体の存在である。 従って、恋も、もちろん、男女の愛も親子の愛もそして死も本来存在しないものである。 元祖生命体においては 本来 永遠の生命を有していたから、 食欲や生命間の争いも無く、人類の進化の先をもっぱら志向しているとみられる。
しかしながら、物質の形をとって、 生命が存在するためには、そのままで、永年存続させることは、 物理的に不可能であり、再生機能による仕掛けを用意する必要があった。 厳しい自然環境に柔軟に対応できるように、多様な生体系に分け、多様性の観点から、高等生物を2種類に分け、2つの作用によって、生命を再生させる仕掛けができて、それらが、男女の誕生、恋、結婚、出生、育児、親子の基本的な営みができたというのが そもそも恋の原理である。 これが子の誕生と死の輪廻、再生の原理である。 実際、人類以外の多くの生物は、生きること、恋をすること、子を設け、育てることで 殆どその生命活動は尽きると言える。 もちろん生物である人類にとっても、 基本は同様であると言える。 実際、 人生のあらゆる活動の大部分を それらに関して費やしていると言える。 種の保存は あらゆる生物の第1原理 であるから、当然である。 実際、人生を表現するあらゆる文学の課題がそれらに絡む題材であると言っても過言ではない。
このような発想はギリシャと仏教の思想にあると考えるが、 夜明け前 よっちゃんの想い で最初に述べられた 最も大事なこと ― 必然的に新しい価値観と考え方を限りなく発展させて、雄大な世界を拓く - となるので、深入りはしないことにしたい。 そこで、心得の方に視点を移したい。
男女がどのように恋について関わるかは 2人の自由であるから、それらの内部関係ではなくて、社会的な在り様についてまず触れたい。 実際、現在でも国や、社会によって多様な在りようが存在するのが 現実であり、実際である。 しかしながら、それらの在りようの基本として、声明1に述べられている、 公正の原則は ここでも基本になり得ると考える:
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
殆どの小説の題材になる程に 恋の問題は、人間の精神に深い影響を与えるものであるから、 特に個人個人が 自己の心に忠実に、全体として、諒となるように対応するのが 最も肝要である。 自己の心とは実際深く、複雑なものであるから、しっかりと自分を捉えて対応するのが肝要である(恋の心得)。 上述のように そもそも 恋は生と死に関わる人生の大事 であるから、特に恋の 第一の結晶作用(スタンダール)がはじまる以前においては 慎重さが大事であり、第二の結晶作用 前においては 恋を解消する勇気を持ちながら、十分な時間をとり、全人格を賭けて決断を行なうことが特に肝要である。恋には、一個の人間の、愛、欲求、良心、熱情、不安、畏れ、などなどの激しい葛藤があり、その意味で、恋にどのように関わったかは、1個の人物の第1次の総合指標を表していると言える。
恋の現象として、特に印象深い、参考文献、表現について触れておきたい:
恋の問題を人生・世界の広い視点から深く扱っているものとして、ゲーテのファウスト。
女性の恋と性は簡単ではなく深いものであることに触れている、バルザックの谷間のゆり。
自殺する前に話した、先輩の言葉: 私の人生で、真実は唯一つ、A を愛したことだけである。- 実際、恋のいわば失敗で、自殺に追い込まれたり、生涯に亘る傷を負うことは世に多くみられる。
人生の基本定理(声明12)に寄せられた言葉: 出産が 私の最も感動したときである。
少し、超越への道について触れたい。 食欲と性欲は 基本的な人間の欲求とされるが、上記 元祖生命体においては 本来それらは、無いものであり、本来の生命活動としては、それらを超えたところに存在するということである。 したがって、 食べるために生きる、恋のために生きるは、本質的な誤りを含んでいる。 真実、本質は逆である。 生きるために食べ、生きるために恋をするのである。 したがって、それらは無限ではあり得ない。 人類が 元祖生命体の人類の先を志向するのは、あらゆる生物のうちで、人類だけができる人類の崇高な使命である。 人類は己が存在の基礎に元祖生命体の己の分身が雄大に広がっていて、同じ運命共同体であることを忘れてはならない。 もちろん、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在である。 まこと 個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみると 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である。
