2016年1月16日土曜日

学術論文 「再現性」の記述「ほぼすべてに欠陥」

学術論文
「再現性」の記述「ほぼすべてに欠陥」

毎日新聞2016年1月12日 11時42分(最終更新 1月12日 12時27分)

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米スタンフォード大などの研究チーム発表

 世界で発表された過去15年間の生物医学系の学術論文を抽出して調べたところ、同じ方法で実験すれば同じ結果が得られる「再現性」を確認するための手法が十分に書かれていないなど、ほぼすべてに欠陥があったとする分析結果を、米スタンフォード大などの研究チームがオンライン科学誌プロス・バイオロジーに発表した。資金の提供元などに関する情報がない論文も多く、論文のデータ改ざんや捏造(ねつぞう)の背景になっているとの指摘もある。

 研究チームは、2000~14年に発表された生物医学系論文から441本を無作為に抽出。そのうち実験データを伴う268本を精査したところ、再現実験に必要な全ての手順や条件を公表している論文は1本だけだった。

 論文の図表類の基になる実験の生データを紹介している論文もゼロで、生データの取り寄せ方法を示した論文も1本しかなかった。また、論文441本のうち51.7%で研究資金の出所の記載がなく、69.2%は企業などとの利害関係を示す「利益相反」の有無を明示していなかった。研究チームは、各論文の研究結果の真偽については検証していない。

 論文の再現性をめぐっては、研究不正が発覚したSTAP問題などをきっかけに、透明性や説明責任が強く求められているが、詳細な実験情報を公開すれば後追いする研究が増えるため、研究者は公開に積極的ではない背景がある。研究チームは「論文の透明性や再現性に対する科学界の関心は増しており、それらの欠如は研究の価値を下げる」と指摘する。【須田桃子】

 研究不正問題に詳しい榎木英介・近畿大講師(病理学)の話 実験手順の記述が不適切だと、再現実験を試みる人の時間や研究資金が無駄になる。研究者側だけでなく、出版社側も不備のある論文を掲載しないなどの強い態度で改善に取り組むべきだ。http://mainichi.jp/articles/20160112/k00/00e/040/166000c

再生核研究所声明 102(2012.10.10):  成果主義の弊害について

特に アメリカからの影響と考えられるが、成果主義という 概念と言葉 が世に氾濫して、のんびりとしてはいられない世相 になって来ている。これは 優雅な感じであった ポルトガルでも 年年ひしひしと感じられる状況である。主に大学で暮らしてきた者なので、大学を主に想定しながら、その弊害を考察して置きたい。
背景であるが、アメリカでは、 多様な人種、民族が共生し、自由と平等、正義と公正 を建国の精神としており、そもそも客観的な評価を行なうは それらの基礎であり、そのために、評価システムについては 良くも悪しくも、世界で最も発展していると考えられる。それゆえに、評価、成果主義の背景には 普遍的な要素があると考えられる。正当な評価の客観化である。それらに加えて現れた要素として、財政状況が厳しくなり、 資金配分の効率化の観点から、重点配分や競争的な資金の配分である。こうなると、良い成果が挙げられる計画、貢献できるところに重点的に配分するという考え方から、成果主義の観点が強まって来る。
これらは、資金や待遇の配分に関する考え方であるが、人物評価と研究資金や予算の配分に分けて考えよう。
人物評価についてであるが、これは給与や昇任における評価で、当然、多様であり、複雑で、日本には伝統的に いわゆる 年功序列の基本的な考え が有ったが、何らかの客観的な指標によって人物を評価して、それらの指標によって処遇しようということである。
典型的なのは、大学では、研究業績、教育実績、社会貢献、学内行政貢献度などで 評価が数値化され、それによって 給与に反映されるような状況が現れている。いろいろな組織・社会でもそのような傾向が現れているのではないだろうか。
人物評価ばかりではなく、予算配分でも、期待される貢献度に応じて、資金を重点的に配分していくことは 貴重な予算を使う立場からは当然である。
上記のように考察すると、評価、成果主義には当然の背景があり、基本的に諒であると考えられる。しかし、特に 成果主義 には 何か嫌な語感が するのではないだろうか。そのような暗い面について 考察して置きたい。
そこで始めに ウィキペディア から、状況を押さえておこう:

労働意欲の向上 [編集]
成果主義により、向上心がある人は、より自分を高めようと努力する。
残した「成果」の高い人が、「成果」の低い人よりも多くの仕事をしている(成果をあげている)にもかかわらず、給与面での差が小さい場合、不満につながり、結果として商品の生産性や品質が落ちる可能性があるが、「成果」で給与を査定することにより、高い生産性を維持できる(と期待される)。しかし、成果主義による目立った成功例がなく、合理的でないとの指摘もある。また、従業員の会社への信頼感が低下して社員の能力の弱体化に繋がるとの発表もある(企業活力研究所[1])。
成果主義の欠点 [編集]

