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本山勝寛2015年02月26日 15:02「東大合格100万円」は「史上最悪の愚策」ではない
Yahooのトップページに“「東大合格なら100万円」市長が批判に反論”という記事が載っていて知ったのだが、鹿児島県伊佐市が、市内の県立高校から難関大学に合格した者に100万円を支給する奨励金制度を発表し、それが批判され議論になっているという。記事を抜粋すると以下の通り。
「難関大の合格者に100万円の奨励金を支給する」。昨年11月、鹿児島県伊佐市が、市内の県立大口高校に入学者を集めるため奨励金制度を決めた。しかし、これに「お金で釣る教育は間違い」など批判的な声が殺到。制度が作られた経緯は、県教育委員会が定員割れの続く同校に昨秋、「来年度の新入生募集は2学級とする」と通告したことだ。隈元新市長(65)は高校が廃校になると、「人口減に拍車がかかるし、地元経済に打撃を与えます」と言う。制服やスポーツ用品、文房具や書籍、弁当など、高校生が多く利用する店舗が打撃を受け、地域から活気がなくなる。転出する人も増え、衰退してしまうのだという。
(中略)
伊佐市では、大口高校の志願者減の最大の理由を、大学進学実績の低下だととらえた。東大合格者は03年に1人出て以降はゼロ。九州大の合格者も96年を最後に出ていない。国公立大全体に広げても、ここ3年間では12年が18人、13年が13人、14年は鹿児島大2人など4人だけだった。
進学実績を伸ばすために、「志願者81名以上という数字を達成するためにはインパクトがある支援策が必要」(隈元市長)とひねり出した対策が、難関大合格者への奨励金だった。
予算規模は5年間で5千万円。東大、京大、九大など旧7帝大と、それに準じる国公立大の医学部医学科など難関学部、早慶など難関私大の合格者には100万円、それ以外の国公立大や、準じる私大の合格者に30万円を交付する、というものだ。現在の高3生から交付を始め、来年からは浪人生も対象となる。
この緊急支援策は昨年11月12日、市議会で賛成多数で可決された。ところが、これが全国的に報じられると、「お金で釣る教育」などという批判が噴出した。有名な教育評論家がテレビで「史上最悪の愚策」と酷評して話題にもなった。
この制度を「史上最悪の愚策」、「教育犯罪」と批判した教育評論家というのは「尾木ママ」こと尾木直樹氏のこと。いわく、「100万円は奨学金制度とは似て非なるもの。奨学金は学びへのサポートです。賞金欲しさに進学先決めるのは間違い。その後の学びのモチベーションを保持できません」と批判している。
私は、尾木氏が「学びのモチベーション」を重要視し、進学後のモチベーション喪失を危惧する観点は理解できるが、理想論に過ぎないように思う。学生にとっては「奨学金」だろうが「奨励金」だろうが100万円が支給されれば、入学金や授業料に充てられるし、親を少しでも楽にしてあげられる。入学後のアルバイトの時間もおさえることができる。大変ありがたい制度だ。私自身は、親の収入がゼロだったので、入学金さえ払うことができずに延滞して利子付きで催促され、夜勤のバイトをやりまくってようやく入学金を納めることができた。月5万円程度の貸与型奨学金も借りていたが、入学金などのまとまった額を支払うことはできない。こういった奨励金があれば大変助かったことは言うまでもない。
過疎化が進む地方の学生であれば、学費や生活費に困らない高所得層ばかりとは言えないだろう。日本には給付型奨学金が少ないという批判や嘆きばかりが聞こえるが、過疎化を防ぐ地方の競争として、こういった奨励金型の奨学金制度が各地方で導入されれば、地方と都市の教育格差是正にもつながる。
また、奨励金が出ることは、モチベーションの一つになるだろうが、それだけで難関校の受験を乗り切れるわけではない。受験という学びの真剣勝負を通過することで、学びの楽しさ、学問への関心がわいてくるものだ。モチベーションのスイッチされ入れば、たとえ地方の高校であったとしても独学を進めるのにはよい時代になってきている。さらに、大学進学後の学びのモチベーションというなら、むしろ大学の教育改革を論ずるべきだろう。
ということで、私は伊佐市の奨励金制度を支持し、他の地方自治体も導入の検討を薦めたい。
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これはいきすぎでは?
これは 公正と言えるでしょうか。
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
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