2016年4月20日水曜日

記事 町村泰貴2016年04月19日 09:30地震がモラルパニックを起こし、いかがなものか症候群に陥るニッポン社会

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町村泰貴2016年04月19日 09:30地震がモラルパニックを起こし、いかがなものか症候群に陥るニッポン社会




地震とかテロとか、あるいは凶悪残虐な犯罪とかでも、社会がショックを受けると、社会全体の雰囲気が一変し、普段ならしないような行動に駆り立てられることがある。
そういう事態を称してモラルパニックと呼ぶのなら、今の日本社会はまさしくモラルパニックを起こした状態と言える。

そして、とても日本的な反応が、いわゆる自粛ムードであり、大きな地震とか災害とかが起きるたびに観測される。

これは約20年前の阪神淡路大震災の時分にも現れており、その時、友人の江下・明大教授が「いかがなものか症候群」と呼んでいたのがとても印象的だ。

熊本を中心とする九州中央を横切るような地震災害は、今もなお継続中で油断できない状況にあるが、そんな時だからといってテレビのCMを中止して公共広告機構の広告に差し替えたり、芸能人が普段と変わらない写真をブログにアップしたら非難されて削除に追い込まれたりといったことが現れている。

東日本大震災の時も、全く同じような自粛ムードというか「いかがなものか症候群」が観測されたが、その時にこんなバカバカしいことはヤメよう、花見を中止したりしないようにしようという声が上がった。

私も「news:自粛禍---とくしまマラソン」という記事を書いた。ここで題材にしたマラソンについては、その運営に必要な人材を確保することが当時の状況で困難という事情もあり、中止ないし延期もやむを得ないことであったかもしれないが、そこで問題とした「自粛禍」という現象の問題性は変わらない。

しかし、こうした見方は、日本的な自粛ムードにかき消され、かえって地震=自粛が慣習として定着したかのようでもある。

今回参考にした記事は徳力さんの「本田圭佑選手の問題提起で考える「支援」と「自粛」の間にある選択肢」であり、彼は自粛なんてバカバカしいことと言い切らないところが大人ではあるが、それでも以下のように述べている。
「支援」と「自粛」の選択肢の間には、本田圭佑選手が言うようにいつも通りのことを「普通」にやる、いやむしろ普段より積極的にやる、という選択肢があります。

その「普通」の行動は一見不謹慎に見えるリスクがあるかもしれませんが、実際には「自粛」よりもはるかに間接的に「支援」につながるケースもあるわけです。
そう、東日本大震災の時も、自粛のような愚かなことをして日本経済を沈滞させるのは、かえって復旧・復興に妨げとなると言われていた。
こうしたポイントを全く学ばないまま、喉元が過ぎてしまったようである。

社会的には自粛ムードが規範となり、それをネットの民が「炎上」を武器として強制するという構図ができあがっているが、実はこれは建前にすぎない。
社会的な活動を自粛するのは、それによって余ったエネルギーを被災地支援に回すということが本来の狙いかも知れないが、これは建前にすぎない。本音では、外面は自粛していても、被災地以外の人たちは自分のことしか考えない行動を平気でしている。
いわゆる復興予算を大盤振る舞いしたら、日本全国の、復興とは関係のない建築土木業にお金が回って被災地の復興に必要な予算が足りなかったという事態も記憶に新しいところであり、被災地のためにエネルギーをつぎ込むことなど考えてもいないのに外面だけ自粛している連中がたくさんいることは明らかだ。
そういう連中にとっては、ネット民による炎上圧力も、格好の道具なのである。要は、いいように使われているってことだ。

そういうわけで、被災地にボランティアに行くとか、必要な物資を提供するとか、あるいはせめて義援金を送るとか、そのような行動に出るのは別として、日常の営みは楽しいことも嬉しいことも続けていこうよ、ということである。http://blogos.com/article/172464/


良い言葉では・・・
相手を傷つけないで、自分の意見を言わないで・・・・


再生核研究所声明261 (2015.12.08) 全面的な批判は慎もう ー 批判は具体的に、建設的に
具体例を上げて議論しよう。最近起きたパリのテロ事件で、オランド大統領は これは戦争だと公言してISへ爆撃を開始した。これは適切であろうか。テロの背後、責任を有する者への懲罰としての攻撃になるだろうか。― もっともそのような発想は 既に間違いであるが

(再生核研究所声明 130 (2013.9.1): 復讐心も、競争心も、嫉妬心も空しい: 忠臣蔵の断罪を求める。― 世界中のテロリストをなだめる方法(宗教間と民族間))― 

同じように発想した 9.11ニューヨーク テロ事件の報復爆撃で、テロが逆に拡大した事実もあるのではないだろうか。多数の関係のない者を巻き込み、犠牲にしてはいないだろうか。また、マイナンバー制度など 行政の無駄を省き 公正な社会の実現のためには 導入は当然であるにも関わらず、管理される事を嫌って、拒否運動が起きている。さらに一部の事実、報道をもって、受信料支払い拒否や、新聞購読の中止等呼びかけている者もいる。また、個人が犯した犯罪に対して、国家や国民への憎しみを増長させる悪しき意見表明も広がっている。
これらは、小さな部分を見て、それが全体のように誤解して批判を大きくしているとは言えないだろうか。 そもそも、個人の視野、能力は極めて限られていて、部分を見てそれを全体だと誤解しやすい状況は根元的に存在する。個人は所詮、単細胞的存在であることを肝に銘じたい(再生核研究所声明 69:  単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
特に他を批判するときには、謙虚さを持って、批判は具体的、批判が相手に対して、参考になり、反省できるような形で行いたい。いわば揚げ足取りのような批判は所詮小者の卑小な人物のすることではないだろうか。無節制に批判を行えば、社会は暗いものになり、共生感に基づく喜びの感情、愛に満ちた美しい社会とは言えない。
特に、国家や民族を侮辱し、全面的な否定を意味するような言動は 厳に慎むべきである。どの様な国家にも民族にも多様な人々が存在していて、自分たちと同じような夢を描き、幸せを求めている事をしっかりと理解すべきである。友人や隣人、隣国を侮り、批判する世相は 美しい風土、自然環境、文化を有する日本国に ふさわしいものではないと考え、日本の一部の異常な意見表明に 嫌な感じを抱いている。

より良い社会を築く原理は 相手の立場、気持ちに思いを致すことであると再生核研究所声明1で言明している ― 公正の原則。命を掛けて抵抗する者の気持ちを無視して、侮り、それを抹殺しようとすれば、逆にテロによって人類が絶滅する危険性もあるのではないだろうか。地球も人類も絶対ではなく、動物よりも劣る人類は 外なる原因ではなく、環境汚染や人口の爆発、テロなどによる自業自得による自滅の可能性が高いのではないだろうか。恥ずべき世界史を変え、夜明けを迎えたい。
以 上











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