2016年4月14日木曜日

真岡鉄道、モラルのない撮り鉄に「もう来ないでください」と呼びかけ 敷地内に侵入し菜の花を踏みつけて撮影 撮影のための路上駐車も問題視。

真岡鉄道、モラルのない撮り鉄に「もう来ないでください」と呼びかけ 敷地内に侵入し菜の花を踏みつけて撮影
撮影のための路上駐車も問題視。
[ねとらぼ]




 違法に敷地へ侵入し、菜の花を踏みにじって電車を撮影していたいわゆる「撮り鉄」に向けて真岡鉄道がFacebookで「もう来ないで下さい」と警告している。

 4月11日、三脚や脚立が置かれ無残にも踏みつけられた菜の花の写真とともに投稿されたメッセージは「もしも該当するような事をされてしまった方がいらっしゃいましたら今後はそのような事を絶対にしないでください。関係無い、今迄通り好き勝手やる、そう思った方はもう来ないで下さい」と、強い憤りを感じさせるものだった。

真岡鉄道
菜の花が踏み荒らされている(写真:真岡鉄道)

 北真岡駅(真岡市熊倉町)から「真岡りす村ふれあいの里」周辺の沿線は、4月初旬には桜と菜の花が咲く中をSLが走る姿が撮影できるとして多くの撮り鉄が訪れる。写真は北真岡駅の少し先にある第二駒塚踏切のもので、警報器に三脚を鎖でつないで場所取りをしているマナー違反をいさめた1日の投稿と同じ場所を撮影したものだった。

真岡鉄道
三脚を警報器にチェーンでつないでいたと指摘する投稿。以前は近くの梅の木に鎖でつないで場所取りをしていた人もいたとも指摘(写真:真岡鉄道)

 北真岡のような桜と菜の花とSLが収まる撮影スポットは珍しく、素晴らしい景観を見てもらいたいという気持ちはあるが、「綺麗に咲いている菜の花を踏みにじって何も感じないのでしょうか?」「地元の方たちが手をかけて咲かせていることをわからないのでしょうか?」と、敷地内へ侵入する自分勝手な撮影者に呼びかけている。

真岡鉄道
(写真:真岡鉄道)

真岡鉄道
(写真:真岡鉄道)

 投稿へのコメントでは心ない人のせいで、ほかのモラルある撮影者に迷惑がかかると憤慨する声が多数寄せられている。当日、ほかの撮影者に罵声を浴びせていたとする目撃者の声もあった。

 過去にも撮影に邪魔だからと張ってあるロープを引き抜いたり、沿線の樹木を切除するなど問題になってきた。真岡鉄道の担当者によると、「どうしても桜と菜の花の季節は多くなる」と対応に苦慮していたという。以前から線路近くで撮影者を見かけたら注意してきたが、看板を設置してもいつの間にか倒されていたりとイタチごっこだったと明かす。

真岡鉄道
公式サイトでも撮影者に向けて注意喚起していた

 少ない人数で運営しているため警備にも限界はある。そうした理由もあってグレーゾーンとして対応していたが、路上駐車もあとを絶たず、「今後は地元警察に協力頂いて対応せざるを得ない」とのこと。

 「沿線の撮影スポットが、模範的な撮影スポットになるよう、関係各所と協議しながら安全かつトラブルが起こらない」よう取り組んでいきたいとしている。http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1604/13/news081.html

「お客様は神様です」の本来の意味を知ってほしい
クレーマーの常套句として、また、社員教育のひとつとして使用されることの多いこの言葉。本来の意味とは違った形として世に広まってしまったことを御存じですか? 更新日: 2012年09月26日
wttkさんwttkさん

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このフレーズをどう思っているのか

ゆうくん@ethical_
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お客様は神様だって本気で思ってる人って、ばかだと思う
返信 リツイート いいね 2012.09.26 08:23

マッペ@kMappe
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お客様は神様ってクレーマーさんの大好きな言葉があるけど、サービスする側を見下して無茶を通そうとする人は残念ながら神様でもお客様とも思ってないんですわ。文句あるなら他所行って下さって構いませんのよ。二度と使わない?ああどうぞどうぞって感じ
返信 リツイート いいね 2012.09.26 03:25

ninox@ninox9
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お客様は神様ってよくいうけど、貧乏神とか疫病神の類いの人も結構いると思う
返信 リツイート いいね 2012.09.22 04:56
「お客様は神様です」は誰が言い出したのか

