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木村正人2015年02月09日 09:16後藤さん殺害、「心の距離を縮めたい」 ジャーナリズムを若者と考えてみた(2)
インテリジェンスに近道はない
菅義偉官房長官は、イスラム過激派組織「イスラム国」による邦人人質事件について「イラクでの人質解放の経験もあったので、部族の長や宗教指導者など、ありとあらゆる可能性にかけて対応した」と説明した。
日本政府は昨年12月にイスラム国からフリージャーナリスト、後藤健二さんの妻に送られたメールで拘束されたことを把握したが、そのメールを通じてイスラム国に接触しなかったことに対する釈明だ。
菅官房長官が説明したように、日本政府がシリア国内の部族の長や宗教指導者に強力なパイプを持っていたかどうか、筆者には確信が持てない。それほど強力なパイプがあったとすれば安倍晋三首相の中東歴訪にもう少し考慮が働いても良かったはずだとも思う。
在シリア日本大使館は治安情勢が悪化したため、2012年3月に一時閉館され、在ヨルダン日本大使館内に在シリア大使館臨時事務所が設けられている。そのため、今回の人質事件でもヨルダンの首都アンマンに現地対策本部が設置された。
海外メディアの中には、イスラム国空爆に参加しているヨルダンより、イスラム国に拘束されたトルコ総領事ら49人の救出に成功したトルコに現地対策本部を置いていれば展開は違ったと指摘する声もある。
実際にはすでに処刑されていたヨルダン軍パイロット、カサスベ中尉も交渉条件に加えられるなど、問題をさらに複雑にしてしまった。菅長官は「最も効果的なことを行うという観点から、私のもとで判断した」と述べたが、日本のインテリジェンス能力がそれほど高度だとは思わない。
基本は語学力、文化理解力
対日工作を担当していたロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の元スパイに「どのように情報網を築くんですか」と英語で質問したとき、「今度、食事でもしませんか、と言うんですよ。それだけ」と本当に流暢な日本語で答えを返してきた。
インテリジェンスの基本は語学力である。日本人の語学力は世界的にみて決して高くない。というより、かなり低いと言った方が適切かもしれない。アラビア語という特殊言語を巧みに操れるタレントが日本にそんなに多くいるのだろうか。
ロンドン在住の筆者は欧州のイスラムを取材するためボスニアからドイツ、オランダ、デンマーク、スウェーデンなどを訪れた。「ムスリムの女性」と言っても世俗化している人もいれば、保守化している人もいる。本当にいろいろだ。
ヒジャブをかぶっているためバスケットの試合に出場できなくなったスイス在住の女性に話を聞くと、「初潮が始まったらムスリムの女性は髪を隠すのよ。私はかぶっている方が落ち着くから」と説明してくれた。ヒジャブの女性 (600x800)
ヒジャブをかぶっているためバスケットの試合にでられなくなった女性(筆者撮影)
その女性はおそろしく美しかった。ヒジャブをかぶる理由がすぐに理解できた。ながるる黒髪をおろせば、男性から性の対象としてジロジロみられてしまう。ヒジャブは、私の容姿ではなく心を見つめてと言っているようだった。
ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのような女性もいる。マララさん (800x450)
ノーベル平和賞を受賞したマララさん(筆者撮影)
アラブ首長国連邦(UAE)のドバイに本部を置くアラビア語国際ニュース衛星放送アル・アラビーヤの女性記者たちは進んでいて、格好良かった。
「自分は自由民主主義者のイスラム教徒だ」と宣言して、イスラム系移民の若者たちを毒する過激思想の解体に取り組む活動家もいる。
等身大のイスラムに目を向けよう
イスラム過激派のテロや原理主義、過激主義ばかりが取り上げられるが、私たちはどれだけ等身大のイスラムに目を向けてきたのか。会ってみて、話してみなければわからない。
そのために語学力、異文化に対する理解力は欠かせない。しかし、島国・日本はどうだろう。
今回の事件でも「自衛隊海外派遣」「情報収集能力の強化」「国際テロ激化 備え急務」などもっともらしい、勇ましい見出しが並ぶが、アラビア語教育や文化交流の重要性を説く声は聞こえてこない。
筆者が主宰するつぶやいたろうジャーナリズム塾5期生の光井友理さんは大阪大学外国語学部でアラビア語を専攻する。今春からジャーナリストとしての第一歩を踏み出す。
22歳の彼女はフランス風刺週刊紙銃撃事件や邦人人質事件で何を感じたのだろう。
「顔の見える報道」を目指して
【光井友理】アラブの春が起こり、世界の注目がアラブ・中東地域に一気に集まった。私がアラビア語専攻の学生として学び始めたのはちょうどその時期だった。
その後シリア内戦が起こり、「イスラム国」の台頭、最近ではシャルリーエブド襲撃事件、邦人及びヨルダン人パイロット人質殺害事件と、常に目が離せない地域であると実感しながら学んできた。
人と話すのが好き
