ガリレオ·ガリレイ
2015年02月26日(木)
テーマ:数学
ガリレオ·ガリレイ(ガリレオ·ガリレイは、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
目次[非表示]
1名前
2生涯
2.1生い立ち
2.2学業と業績
2.3父の死と家族の扶養
2.4結婚と子供
2.5晩年
2.6年譜
3業績
3.1天文学
3.2物理学
3.3科学革命
3.3.1有名な失敗
3.4その他の主な業績
4裁判
4.1第1回の裁判
4.2第2回の裁判
4.3裁判以後
4.4裁判の影響
4.5裁判の検証
4.6ローマ教皇庁の対応
5その他
6主な著書
7脚注
7.1注釈
7.2出典
8参考文献
8.1伝記·研究文献
9関連項目
10外部リンク
名前[編集]
トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる[1][注1]。
イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名で呼ぶ習慣がある(他にも、ダンテ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)等)ため、名である「ガリレオ」と呼称されることが多い。ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
ガリレオは1564年に、ヴィンチェンツォ·ガリレイ(ヴィンチェンツォ·ガリレイ)を父として、ジュリア·アンマンナーティ(ジュリアアンマンナー -
父ヴィンチェンツォは音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これが後に息子ガリレオが運動研究で採った数的な手法に影響を与えることになったと指摘されている。
学業と業績[編集]
1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者オスティリオ・リッチ(英語版)にユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。
1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。
1605-1607年ころのガリレオ
1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。
1624年のデッサン
前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている[注2]。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。
「#業績」を参照
父の死と家族の扶養[編集]
1591年に父が死去し、その後は家族の扶養や妹の(結婚の)持参金の支払いはガリレオの肩にのし掛かることになった[3][4]。
結婚と子供[編集]
ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで(6歳ほど年下の)マリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年生まれ)と出会い、交際が始まり、当時パドヴァにあったガリレオの家で二人は一緒に暮らし始めた。二人は2女1男をもうけた。
ガリレオは敬虔なローマ・カトリックの教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたからである[5]。
愛娘のマリア·チェレステ
フィレンツェでのガリレオの家
信仰の篤いガリレオは、二人の娘、ヴィルジニア·ガリレイ(バージニア·ガリレイ、1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(リヴィア、1601年 - (マリアセレステ)1606年 - 1619年は1649年)に父に認知され、セスティリア·ボッキネーリ(Sestilia Bocchineri)と結婚した。
晩年[編集]
晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。ユストゥス・サステルマンス(en)による肖像画。
当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦[注3]に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい[6]、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった[6]。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。さらに、そんなガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失った。そして1637~1638年ころには失明。
フィレンツェのサンタ·クローチェ聖堂にあるガリレオの墓
だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。
年譜[編集]
1564年イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
1581年ピサ大学に入学(医学専攻)。
1585年ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
1586年最初の論文「小天秤」を発表。
1587年初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
1589年ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。
1591年父ヴィンチェンツォ死去。
1592年
ピサ大学の職が任期切れになる。
(ジョルダーノ·ブルーノ、捕縛される。)
ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
1597年ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
1599年パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。
(1600年ジョルダノ·ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
(1608年ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)
1608年トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。
1609年5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
1610年
木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『星界の報告』(Sidereus Nuncius)として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。
(ケプラーが「星界の報告者との対話」を発刊、ガリレオを擁護する。)
ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
1611年リンチェイ·アカデミー入会。
1613年「太陽黒点論」を刊行。
1613年頃?マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。
1613年頃2人の娘を修道院に入れる。
1615年地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
1616年第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。
コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。
1623年「贋金鑑識官」、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
1631年娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。
1632年
「二大世界体系についての対話(DialogoソプラIによりマッシミSISTEMIデルMondo)』をフィレンツェで刊行。日本では『天文対話』という題で出版されている。
ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
1633年
第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。
アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
1634年ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
1637年片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
1638年オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