Amazon
三波春夫ベストコレクション
「お客様は神様です」(おきゃくさまはかみさまです)とは、1961年頃に三波春夫と宮尾たか志の対談の間で生まれた言葉である。
出典
三波春夫 - Wikipedia
元浪曲師であり、演歌歌手の三波春夫が対談の中で使った。
実際のやり取りは以下のようだったという。
宮尾「三波さんは、お客様をどう思いますか?」
 三波「うーむ、お客様は神様だと思いますね」
出典
「お客様は神様です」について
どんな意味で使ったのか
三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。客席にいらっしゃるお客様とステージに立つ演者、という形の中から生まれたフレーズです。
出典
「お客様は神様です」について
「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのです。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです」
出典
「お客様は神様です」について
註:「藝」は「芸」の旧字体
お客様を神様と捉える、そうすることで芸に磨きをかけ、心の雑念を払い最高の芸を見せることができる。けして、無条件にお客様を崇め奉るという意味で用いてはいないのです。
誰が広めたのか

出典
blog.livedoor.jp
この三波の言葉「お客様は神様です」を流行らせたのは三波の舞台を観たレツゴー三匹である。
出典
三波春夫 - Wikipedia
レツゴー正児・レツゴーじゅん・レツゴー長作の漫才トリオ。
「じゅんでーす!」「長作でーす!」と順番に名乗り、最後に正児が似ていない物真似で「三波春夫でございます」と言い二人から突っ込まれるというつかみのネタで有名。
どんな意味として広まったのか

出典
www.itininmae.com
「お客様は神様です」の精神は、モノ言わぬ客をクレーマーに、
クレーマーを悪質クレーマーに変えている現状がある。
出典
「お客様は神様です」という呪文 - 80年代後半~90年代前半を回顧するブログ
ゴネ得やストレス解消のためにクレームをするクレーマーの、都合の良い言い分として使われてしまっている現状。
そして明日もどこかの朝礼でお偉いさんが
「お客様は神様です。 クレームはラブレターです」
と説き、クレーマー界の人材育成にまた一役買っていくのです。
出典
「お客様は神様です」という呪文 - 80年代後半~90年代前半を回顧するブログ
会社側の「お客様は神様なので、なんでも言うことを聞かなければならない」という教育を施すためのフレーズとして使われてしまっている現状。
このように、三波春夫が本来思っていた考えと離れた意味として広まってしまったのである。
三波春夫の公式HPでも…
このような使われ方に対して、真意と離れているとしています。
このフレーズについては、三波本人の真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございます
出典
「お客様は神様です」について
このフレーズが真意と離れて使われる時には、例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」と、いう感じ。店員さんは「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」という具合。
 俗に言う“クレーマー”の恰好の言いわけ、言い分になってしまっているようです。
出典
「お客様は神様です」について
お金をくれるから神様?

出典
blog.seesaa.jp
派手な和服姿で「お客様は神様でございます」と舞台上で語る三波を「商売気たっぷりの成金趣味」と嫌味を言う者も少なくなかった。
出典
三波春夫 - Wikipedia
しかし、この解釈は三波の考えに沿っているとは言えない。本人は以下のように言う。
ある時こんな質問を受けたことがあります。
「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。
「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」
出典
三波春夫の笑顔の秘密
真意を理解している人も大勢いる!

果実拳@fruitpunchJ
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「お客様は神様」をはきちがえたクズと馬鹿は嫌よね。 三波春夫先生の言うところの「お客様」は、客席にいらっしゃるお客様(オーディエンス)であって、商品やサービスに対価としてお金を払う客とは別物。 神様に捧げるつもりで歌うという三波春夫先生だからこその言葉。http://matome.naver.jp/odai/2134765262832401501

再生核研究所声明 1 (2007/01/27):美しい社会はどうしたらできるか、 美しい社会とは:

最近の世相として,不景気・政界・財界・官界・大学の不振,教育の混迷,さらにニューヨークのテロ事件,アフガン紛争,パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか.一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが,如何でしょうか.

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.

1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか. 
4) それは安定的に実現可能か.

これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.

現在,社会の規範が混乱し,不透明になっているように思うが,公正の原則を確認して,行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり,多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか.

また,こういうことを考える教育は,人間関係や社会生活の基本的な在り方を明らかにし,環境の保全などにも貢献すると思います.

特に少年期の教育にあっては哲学(ものごとの本質と人生,世界を考えること),道徳,芸術,体育などを中心とする人間を育てる教育に改めるべきではないでしょうか.国や隣人を愛せるようになる教育,多様性を重視し,個性や隠れた才能を伸ばし,友情を育み,人々が助け合うようになるような教育が望まれます.


再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/








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