人と話すのが好き、言語が好きというのが高じてか、大学で難しい言語を学びたいと始めたアラビア語。4年間学ぶ中で、自分にとってアラブ・中東地域の言語を学ぶということはその地域の人々の顔が見えてくるということだと感じるようになった。
ニュースがどこか遠い国の出来事ではなくなり、○○さんの母国、友人の○○の家族がいる国のことになった。
最近シャルリーエブド襲撃事件、邦人及びヨルダン人パイロット人質殺害事件と、アラブ・中東地域、あるいはイスラームに関連付けられてしまう衝撃的な事件が立て続けに起きた。
「イスラームは怖い」というイメージ
本当に悲しい気持ちになり、なんといっていいか分からない。そんな中で特に私が危惧しているのは、「アラブ・中東地域、イスラームは怖い」というイメージが広がっていくことである。
私は卒業研究で、日本人大学生100人を対象にアラブ・中東地域に対する意識調査を行った。アラブ・中東地域に対して抱くイメージについて尋ねると、半数以上の人がテロや紛争、治安が悪いなど、ネガティブな単語を含む回答をした。
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一方で、同地域出身の友人の有無、渡航経験の有無を聞くと、「いる」「ある」とそれぞれ答えた人は10%にとどまった。
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また、日本と同地域の関係、シリア内戦やパレスチナ問題などについての知識に関する問いには、20%の人が「知らない」「分からない」と答えた。
さらにアラブ人に対して行ったインタビューでは、90%近くの人が「日本人はアラブ・中東地域について知らないと思う」と話した。
この調査と4年間の学生生活での経験を通して、アラブ・中東地域のイメージは、「なんとなく危なくて、遠くてよく分からないところ」というようなものではないかと感じた。
「本当の姿を知ってほしい」
それが今回の事件で、「よく分からない」地域という認識のまま、「やはりアラブ・中東地域、イスラームは怖い」というイメージが広がってしまわないか本当に気がかりだ。
アラブ人の友人に話を聞いてみても、やはりそれが心配だと話していた。友人のエジプト人留学生は、「日本人が殺されてしまいとても悲しい。イスラームは残虐な宗教ではないのに。本当の姿を知ってほしい」と語った。
またクウェート人の留学生は、「ムスリムが日本でも少し生活しづらくなるかもしれない」と話した。多くの日本人にとって、アラブ・中東地域、そしてイスラームはまだまだよく分からないものであると、日本人、アラブ人双方の声を聞いて思う。
心の距離を縮めたい
そのような、よく分からないままで、今回の事件をきっかけに、中東への恐怖心、反イスラームの空気が日本に広がってしまうことは避けなければいけない。
アラブ・中東地域と日本の心の距離を縮めたい。そんな思いでジャーナリストを志し、この春から夢に向かって一歩を踏み出す。まずは私自身がアラブ・中東地域、イスラームの姿を、すべて一括りにしてしまわず、細やかに見つめていく。
アラビア語の勉強を通して見えてきたアラブ・中東地域、そこに住む人々の声に耳を傾け、寄り添う。そして、同地域についてよく分からない、怖いところだと感じる人々の心にも同じように寄り添い、声を聴く。
「顔の見える報道」ができるジャーナリストになるという思いを胸に、一歩ずつ、丁寧に歩んでいきたい。
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
公理系、公準とは数学の述語で 数学を展開する最も基礎をなす、仮定系のことである。
数学ではそれらを基礎に論理的に、厳格に数学が展開されると考えられている。すなわち、数学の基礎である。 2千年以前に考えられた、ユークリッドの平行線の公理、すなわち、 任意の直線に対して、直線外の一点を通ってその直線と交わらない直線がただ一つ(平行線)存在する が有名である。約2千年経って、そうではない幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れて、平行線が存在しない幾何学と、無数の平行線が存在する2つの型の幾何学が現れて、現在それらの幾何学も日常の研究で どんどん使われている。
公理系が異なる数学では、世界が違っているので、一応は別数学、別世界と考えられる。そこで、違いは論じられても、相互の直接的な関係は、ほとんど考えられていないと言える。別公理系では、議論できない。
人間が交流できたり、議論できるのは共通の前提、基礎が存在するから、それらの基礎の上にできるということである。 確かに人間は 動物として存在する基礎として、動物の本能や、基本的な基礎が広範に共通するものとして存在している。 これらは、確認するまでもない。 それらは もちろん、本能に基づく面は 共通の基礎として、人間社会の公理系のように基礎になるだろう。衣、食、住を整え、良い市民社会に住みたい、まともな生活を送りたいなどは 誰でも願う共通の基礎と言えるだろう。
本声明の意図は、より上位の、いろいろな判断の基礎をなす、前提となる基礎について言及することである。我々は、何を基礎に物事の判断を行うであろうか?