客観性のない基準 [編集]
成果は、売り上げ以外だと「品質向上の度合い」や「社員の技術力」など数値で表すことができず、客観性を見い出せないものも多い。査定者が人間である以上、査定者の基準次第で貢献量に対して成果が食い違うといったことになりがちである。査定者が社員に近いと、無意識に評価にバイアスがかかってしまう可能性もある。
また、査定基準の設定次第では「貢献したのに評価が下がった」「がんばっても評価が上がらない」という事態にもつながる。また、経営者側が単に「人件費抑制」のために成果主義を導入し、査定者が(個人的に)気に入らない従業員に対し、主観的・恣意的に悪い評価をつけ、従業員全体の人件費を抑えるケースも間々ある。

挑戦意欲の低下 [編集]
売り上げや品質が下がれば「成果が下がった」と見なされやすい。そのため、「売れるかわからない=査定が下がる」リスクが大きくなる新規の商品や意欲的な商品、そして冒険的な商品には誰も担当したがらなくなり、「安定して高い売り上げが期待できる=査定が上がりやすい」人気商品や定番商品だけにしか人材が集まらなくなる。さらに、それでも挑戦したい者がいても、巻き添えで査定を下げられたくない雰囲気になるため反対意見が続出し、失敗するリスクが高いと考えられる商品は企画が通りにくくなる。そのため、製品ラインナップには人気・定番商品のみが並ぶようになり革新的な商品・技術が生まれにくくなってしまう。

短期的な目線・結果だけの追求 [編集]
将来性といった長期的な貢献や、意欲や途中の過程(プロセス)はほとんど評価されない。そのため、後につながる商品や技術を開発したとしても目標が達成できなかったり、売り上げが低かった場合は評価が上がりにくい。そのため自主目標を設定できても短期的なものかつ達成しやすい内容になってしまう(目標を達成しても、それに対する手当や報酬が支給されるとは限らない)。

横のつながりの希薄化 [編集]
他人あるいは他部署に技術を教えるということは、すなわち相手に成果を上げさせ、自分が蹴落とされることになる可能性がある。そのため部署間はもちろん、制度によっては先輩・後輩間でも技術の継承が希薄になってしまう。また他部署が優秀な技術を持っているのにそれが使えない・使いたくないという事態につながり、効率や品質が悪化してしまう。
導入したものの頓挫した例 [編集]

いちいち容易に想像されることがよく纏められている。 要点は次のように纏められるのではないだろうか。
1) 適切な評価ができるかの 評価の問題。 特に、本来の業務や職務とは 無関係な指標で 評価している状況は 世に多いと言える。
2) 評価をあからさまに行うことの 人間関係への悪影響、競争的な感情が人間関係を悪化させる要素、評価される側も、する方も 嫌な感情を重く持つ。
3) 評価し、実行するための要務の増大。

何でも行き過ぎは良くなく、 評価は簡単な方法で、あまりぎすぎすさせないように、あまり成果、成果といった雰囲気にならないように配慮するのが 良いのではないだろうか。 
余裕を持った柔軟性のあるやりよう、扱いが大事ではないだろうか。その方向での基本的な考えは、年功序列の考え方の良い背景、生活権、基本的な生存権における対する優しい配慮ではないだろうか。世に多く現れた現象は ぎすぎすした世相、成果が上がった、努力したようにみせかける 様々な見せかけの書類作りや演出 ではないだろうか:

そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える(再生核研究所声明 15: 空虚な日本の社会)。
評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明 70: 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。

以 上
あく‐びょうどう 〔‐ビヤウドウ〕 【悪平等】

[名・形動]何もかも一律に平等に扱うこと。形の上だけ平等にして、かえって不公平になっていること。また、そのさま。「頭割りでは―な仕事だ」

近年いろいろな計画や政策が、場当たり式で、もともと見方が甘いずさんな計画である事が、到る所に見出されるのではないでしょうか。
全てが場当たり式、短絡的な計画が多くなされていると思います。
その原因は、深いのですが、一つの観点として、成果主義の導入 風潮があるのではないでしょうか。
最近話題になったAIGの役員のボーナスが巨額で、しかも破産寸前に追い込まれています。
成果主義をとると、関係者は、自分の在任中に見かけ上最大の成果が上がる様に、考えがちです。
するとその後は、どうでもよいという考え方になってしまいますから、極めて危険な経営のあり方になってしまいます。
これと同じようではないでしょうか。
関係者は、自分の在職中に、成果を上げたいと思い、後の事は、十分な配慮がなされなくなってしまうのではないでしょうか。
これでは世の中上手くいくはずはないのではないでしょうか



再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得

(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)

上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。

以 上



再生核研究所声明 44 (2010/06/26): 
梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧

初めに、大谷杉郎 群馬大学名誉教授の 宮大工(…… その晩、「梅の木学問」という言葉に出会った。梅は成長は速いが大木にならない。そのように、進み方は早いが学問を大成させないで終わるのをいうのだそうである。その反対が、成長は遅いが大木になる「楠くすのき学問」だと書いてある。西岡棟梁の話を聞いた直後だったので、千年の先を見極め、千年以上も生きつづける学問を「檜学問」と呼んでも良さそうである。学校教育の目標はこれにして欲しい。: 夜明け前 よっちゃんの想い 158-160)を想い出し、日本の研究者育成の観点から、考察を行いたい。
先ず第1に述べたいのは 研究者の育成や、教育の問題は、 在りよう、考え方、目標などいずれも多様性が大事であり、いろいろな考え方や見方を尊重する必要があるということである。 従って、ここでの議論も一つの視点と柔軟に考えて頂きたいということである。
( …… しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していくことと思っています。 私は、そのきっかけを与えようとしているに過ぎません。──哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ──という言葉が想い出されます。私は、専門家や知識をもっている人だけが良識や見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見や提案を期待しているのです。 2009 年7月23 日 にて)
次に、上記 大谷教授の宮大工 の引用部分の 前の本文は、 宮大工の心意気と癖組などの考え方など 誠に心惹きつけるものがあるが、上記引用部分の考え方には 多少の疑念も湧くが、他方、心惹きつけるものもある。
疑念とは、進み方は早いが学問を大成させないで終わる 生き方、学問も個性として、それはそれでいいのではないか、逆に 千年以上も生きつづける学問が良いとは限らないという価値観と視点である。― 梅も檜も それぞれに良い。
それにも関わらず、現在の日本の研究者育成の観点から、この件について、危惧の念を抱かざるを得ない。 それは特に 共通テスト開始以後、特に顕著になっているのは いわゆる国立大学の法人化移行後の 悪しき風潮に対する危惧である。
共通テスト開始以後 盛んになったのは、細切れの知識偏重と大学の画一化による点数による序列化、入試技術の専門化などである ― それ以前の入試の多様性と時間的な余裕を比較されたい。国立大学の法人化移行後は、財政状況の悪化と共に評価,評価の嵐と悪しき成果主義と膨大な雑用の増加である。
その結果、これらに対応できる研究者とは、受験体制に調子良くのれ、大学院でも早く成果の出せる上記梅の木型の研究者となりかねない状況ではないかと危惧せざるを得ない。
なるほど、優秀な研究者は どのような環境、体制でものり越えて、良い研究業績を上げることができる という見解には 誠一理あるが、しかしながら、多くの労力を費やし、雑念を入れ、結果として、能力を生かせない状況が広く存在していると考える。才能を活かせず、才能を殺してしまう状況が世に多くあると考える。また、それゆえに、いわば大器晩成型の多くの才能をうずもらせてしまうのではないかとおそれる。
言いたいことは、学部あたりまでの教育には 時間的な余裕を与え、人生や世界、自然などに想いを致したり、あるいは友情を育てたり、自らを顧みることのできる余裕を用意することである。 そこで、人生の基礎をしっかりと身につけて欲しいと考える。- また、そのような余裕のうちから、イチロー選手や、谷亮子選手、荒川静香選手、坂本龍一氏のような 多彩な才能が芽吹くことが期待できるのではないだろうか。天才教育や少年留学なども大いに進めて頂きたい(声明9)。
ここで、さらに気になるのは、かつて安保闘争や学園紛争に見られたような、若者の元気さが失われ、無気力、無感動、元気のない学生の増加である。世界についても、哲学についても、真理の追究などについても 聞くことは もはや稀である。 小手先の学力をつけることに追われて、精神面や健康面が失われているのではないかと危惧される。
他方、大学院以上においては、成果、成果と急がずに 研究課題の選択や、基礎について深い、広い視点が持てるように、経済的にも時間的にも十分な待遇を用意すべきである。何事初めの段階における取り組みは、 将来に亘って、決定的に大事になると考える。
初期段階において、目先の成果を求めれば 研究課題は成果が得られ易い、個別の研究課題となり、しっかりとした研究課題が確立できないのは当然ではないだろうか。 どんな課題でも 研究成果を出すのは容易ではないから、それらに集中しているうちに、その研究課題の枠外から出られないように陥り、研究課題が小さな世界に特化してしまうのは、多くの普通の研究者の悲しい在り様と言えるだろう。
助教などの制度によって、助手の身分を 形だけ上げて、講義や雑用を課し、さらに任期制を導入したりして 処遇を悪化させているのは 大学人の反省すべき悪しき制度ではないだろうか。研究以外義務が無いような研究員として処遇するのは 若手研究者育成の要ではないかと考える。 実際、そのような時期に 研究の基礎が確立された研究者は 世に多いと考えられる。さらに、世界の指導的な研究者たちとの交流が 研究者の成長に大きく寄与した例は 非常に多いと考えられる。
日本の研究者育成の観点から、現状の問題点を総合的に見直して、よりよい位置づけと対応を考えるのは 緊急の現代的な課題であると考える。現状の風潮では、いざ本格的な研究活動に入るころ、若き研究者達が立ち枯れ病にかかってしまう危険性は 極めて高いと危惧される。










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