晩年振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
1642年アルチェトリにて没。
業績[編集]
天文学[編集]
ガリレオのものとされる望遠鏡(レプリカ、グリフィス天文台)
木星の衛星の初の発見を記した1610年の草稿。この成果は『星界の報告』に織り込まれてゆく。
「星界の報告」(1610年)
ガリレオによる月の満ち欠けの観測図(1616年)
イルSaggiatore『贋金鑑識官』(1623年)。彗星が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。またこの書でガリレイは、自然という書物は数という言葉で書かれている、という見解を示す。
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた[7]。
これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた[注4])があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった[8]。
また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius)として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。
金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返す上に、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球からつねに三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった・
さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった[9]。
ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある[要出典]。
なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている[10]。
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが[11]、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した[12]。
物理学[編集]
Discorsi電子Dimostrazioni Matematiche Intornoためヌォーヴェ科学博物館「新科学対話」1638年刊
ピサ大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている[13]。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである[14]。
この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ(ヴィヴィアーニ)の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い[注5]。このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである[14]。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている[15]。
科学革命[編集]
ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。
有名な失敗[編集]
彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった[16]。
地動説の証拠として潮汐を挙げた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。
その他の主な業績[編集]
「小天秤」
幾何学的·軍事的コンパス
関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた[17]。
裁判[編集]
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている[18]。
第1回の裁判[編集]
(フランチェスコ·ロムロロベルトBellarmino)その内容は、次のようなものであった。
「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」[20]。
しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している[21]。
第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」[22]と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。
第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、
天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為
を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。
第2回の裁判[編集]
1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話(英語版)』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた[23]。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった[24]。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており[25]、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった[26]。
裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した[27]。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった[28]。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった[29]。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった[27]。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている[30]。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった[31]。
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeoヴィンチェンツォバルベリーニ)がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある[32]。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている[33]。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった[34]。
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた[35]。その後につぶやいたとされる"EのPUR siをmuove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である[36][37]。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言った[要出典]という説もある。
裁判以後[編集]
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった[38]。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった[39]。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた[40]。
裁判の影響[編集]
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ·デカルトは、Traitéデュ·モンドらデ·ラ·リュミエール 6] デュ·モンド〜で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に)héliocentrisme太陽中心説を展開していたからである。[注7]
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。
裁判の検証[編集]
この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた[41]。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。
