2016年1月20日水曜日

【政治学】アラーとイエスは同じ神か?米大学で大論争 [無断転載禁止]©2ch.net

【政治学】アラーとイエスは同じ神か?米大学で大論争 [無断転載禁止]©2ch.net

1 :きゅう ★@転載は禁止:2016/01/19(火) 12:52:46.94 ID:CAP_USER*
 キリスト教徒とイスラム教徒は同じ神を崇拝しているのか――。
この問いをめぐり、イリノイ州のウィートン大学でひと月にわたって論争が巻き起こった。

 同大学で政治学を教えるラリシア・ホーキンス准教授は昨年12月、交流サイト(SNS)のフェイスブックにある投稿をした。
そして、休職処分になった。その投稿とは、クリスマス前の「アドベント」と呼ばれる期間、頭にスカーフを着用していたというもので、
「私はイスラム教徒と宗教的な連帯の中にいる。彼らは、私のようなキリスト教徒と同じように聖典の民なのだから」と書いた。
ウィートン大は先週、一連の話し合いの後でホーキンス氏の解雇手続きに入った。

 ウィートン大はキリスト教系の大学で、教職員は毎年、福音派プロテスタント教徒としての自覚を確認するため、信仰を約束する文書に署名することになっている。
ホーキンス氏がフェイスブックに投稿した翌日、大学はキリスト教とイスラム教の「根本的な違い」を強調した声明を発表。
その違いの中には「人類に対する神の啓示や、神の法、救済の道、祈りを捧げる人の生活に関する教えが含まれる」としている。
大学が後に説明したところによると、ホーキンス氏を休職扱いにしたのはヒジャーブ(イスラム教徒の女性が身につけるスカーフ)をかぶったことが理由ではなく、
キリスト教徒とイスラム教徒が「同じ神を崇拝している」というコメントを含む「神学上の発言」が理由だと説明した。

 南部バプテスト神学校のアルバート・モーラー校長は自身のウェブサイトで、ウィートン大の措置を支持し、
キリスト教徒は「三位一体の神」――父と子と精霊――を信仰していると指摘した。さらに「コーラン(イスラム教の教典)はイエス・キリストを神の子、
かつ三位一体の2番目の神として認めることはアラー(イスラム教の神)への冒とくだと論じている」と記し、
「子なる神を否定しつつ父なる神を真に信仰することはできない」と結論づけた。

 一方、異論もある。イエール大学のミロスラフ・ヴォルフ教授は米紙ワシントンポストに寄稿し、ホーキンス氏の処分は
「イスラム教に対する敵意」であって、「神学や正統性」ではないと記した。同教授は2011年に行ったウィートン大での講演で、
キリスト教とイスラム教が同じ神を崇拝していることをさまざまな方法で論じた人物だ。

 ホーキンス氏は教授陣の一角に残るべきだろうか。ウィートン大で教職員が署名する信仰の確約文書に同氏が単純に違反しているのかどうかは不明だ。
それに、神学に関する問題は複雑だ。祈りを捧げるときに、その祈りを誰が聞いているのかが問題なのだろうか。
それならば、一神教を信じるすべての人は、祈りを聞く神はただ一人しかいないという考えに同意しなければならない。
それとも、祈りを捧げる際に、誰を思い描いているのかが問題なのだろうか。そういうことなら、コンスタンティヌス大帝が
紀元337年に死の床で洗礼を受けた際に思い描いた神と、現代のキリスト教徒が思い描く神が同じではないことを考えてみてほしい。

 イスラム教とキリスト教はともに、ただひとつの神を信じている。創造主であり、審判であり、預言者を通して話し、
その言葉が聖典にまとめられている神だ。それでもこの2つの宗教は、同じ山の頂上へ続く2つの登山道というわけではない。
キリスト教徒はコーランにある神の啓示を信じていない。一方、イスラム教徒はイエスが神の顕現であると信じていない。

 ホーキンス氏はイスラム教徒への憎しみにあふれた議論に対し、独創的に反応したかったのかもしれない。それは立派なことだ。
米憲法修正第1条(訳注:言論の自由を保証)のもと、彼女には神について思っていることを信じる自由がある。
だが、ウィートン大学にも、キリスト教を信じる教育機関としてのアイデンティティーを守る自由がある。
米国は映画「スター・ウォーズ」の壮大な物語のほうが、イエスの情熱よりも広く知られているという国なのだ。

 キリスト教徒がイスラム教徒の信仰を完全に理解するために、懸命に努力すべきなのは疑いの余地がない。逆もまた真なりだ。
だが、複数の宗教や文化の共存を肯定する多元主義を装うこと、つまり、すべてのもしくは大半の宗教的な伝統が同じ真実に依拠していると装うことは、
ウィートン大をはじめ、どこの言い争いにとっても解決にはならない。

http://jp.wsj.com/articles/SB11777697228475194531304581473070350203898 http://hope.2ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1453175566/-100


再生核研究所声明 122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。

(2013.7.29.7時半、光り輝く 入り江の美しさに 感銘を受けながら、研究室に向っているとき、声明の原案が電光のように閃いた)

数学とは何か ― 数学と人間について
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15 

No.81, May 2012(pdf 432kb)

に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在証明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。それ以降も考察は自然に無意識の中でも進んでいたのであるが、
究極の信仰:
2013.7.27: 7時前ころ、ひらめいた直観である:
神は存在し、 存在も、非存在も しっかりと支えておられる。 人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。
との直観が湧き、上記のように声明に纏める事とした。 これは数学の研究で、永い考察を行なっていたものが ちょっと違った方向から 突然直観的に完全な解に達した時のような、現象である。今回のは 反例の発見や、不可能の証明に近いと言える。

