2016年1月15日金曜日

記事 PRESIDENT Online2016年01月14日 10:00なぜ「パチンコの換金」は合法なのか - 山本一郎

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PRESIDENT Online2016年01月14日 10:00なぜ「パチンコの換金」は合法なのか - 山本一郎




遊技台の釘調整は認可逃れの違法行為
24兆円以上の市場規模があり、1150万人が参加する「国民的レジャー産業」の一角(※1)であるぱちんこ業界が揺れています。といっても、ぱちんこ愛好家の高齢化や、ホール数減少という構造的な課題ではありません。今回問題視されているのは「ぱちんこ遊技機の釘が長年にわたって不正改造されていたことが改めて発覚した」という事案です。


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参加人口は3分の1に激減。熱心な愛好家が市場を支える

2015年6月、警察庁からの要請に基づいて業界団体が全国のホール161店舗で運用されているぱちんこ台258台を検査した結果、法令を守っている台は1台もなく、全部(本当にすべて)適法とはいえないものだとわかりました。政府当局や業界に激震が走るのも当然です。

毎朝、ぱちんこを運営するホールの前では、開店時間である午前10時を待って、多くのぱちんこ愛好家が列を成しています。ぱちんこを運営するホールは、毎日ぱちんこ台の釘を叩き、「出る台」と「出ない台」を設定しています。だからこそ、「出る台」で遊技して百円でも多く稼ぐために、開店待ちをされているわけです。しかしながら、ホールがぱちんこ台の釘を調整することは適法とは言えない行為です。

ぱちんこ台は、新しい機種が風俗営業法や施行令、内閣府令などの関連法規に対して適切で適法なものであるかを検査するため、警察庁が指定する一般財団法人「保安通信協会」(通称:保通協)という団体の承認を経なければなりません。合格した機種以外、ぱちんこ台として流通できないという仕組みになっています。

ここで検査される項目は法律に細かく規定されているわけではなく、釘については「技術上の規格」として、「遊技板におおむね垂直に打ち込まれているものであること」と書かれているだけです(※2)。

15年1月、ぱちんこ業界の事実上の監督官庁である警察庁は、近年のぱちんこのギャンブル性(射幸性)について問題視し、これを高めるためにぱちんこ台の釘を叩いて曲げるぱちんこホールに対して「違法である」と明言しました。そこで紆余曲折を経て業界団体が調査をしたところ、合法な台がゼロという事態が発覚し、問題に発展しました。

そもそも、なぜ違法を承知で釘を曲げていたかといえば、そうしなければ愛好家が離れるからです。認可のままの釘を曲げていない台では「大当たり」や「連チャン」をするヘソと呼ばれる場所も、入っても少し出玉があるだけの穴も、同じように玉が入ります。その場合、じりじりと手持ちの玉が減り続けるだけで、大当たりの少ないつまらない台になってしまいます。これを避けるために、どうでもいい入賞の穴は釘で少し絞り、派手な演出と大当たりが起きるヘソの釘を緩めて、違法に台の射幸性を高めているのです。

ぱちんこホールは愛好家のニーズを満たすために、これまで違法と知りつつ釘を叩き続けてきました。さらには、どうせホールが釘を叩くという前提で、ぱちんこ台のメーカーも、流通からの要請を受けて、保通協で認可された台をそのまま出荷するのではなく、ある程度射幸性を高めた状態で出荷することが常態化してきました。警察庁が認可するために厳密な検査をしていたにもかかわらず、メーカーも流通もホールも守る意志がないのであれば、問題になるのは当然といえましょう。

「過払い金」に類似、敗訴なら業界壊滅か
警察庁を中心とした当局とぱちんこ業界は、「天下り」などで癒着していると指摘されることがありますが、実際には、ぱちんこ業界が受け入れている警察庁のOBらが、ぱちんこ行政を司る現役の局長クラスや課長クラスに強い影響力を及ぼすことはまずありません。警察庁は業界にとって不都合なことでも、平気でやります。そのため今回のように、新任の課長や課長補佐が「業界全体の是正をするぞ」と言い始めると、業界の事情や過去の因習に関係なく、いきなり調査が始まるわけです。