元祖生命体の高度な謙虚な営みの一つして、 数学者の人生を紹介したい。 数学者は関係を追及していて、ただその関係はどうかという問題意識を持ち、あるいは その真偽の追求、あるいはそのような関係を求めて、真理の追求を行っている。 面白いのは、それらは世の中と何ら関係がなくても、 それはどうか、どうかと限りなく追及していることである。 しかも その中に、美と感動を見出して、その追求には終わりはなく、 無限である。実際、たとえば、オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる、と言える。数学者にとっては 人生は短すぎると言える。また、移ろい行くものや世事に関心が薄く、実際、戦場でも数学を考えていたというような逸話が残されている。 科学者や芸術家も同じような人生ではないかと考えられる。実際、人間は有限性と無限性の両面を持っている存在である。
以 上
再生核研究所声明261 (2015.12.08) 全面的な批判は慎もう ー 批判は具体的に、建設的に
具体例を上げて議論しよう。最近起きたパリのテロ事件で、オランド大統領は これは戦争だと公言してISへ爆撃を開始した。これは適切であろうか。テロの背後、責任を有する者への懲罰としての攻撃になるだろうか。― もっともそのような発想は 既に間違いであるが
(再生核研究所声明 130 (2013.9.1): 復讐心も、競争心も、嫉妬心も空しい: 忠臣蔵の断罪を求める。― 世界中のテロリストをなだめる方法(宗教間と民族間))―
同じように発想した 9.11ニューヨーク テロ事件の報復爆撃で、テロが逆に拡大した事実もあるのではないだろうか。多数の関係のない者を巻き込み、犠牲にしてはいないだろうか。また、マイナンバー制度など 行政の無駄を省き 公正な社会の実現のためには 導入は当然であるにも関わらず、管理される事を嫌って、拒否運動が起きている。さらに一部の事実、報道をもって、受信料支払い拒否や、新聞購読の中止等呼びかけている者もいる。また、個人が犯した犯罪に対して、国家や国民への憎しみを増長させる悪しき意見表明も広がっている。
これらは、小さな部分を見て、それが全体のように誤解して批判を大きくしているとは言えないだろうか。 そもそも、個人の視野、能力は極めて限られていて、部分を見てそれを全体だと誤解しやすい状況は根元的に存在する。個人は所詮、単細胞的存在であることを肝に銘じたい(再生核研究所声明 69: 単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
特に他を批判するときには、謙虚さを持って、批判は具体的、批判が相手に対して、参考になり、反省できるような形で行いたい。いわば揚げ足取りのような批判は所詮小者の卑小な人物のすることではないだろうか。無節制に批判を行えば、社会は暗いものになり、共生感に基づく喜びの感情、愛に満ちた美しい社会とは言えない。
特に、国家や民族を侮辱し、全面的な否定を意味するような言動は 厳に慎むべきである。どの様な国家にも民族にも多様な人々が存在していて、自分たちと同じような夢を描き、幸せを求めている事をしっかりと理解すべきである。友人や隣人、隣国を侮り、批判する世相は 美しい風土、自然環境、文化を有する日本国に ふさわしいものではないと考え、日本の一部の異常な意見表明に 嫌な感じを抱いている。
より良い社会を築く原理は 相手の立場、気持ちに思いを致すことであると再生核研究所声明1で言明している ― 公正の原則。命を掛けて抵抗する者の気持ちを無視して、侮り、それを抹殺しようとすれば、逆にテロによって人類が絶滅する危険性もあるのではないだろうか。地球も人類も絶対ではなく、動物よりも劣る人類は 外なる原因ではなく、環境汚染や人口の爆発、テロなどによる自業自得による自滅の可能性が高いのではないだろうか。恥ずべき世界史を変え、夜明けを迎えたい。
以 上
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