2015年2月3日火曜日

再生核研究所声明203(2015.2.4)人間とは何か、人生とは何か

再生核研究所声明203(2015.2.4)人間とは何か、人生とは何か
(ちょっと風邪気味の日が続いて回復したとき、ひとりでに閃いた,人間、人生についての断面である)
人間が限りなく動物的な、生物的な存在であることを述べてきた:
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生:
(ちょっと喉が痛いような日、気分が優れず ぼんやりしたり、意欲や情念が湧かない日々が数日続き、人生を否定的に観るような感情のときに、この声明の構想は湧いたものである)
異国で人々の生活を 離れた立場から、眺めていて、また、自分の人生を振り返ってみても、さらに、最も近い両親の人生を顧みても、人間も、人生も、結局は 動物や植物の在りよう、生き方と殆ど変りないことを 実感してきた。
人生とは、始めも分らず、終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、ふらふら生かされているようにみえる。背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。子供たちが訳の分からない遊びに 夢中になったり、騒いではしゃいでいるのは 多くの動物たちと同様に、生命の躍動と言える。また恋人たちの分らない交流と夢中な様は、本能原理が背後にあるとしても、生命の躍動を感じさせる。いろいろな夢が湧いたり、情念が湧くのも 生命の躍動に他ならない、芸術や、創造活動、政治活動すらそうである。原理は、生めよ、増えよ、栄えよ、世界を拡大せよ、といっているようである。それらは、生物繁茂の原理にほかならない。人生を否定的に感じるのは 意外に 体調の不調に由来して、健康状態や、生命力の躍動の落ちているような場合に 多い現象である。子供たちが、訳もなく、 はしゃいでいる、学生たちがいろいろな活動にどんどん取り組んでいる様をみると、考える人間の 人間の存在、活動というよりは、生命活動の躍動のように見える。危険性に満ちた、冬山登山を 苦労覚悟で、志すのは、新規な感動を求める、人間の本質を表わしているとも言える。岩登りなども 若さの、生命力の象徴とも言える。
上記、声明の構想を感じさせたのは、どんどん生命力が 衰退していく、そのような状況における 人生における在りよう と 心得に対する 存念である。衰退していく人間の、人生における在りようは、どんどん生物や動物の在りように近づいて行くようにみえる。我々はよく、動物や生物から、その在り様を学べると感じる。そこで、自然と触れるようにするのは、そのような観点で よいのではないだろうか。― 背後には、自然に帰るという原理が有ると考えられる。晩年、無気力で、ただ惰性で生きているようにみえるのは、世に多い。しかしながら、それらは、自然な在りようであるとも考えられるので、諒として、大事な時期として、評価したい。それらは、より自然な在りようだからである。
若いころ いわば夢中で 生命力の躍動として求めてきた、殆どの多くの価値が、実は、大した価値のあるものではなく、社会の中で、生きて来る手段に過ぎなかったことを どんどん悟り、実感することに成るだろう。大した理由もなく情念で活動させる力こそ、生命力ではないだろうか。
何が言いたいのか。要するに、人間とは、自分で思考して、生きている存在ではなく、基本は生命力が、我々の情念を駆り立て、その生命力で生きている要素が強いと言うことである。人間が 動物や生物と本質的に変わりないと自覚することは、人生の基本を捉える意味で 重要なことではないだろうか。
考えや、創造性、情念、芸術性、それらが、コーヒーやお茶などの嗜好品で大きく左右される現実を重く見て、健康状態に配慮するのは、当然としても、教育でも知識偏重ではなく、全人的な要素、情操、心への配慮は 大事ではないだろうか。薄っぺらな技術や知識の追究では、所詮先が、みえているといえる:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
真智への愛 は どうしたら、目覚めさせ、育てられるであろうか。
人生にかける虹、志などしっかり持てれば、上記ふらふらの人生にとって、幸いではないだろうか - 人生の意義は 感動することにある - 人生の基本定理。この世に生を享けたからには、神をも感動させるような、感動をしたいものである。
                                     以 上
関係上記声明を振り返り 全く満足できるものであるので 全体を引用することとした。発想も似たような状況であったと言える。今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。
健康ならば、夢も、希望も、感動も湧き、人生は嬉々としたものになるだろう。
すなわち、人間とは、生命力のもとに 精神的に存在して、始めも終わりも 生命作用そのものによって支配され、我々が単に生かされている存在であることを知るだろう。それは、目覚めとその後、睡眠に入るとき、日々確認できる。人生も同じようなものである。されば、個々の人間を生成させている、育成させている環境の重要性に想いを致すということが大事であるということが 本声明の趣旨である。しかしながら、我々が単に生かされている存在であるということは 何を意味するであろうか。―
しかしながら、良い環境、良い健康状態、さらに、 良い食、良い人間関係、音楽、芸術、創造性などは 人間を元気づける。
人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。
我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。

以 上

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