2015年2月12日木曜日

裁判員の死刑判決破棄、問われる制度の意義- JIJICO(2015年2月11日17時00分) 裁判員裁判による死刑判決を変更

裁判員の死刑判決破棄、問われる制度の意義- JIJICO(2015年2月11日17時00分)
裁判員裁判による死刑判決を変更
裁判員裁判によって死刑判決が言い渡されたものの、高裁がこれを破棄し無期懲役とされていた2件の強盗殺人事件について、最高裁は、今月3日、いずれも上告を棄却しました。これにより、高裁による無期懲役の判決が確定することになります。また、9日には3例目となる決定もなされました。
裁判官だけで判断する二審や最高裁で、裁判員裁判による死刑判決を変更する今回のような問題をどのように考えれば良いでしょうか。
裁判員が関与した判決を変更してはならないというルールはない
日本の裁判員制度では、市民が裁判員となって裁判に関与するのは一審のみです。そして、裁判員が関与して下された判決について、裁判官だけで構成される二審や上告審がこれを変更してはならないというルールはありません。そのため、今回のように、裁判員が関与した死刑判決が控訴、上告されて無期懲役に変更されることは、もともと裁判員制度が予定している流れとも言えます。
しかし、いざこうした裁判員判決の破棄事案が続くと、市民の側からすれば、「何のための裁判員制度?」「それなら最初から裁判官だけで決めれば良いのでは?」といった疑問が出るのも当然かと思います。
「市民感覚」より過去の量刑とのバランスや公平性の観点を重視
さて、そもそも裁判員裁判では、どのように量刑(どのような刑を言い渡すか)が決められるのでしょうか?基本は、裁判官と裁判員の総数からの過半数の意見で決めます。ただし、その過半数意見には、裁判官と裁判員が最低1人ずつは入っていなくてはなりません。このため、裁判員裁判で死刑判決が出たということは、全体の過半数の意見であっただけでなく、少なくとも裁判官の1人は死刑判決を支持していたことになります。
にもかかわらず、今回の最高裁の判断では、裁判員を通じた「市民感覚」よりも、過去の事例で選択されてきた量刑とのバランスや公平性の観点を重視したわけです。また、今回の最高裁の言葉からは、死刑という最高刑を選ぶ際には、特に慎重に他の事例とのバランスを重視すべきである、という判断が伺えます。
当然のことながら、裁判員にせよ裁判官にせよ常に真理を導ける神様ではありません(だからこその三審制でもあります)。だとすれば、裁判員裁判の判決が変更されたというだけで、制度を批判するのは少々乱暴でしょう。また、裁判員や裁判官の構成により、同じ事案なのに大きく判決が異なる制度というのも、裁かれる側からすれば大問題です。過去の事案との均衡や、これまでに蓄積された基準の尊重も、ある程度はやむを得ないと思います。
「厳罰化を求める声」に正面から応える判断を示すことも必要
裁判員の死刑判決破棄、問われる制度の意義- JIJICO(2015年2月11日17時00分)
しかし、他方で、裁判員制度を創設し市民の感覚を刑事裁判に取り入れようとした趣旨は十分に生かされなければなりません。その中で、特に、近年、ますます高まっているように思える「厳罰化を求める声」をどのように考慮していくかが問われているように思います。
もっとも、そうした裁判員制度の趣旨を前提としても、特に死刑という峻厳な刑罰を選択する以上、裁判員による判断が、過去の事例や基準と大きく異なる場合には、「なぜ死刑判決なのか?」について、十分に説明できるだけの論拠は示されなければならないと思います。
また、逆に、裁判官だけで判断される上級審側も、裁判員判決の中で十分な論拠が示されている場合には、「過去の事例との均衡」という「お決まりの常套句」だけで片付けるのではなく、市民に対して、正面からその問いかけに応える判断を示していくことが、今後の裁判員制度の深化、発展を考えれば不可欠です。この両面から、今回の事件を改めてしっかりと検証していくことがとても重要でしょう。
(永野 海/弁護士)

再生核研究所声明 16 (2008/05/27): 裁判員制度の修正を求める
素人の意見を広く求めることは、古来から行われてきた重要な考え方である。しかしながら、それらを型にはめて、一律に行う制度は、制度として無理があり、社会の混乱と大きな時間的、財政的、行政的な無駄を生み、更に良い結果を生むどころか、大きなマイナスの結果を生むだろう。 幾つかの問題点を具体的に指摘すると
(1) 制度を実行し、進めるには大きな行政的な手間と時間が掛かる。特に財政厳しい状況で大きな無駄を生む。
(2) 一般の人が裁判に関与することは、はなはだ問題である。その様なことで、時間を費やす事を好まない人や、ふさわしくない人、また希望しない人が相当数現れることが考えられる。多くの人は、そのようなことで時間をとられたり、関与することに、耐え難い苦痛を感じるだろう。
(3) 選ばれた少数の人による判断が、全国的なレベルで公正さを維持するのは難しく、また公正な裁判を要求し、期待することには無理があると考えられる。それを要求するには 大きな負担を一般の人たちにかけ過ぎる。
(4) 大きな社会で、裁判において、一律一様の考えには、無理があり、ある程度の専門性を取りいれないと、運用上も、無理が生じると考えられる。
(5) 戦後60年以上も経っていながら、裁判が遅れることに対する批判はあっても、裁判制度や裁判結果に対する批判が殆どないのは異例であり、この観点からも日本の裁判制度自身は高く評価されるべきであって、改めるべき本質的な問題は生じていないと考えられる。
上記のような状況に鑑み、例えば一律の考えを改め、裁判に参加を希望する者を公募して登録しておき、その中から選んで参加して頂く等の修正を速やかに行うべきであると考える。少なくても、裁判に強制的に参加させるべきではなく、参加しない権利を明確に認めるべきであると考える。また裁判制度の問題は別にして、一般の裁判についても、従来は、密室で判決が検討されてきているが、広く意見を聞くことは必要であり、また逆に人々が意見を述べることができるようにしておくのが良いのではないかと考える。ご検討を期待したい。 以上。

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