そもそも神とは何だろうか、人間とは何だろうか。 動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。
人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 それゆえに、人間は あらゆる生物たちのレべルに戻って 生物たちから学び、 また原始人に戻って、また子供たちのように 存在すれば 良いと言えるのではないだろうか。 -  このような精神は、悟りへの道にも通じると考えられる (再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ―)。 またこのような精神は、ヨーロッパで 4年以上暮らし、4年2か月、キリスト教の強い影響で目覚めた心情で、 尊敬する仏教の発想から出たものではないと言える。 しかしながら、ここで述べられた精神は あらゆる神と宗教と信仰の 共通の核心 であると考えられる。
本声明は、生きとし生けるもの、命あるものの 究極の救済 を求めているものである。 また、人は必要なときに必要なだけ については 再生核研究所声明85:  食欲から人間を考える ― 飽きること を参照。
本声明は 宗教の統一 を成し遂げたものであると言える。

以 上


再生核研究所声明 132 (2013.9.10):  神を如何に感じるか - 神を如何に観るか 
(2013.9.5.6:50 まだ 薄暗い中、研究室に向っているとき、神を如何に感じるか という、 新しい声明の原案が閃いた。)

神の問題を 直接 再生核研究所声明122 でとりあげ、述べたのであるが、それらは、意識を越えて ひとりでに述べられたと言えよう。そこで、気づいて、改めて感じたのが上記のように である。表現を試みたい。
まず、上記声明で大事なことは 神の定義を 厳格に与えたということである。― 神は存在し、一切の存在と非存在を しっかりと支えておられる存在で、 永遠や無限や愛のように 我々の想像上に存在し、信仰によって観える。 ―  極めて良い たとえ がある。よくみかける 幼児キリスト を擁かれた マリア様 の像である。キリストを ユニバーサル; すべての存在と非存在と考え、マリア様を神と考えれば よい。我々の能力では 神は定かには捉えられない ― 
(動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような 存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 声明122)
大地震が世界を襲い 多くの命を奪うように、人間の都合の良い優しい神、人間を簡単に救ってくれるような いわゆる神などは存在しない (再生核研究所声明 119:冷酷な神々、自然 ― 見捨てられた人類)。しかしながら、神は、全ての存在を支えられていて、人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。 それは古代から、あらゆる社会で 祈りの形式をとってきた、全ての宗教と 神を正確に捉えるものであると考える。 これは 世界の宗教の統一 を成し遂げているものであると言える。
神を よりよく観るのは、人生の目標と言っても良い、 ― 実際、人間は、究極、神、自由、不死を求めるもの であるからである。実際、世界がより観えて、自由になり、死から解放されて 永遠のものに帰せられるは 何と素晴らしいことだろう。― 神が存在しなければ、所詮は 全ては空しく終わってしまうだろう。
しかしながら、どうしたら、如何にしたらできるかが無ければ 多くの提案は 空しいものになるだろう。そこで、どうしたら について 触れておきたい。
これはもちろん、人生如何に生きるかに近い、多様な近づき方が有るのは当然で、多種、多様である。個性にも、大いによると考えられる。得意なところから、触れたい:

数学とは何か ― 数学と人間について
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15 

No.81, May 2012(pdf 432kb)

に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在の説明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。さらに、神の気持ち、神は2を愛し給う、神は2が 好きだとか、神は恥ずかしがりや だ とか、神のいじわる、などと述べている。他の研究では 神の思わせぶりが出ていて、堪らなく楽しいとか、神がそんなに美し過ぎる数学を作っているはずがない などと述べてきた。実際、数学と数学の研究は 神との対話のような面が有って、数学は 極めて神学に近いと言える。数学の存在そのものが ― 数学の神秘性 ― 神の存在を示しているようにもみえる。
ベートーベン交響曲第9番などの美しい音楽の世界に 神を直観する者は多いのでは。美しい満天の星空を眺めていて、美しい森を歩いているとき、月光の下で、光輝く小川を眺めているとき。思えば、不思議にも修学旅行で 日本平 をみんなで歩いているとき、神がのりうつってくるような恐ろしい感覚に襲われた。芸術家の創造活動も数学の研究と同様、さらに科学の研究もみな同じようではないだろうか。生物界;生命の発生から、生体、進化いずれも神秘に満ちていて、背後に神の意志が感じられるのは多い。彫刻などにも 技術にもそのような面が出るのでは? 実際、芸でも、歌手でも、スポーツ、技術でも 神業 は世に多い。
政治社会や戦場などでもいわば 義の精神が湧いてきて、神を直観する場面は多いのではないだろうか。
お釈迦様も述べられているように、過酷な修行など逆に精神を萎縮させて、修行としては良い方向ではないようにみえる。あくまでも健康で、精神が溌剌として弾むような状態が良いのではないだろうか。心身 身を清めそれぞれの国で、文化を持つ 神殿などを参拝するのは もちろん大いに効果が有るのではないだろうか。
大事なことは、究極には 経典や教えにあるのではなくて、全ては 各々の心の中に存在するということではないだろうか。それ故に 自分の心の世界を清め、よく治める心がけが 大事ではないだろうか。神に近づく修行には終わりは無く、無限の深さを有する 神秘の世界であると言える。しかし、適切な道を見出し、歩めれば 生き生きとした人生を送ることが出来るだろう。それは力を有する愛と希望の源だからである。

以 上









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