我々は、その様な基礎を、生い立ちにおける教育、文化、習慣、伝統、あるいは影響を受けた、共感、共鳴する思想、などに見出すことができるだろう。 それは、テレビや新聞、環境の影響を強く受けていると考えられる。すなわち、環境の影響である。
我々が交流をどんどん深めていくと、結局、人生観、世界観、宗教観まで行き着き、最後には、それらの点における相違を認める場面に至るは多い。 そこで、相違をしっかりと認識することになる。時として、見解の相違であるとして、議論や討論、交流を打ち切る場合は 世に多い。議論や討論はそのような形相を帯びる事が多い。
ところが、他方、人間界には 好みや感情がもろに出てくる場合も世に多い。8歳で巨大素数の構造が好きだとか、6歳で、無限に興味がある。 冬山が好きで、危険を顧みず、雪の中でテントを張って過ごしてくる。サーフィン、岩登り、冒険など、世にはいろいろな興味に、関心に強い情念を抱くは多い。これらの個性と多様性には議論の余地が無くて、好きだから仕方がないと表現できるかも知れない。
上記で、人間の基礎をなす 知と情の背景を考察した。 いずれも基礎が異なれば、理解や共感、共鳴は 難しいということを述べている。
そこで、本声明の要点は、人間関係でお互いの基礎、数学で言う公理系に当たる部分について 相手と自分の基礎を確認して、さらにそれらの公理系のようなものまでも その是非を慎重に検討して行く必要性に思いを至らしめることである。
我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性があり、いろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。
以 上
再生核研究所声明205(2015.2.11) 宿命論
人生、世界については 結構多くの見解を述べてきた。最近も
再生核研究所声明203(2015.2.4) 人間とは何か、人生とは何か
(ちょっと風邪気味の日が続いて回復したとき、ひとりでに閃いた,人間、人生についての断面である)
― 人生とは、始めも分らず、終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、ふらふら生かされているようにみえる。背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。―
また、
今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。―
さらに、
―人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。―
このように考えると、人間が積極的な存在ではなく、受動的で、何者かによって生かされている現実を深く受け止めることになる。私たちは 若い頃、寿命も、運命も定まっている、場合によっては、前世からの因縁で 定めだから仕方ないという発想を、老人たちから幾度となく聞かされてきて、相当な時代、そのような世界観を人々は 仏教の影響を除いても 本能的に感じてきたのではないだろうか。結構、悟ったように、それは定め、因縁だから仕方ない、― そのような人生観、世界観は世に多いのでは ないだろうか。いま、それらを諒として 自然に受け入れられる心を実感している。
しかしながら、積極的に人生を意志して行こうという精神からは そのような心情から新しい局面を観たい。
最近、心を痛めた、イスラム国による、人質事件と処刑、死刑囚の処刑、痛ましい痛切残念な事件、あるいは痛ましい殺人事件。宿命論とはこの場合、それぞれの立場では 仕方がなかったという視点である。日本人人質も、パイロットもそれぞれの義を通したものであり、死刑囚と言えども 兄弟など爆死させられて、絶望に追い込まれた、心情は痛いほど理解できる。パイロットなどは上官の命令で命をかけて、任務を遂行したものであり、何ら罪、責任が問われる立場ではない. 後藤健二氏などは 危険を顧みず友人の救命に向かい、イラクの人々のために尽くした行為は まさに聖人レベルではないだろうか。痛切残念である。ここで述べたい視点は、ある者や国を批判することではなく、それぞれの立場で、言わば義があり、仕方のない面があるという視点である。殺人事件が起こると、大騒ぎを起こして騒ぎ立てるが、相手の立場に立てば、それなりに追い詰められた苦しみや、状況があり、誰でもそのような立場になれば、同じような状況に追い込まれるものである という、人間の普遍性、人間は皆同じような存在であり、偶然、そのような環境や状況では、皆同じようではないだろうかと、観る視点に想いを致すことである。
たまたま、環境で、状況で そのような幸運や不運にあっているという、視点は 人間を優しくし、社会を明るくするのではないだろうか。生きるもの全ては、哀しい運命を共有する仲間たちではないか。切ない。マスコミは 弱いもの虐めのようなことは よして欲しい。 明るい世相を描いて欲しい。
以 上
再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)
猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。
何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:
再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること
言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
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