そして、今回の警察庁の強硬姿勢は、いままで放置されてきた「射幸性の高いぱちんこ台は望ましくない」という原理原則に立ち戻るものです。それは風俗営業法上の問題だけではなく、刑法の「賭博罪」に関わってきます。我が国は刑法第185条で賭博を禁じていますが、この法律には「ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない」という除外規定があります。すなわち短時間の遊興として数千円程度の賭け事をすることは問題ないとされています。

つまりぱちんこが賭博とならない理由は、いわゆる「三店方式」と呼ばれる特殊な換金方法とは別に、刑法上の賭博にあたらない程度の射幸性の低さを「保通協」の検査が保証しているからです。このため違法な台が流通しているとすれば、「ぱちんこは賭博ではない」という筋立ては崩れます。健全化を果たすためには、いま営業しているすべてのぱちんこ台を入れ替える必要があるでしょう。業界の自業自得とはいえ、数百億円のコストがかかる作業です。

翻って、昨今のぱちんこ愛好家は、財布に数万円から10万円以上を入れ、1日ぱちんこを打って勝った負けたとやっているわけですから、賭博罪とみられても仕方がないでしょう。また業界が「遵守しているから賭博ではない」としてきた風俗営業法の第9条「著しく射幸心をそそるおそれのある遊技機の基準」の解釈も大幅に見直される可能性があります。

そのとき浮上するのは、ギャンブル依存症を含んだ消費者問題です。ぱちんこ業界を成立させてきた「三店方式」と言われる換金方法は、業界が適法化を目指して編み出した方法です。ぱちんこ換金からの暴力団の締め出しに大きな効果をもたらした一方、ぱちんこ愛好家という消費者の保護はなおざりになっています。

とりわけぱちんこによるギャンブル依存症の問題は、依然として解決の見通しが立っていません。ぱちんこ愛好家も射幸性の高い遊技台を求める傾向にあるため、顧客満足と依存症対策との間で強い葛藤を引き起こします。そこへ、今回の不正改造釘の問題が浮上してくれば、「いままで射幸性を高めた違法な遊技台を認可、製造、営業され、その結果としてギャンブル依存症に陥った消費者は違法な遊技台を長年放置してきた業界全体の犠牲者なのではないか」という話になってしまいます。

これは消費者金融の過払い金問題と極めて似ています。かつて「サラ金」として我が世の春を謳歌した消費者金融は、派手な店舗展開や広告宣伝で花形産業として君臨していました。ところが2006年に最高裁が、「グレーゾーン金利」を認めず、「過去に取りすぎていた利息(過払い金)を顧客に返還せよ」という判断を下すと、各社は巨額の過払い金返還に見舞われ、大手も次々と経営破綻や身売りに追い込まれました。

ギャンブル依存症で苦しむ本人や家族だけでなく、一般にぱちんこを楽しんできた層も「違法なものを遊ばされた」として、これまでの遊興費の返還を求める大規模な消費者団体訴訟も起こりかねません。そうなれば、業界全体が壊滅的な打撃を受ける判決が出る可能性もあります。

国策気味な割にまったく進まないIR法(カジノ法)や、遊技台の流通そのものに税金を1台いくらでかける類のぱちんこ税構想まで、業界を取り巻く環境は激変しており、毎週のように状況が変わっています。1月4日から始まった通常国会で下手な質問でも野党から出ようものなら一気に問題が火を噴く危険性もあるため、動静を固唾を呑んで見守りたいと思います。

※1:日本生産性本部「レジャー白書2015」によると、2014年のパチンコの市場規模は24兆5040億円、参加人口は1,150万人だった。なお本文内では法律上の用語である「ぱちんこ」に表記を統一した。
※2:平成24年6月18日国家公安委員会規則第七号「遊技機の認定及び型式の検定等に関する規則」では、「別表第4 ぱちんこ遊技機に係る技術上の規格」で、「遊技くぎ及び風車は、遊技板におおむね垂直に打ち込まれているものであること」としている。http://blogos.com/article/154796/

再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

https://twitter.com/SLANG_SCHC/status/667233481408184321


再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい:
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。

言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。

以 上












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