ジョルジョ·ディサンティジャーナらによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている[注8]。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。
このほか、次のような説もある。
そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という[42]。
1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。
1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた[43]。
ローマ教皇庁の対応[編集]
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった[44]。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである[45]。
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(アンジェロアマート)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。
2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている[注9]。
その他[編集]
ガリレオの文章の評価
イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(日本語訳:みすず書房刊)や『カルヴィーノの文学講義』(日本語訳:朝日新聞社刊)などにおいてガリレオの文章の文体を賞賛し、ガリレオを文人(詩人)としてとらえている。
ガリレオをしのぶ作品や博物館
(作品)ドイツの作家ベルト・ブレヒトは1947年に、戯曲『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫)を書いた。『戯曲ガリレオ英語版」(笠啓一訳、績文堂出版、2009年)もある。
(博物館)フィレンツェにはガリレオ博物館があり、ガリレオの残したノート類やガリレオが用いた様々な道具の実物等々が展示されている。
主な著書[編集]
「星界の報告」(星界の報告1610年)
山田慶兒·谷泰訳、岩波文庫
「太陽黒点論」(1613年)
同上、訳名は「太陽黒点にかんする第二書簡」
「贋金鑑識官」(1623年)
山田慶兒·谷泰訳、「世界の名著ガリレオ」中央公論社/新版中公クラシックス、2009年
「天文対話」もしくは「二大世界体系にかんする対話」(1632年)
青木靖三訳、岩波文庫(上下)
「新科学対話」(1638年)
「静力学についてガリレオ·ガリレイの「二つの新科学対話」」加藤勉訳、鹿島出版会、2007年
「レ·メカニケ」(執筆:1599年頃、仏訳出版:1634年、原本出版:1649年)
豊田利幸解説·訳、「世界の名著ガリレオ』中央公論社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
再生核研究所声明202(2015年2月2日)ゼロ除算100/0 = 0,0 / 0 = 0誕生1周年記念声明 - ゼロ除算の現状と期待
ゼロ除算の発見、経過、解説などについては、結構な文献に記録されてきた:
再生核研究所声明148(2014年2月12日)100/0 = 0、0/0 = 0 - 割り算の考えを自然に拡張すると - 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014年5月8日)知りたい神の意志、ゼロで割る、どうして無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014年5月30日)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神と真理の追究
再生核研究所声明163(2014年6月17日)ゼロで割る(零除算) - 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 - 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014年6月20日)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ世界観
再生核研究所声明171(2014年7月30日)掛け算の意味と割り算の意味 - ゼロ除算100/0 = 0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9)ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
アナウンス179ゼロによる(2014年8月25日)部門は、z / 0 = 0として明らかであり、それは数学の基本である
お知らせ185:ゼロによる除算の重要性$のz / 0 = 0 $
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014年12月24日)
再生核研究所からの贈り物 - ゼロ除算100/0 = 0、0/0 = 0
夜明け、新世界、再生核研究所年頭声明
- 再生核研究所2015年1月1日(193声明 -
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015年1月4日)ゼロ除算に於ける山根の解釈100 = 0x0のについて
再生核研究所声明199(2015.1.15)世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える - ゼロ除算100/0 = 0,0 / 0 = 0
ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念日に当たり、概観して共同研究者と共に夢を明るく楽しく描きたいまずは、ゼロ除算の意義を復習しておこう。:
1)西暦628年インドでゼロが記録されて以来ゼロで割るの問題に簡明で、決定的な解ゼロで何でも割ればゼロのz / 0 = 0であるをもたらしたこと。
2)ゼロ除算の導入で、四則演算加減乗除においてゼロでは割れないの例外から、例外なく四則演算が可能であるという美しい四則演算の構造が確立されたこと。
3)2千年以上前に 原点ゼロが南極に、無限遠点が北極に対応する点として複素解析学では100年以上も定説とされてきた。それが、無限遠点は
4)ゼロ除算はニュートンの万有引力の法則における、2点間の距離がゼロの場合における新しい解釈、独楽(コマ)の中心における角速度の不連続性の解釈、衝突などの不連続性を説明する数学になっている。ゼロ除算はアインシュタインの理論でも重要な問題になっていたとされている。数多く存在する物理法則を記述する方程式にゼロ除算が現れているが、それらに新解釈を与える道が拓かれた。
5)複素解析学では、1次変換の美しい性質が、ゼロ除算の導入によって、任意の1次変換は全複素平面を全複素平面に1対1の上に写すという美しい性質に変わるが、極である1点において不連続性が現れ、ゼロ除算は、無限を数から排除する数学になっている。
6)ゼロ除算は、不可能であるという立場であったから、ゼロで割る事を本質的に考えてこなかったので、ゼロ除算で、分母がゼロである場合も考えるという、未知の新世界、新数学、研究課題が出現した。
7)複素解析学への影響は 孤立特異点ので、有限な確定値をとるという定理である。佐藤の超関数の理論などへの応用がある。
積分が、もともと有限部分と発散部分に分けられ、極限は無限たす、有限量の形になっていて、積分は ゼロ除算にいう、解析関数の孤立特異点での
9)中学生や高校生にも十分理解できる基本的な結果をもたらした:
基本的な関数はy = 1 / xののグラフは、原点でゼロである。すなわち、1/0 = 0である。
10)既に述べてきたように道脇方式はゼロ除算の結果100/0 = 0、 0/0=0および分数の定義、割り算の定義に、小学生でも理解できる新しい概念を与えている。多くの教科書、学術書を変更させる大きな影響を与える。
11)ゼロ除算が可能であるか否かの議論について:
現在インターネット上の情報でも世間でも、ゼロ除算は不可能であるとの情報が多い。それは、割り算は 終わりになってしまう - 。もはや展開の道は閉ざされているしかるに、ゼロ除算が可能であるとの考え方は、それでは、どのような理論が
12)ゼロ除算は、数学ばかりではなく、人生観、世界観や文化に大きな影響を与える。
次を参照:
再生核研究所声明166(2014年6月20日)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとはアリストテレスの世界観、宇宙は連続であるを否定して、強力な不連続性を宇宙の現象として表していることである。
ゼロ除算は 数学者の勝手な解釈による歴史的な間違いに当たる 誰が、真実を知って、偽りを教え、言い続けられるだろうか.-教育に於ける除算、乗算の演算の意味を道脇方式で回復させ、新しい結果ゼロ除算を世に知らしめ、世の常識とさせたい。それはちょうど天動説が地動説に変わったように世界史の確かな進化と言えるだろう。
ゼロ除算の研究の進展は、数学的には佐藤超関数の理論からの展開、発展、物理学的にはゼロ除算の物理法則の解釈や、衝突現象における山根の面白い解釈の究明 の世界観、宇宙は連続であるを否定して、強力な不連続性を宇宙
以上
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