女性医師の6割「東京医大の女子減点に理解」背景に無力感か
東京医科大学の入試で女子が一律に減点されていた問題について、女性医師を対象にアンケート調査をした結果、大学の対応に何らかの理解を示す人が6割を超えたことがわかりました。専門家は、医師の長時間労働に女性医師が無力感を感じていることの表れだと指摘しています。
東京医科大学は10年以上前の入試から女子の受験生の点数を一律に減点し、合格者を抑制していたことが明らかになりました。
この問題について、女性医師向けのウェブマガジンを発行している企業がネット上でアンケートを行い、103人から回答を得ました。
このなかで、大学の対応について、意見を聞いたところ「理解できる」(18.4%)と「ある程度理解できる」(46.6%)を合わせた回答は65%に上りました。
その理由を聞くと「納得はしないが理解はできる」とか「女子減点は不当だが、男性医師がいないと現場は回らない」といった意見、さらに「休日、深夜まで診療し、流産を繰り返した。周囲の理解や協力が得られず、もう無理だと感じている」など大学の対応がおかしいと感じながら厳しい医療現場の現状から、やむをえないと考える女性医師が多いことがわかりました。
これについて、産婦人科医で、日本女性医療者連合の対馬ルリ子理事は「医療現場はそんなものだという諦めが強い。医師は24時間人生をささげなくてはいけないと信じられてきたので、少しでも戦力から離脱するとキャリアを諦める医師が多かった。働き方の工夫で男女問わず早く帰れるようにすることは可能だ。今回の事をきっかけに、医療現場を変えなければならない」と話しています。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180808/k10011568421000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_011
この問題について、女性医師向けのウェブマガジンを発行している企業がネット上でアンケートを行い、103人から回答を得ました。
このなかで、大学の対応について、意見を聞いたところ「理解できる」(18.4%)と「ある程度理解できる」(46.6%)を合わせた回答は65%に上りました。
その理由を聞くと「納得はしないが理解はできる」とか「女子減点は不当だが、男性医師がいないと現場は回らない」といった意見、さらに「休日、深夜まで診療し、流産を繰り返した。周囲の理解や協力が得られず、もう無理だと感じている」など大学の対応がおかしいと感じながら厳しい医療現場の現状から、やむをえないと考える女性医師が多いことがわかりました。
これについて、産婦人科医で、日本女性医療者連合の対馬ルリ子理事は「医療現場はそんなものだという諦めが強い。医師は24時間人生をささげなくてはいけないと信じられてきたので、少しでも戦力から離脱するとキャリアを諦める医師が多かった。働き方の工夫で男女問わず早く帰れるようにすることは可能だ。今回の事をきっかけに、医療現場を変えなければならない」と話しています。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180808/k10011568421000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_011
ゼロ除算の発見は日本です:
∞???
∞は定まった数ではない・・・・・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:
とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所
ゼロ除算関係論文・本
再生核研究所声明 440(2018.8.8): 東京医大入試問題についての印象について ー 特に女性の扱いについて
下記は、グーグルサイトの情報である:
https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20180803-00091774/- ついにパンドラの箱が開いた…報道によれば、東京医大が女子受験生を一律減点にするという、入試の信頼性を破壊する行為を行なっていたという。これを東京医大叩きに終わらせてはいけない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/.../20180802-00091684/女子受験者を一律減点 東京医大、恣意的操作」ー 今朝の読売新聞が衝撃的なスクープを放った。女子であるという理由だけで減点とはいかがなものか、と反応したくなる。だが、待てよ。この報道を「事実」と鵜呑みにするのは早い。紙面上、 ...
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20180803-OYT1T50063.html東京医科大(東京)が医学部医学科の一般入試で女子受験者の得点を一律に減点していた問題を受け、加藤厚生労働相は3日の閣議後記者会見で「女性だからと不当に差別することはあってはならない」と述べた。 加藤厚労相は、国内の ...
https://www.bengo4.com › 医療 【弁護士ドットコム】東京医科大が2018年2月に実施した一般入試(医学部医学科)で、女子受験者の得点を一律で減らし、合格者の数を抑えていたことがわかったと報じられた(読売新聞、8月2日)。女子だけに不利な操作は、2011年ごろから ...
news.livedoor.com/article/detail/15107892/東京医科大の一般入試で、女子受験者の得点が一律で減点されていた問題。元女子受験生が法的責任を追及することはできるのか、弁護士に聞いている。意図的に情報を提供せずに受験者を集めた場合は、刑事事件の余地もあるそう.
西川史子、東京医科大の女子受験者一律減点に言及 「当たり前 ...東京医科大の入学試験で女子受験生の得点を一律減点していたとされる問題。医師の西川史子が5日の「サンデー・ジャポン」で、「当たり前です」と発言。できることが違うため、男女の比率は「考えていないといけない」と主張した.
blogos.com/article/315596/東京医科大学(東京都)が、医学部医学科の一般入試で、年度ごとに決めた係数を掛け、女子受験者の得点を一律減点し、女子の合格者数を抑えていたとみられることが、昨日2日、わかりました。女性は結婚や出産を機に職場を離れるケース ...
https://www.nikkei.com/.../DGXMZO3374703002082018EA200...東京医科大学が医学部の入学試験で女子受験生を一律減点し、合格者数を抑えていたことが2日、判明した。大学病院の医師を確保するため出産や育児で休職や離職する可能性のある女性医師を少なくする思惑があったと.
https://news.nifty.com › トレンド › 話題ニュースサイトしらべぇ)5日放送の『サンデージャポン』(TBS系)で、東京医科大学が女性受験者の点数を一律に減点していた問題について、西川史子が独自の見解を展開。その内容が物議を醸してい…
実情は明白でないが、このような問題に対する一般的な考え方を表明したい。その心は再生核研究所声明の精神に基づき より良い社会を築くために 少しでも貢献したいという存念にある。上記のように意見がおかしな方向で混乱しているようであるからである。 人間関係に関する世の問題を考える基本は 声明第一に述べられているように 公正の原則 にあると考える:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
今回の問題の原点は まずは 大学の自治の問題にある と考える。これは法的にも国際的にも確立している大事な原則であることを確認したい。 権力のおかしな集中などの観点からも 大学に信頼を寄せて 大学自治の精神を高く掲げて 行きたい。もちろん、大学は社会の中の存在であるから、大学人はその自治を進めるためにも絶えず自戒して社会から多様な意見を求め、信頼される存在であるように努力して欲しい。今回の発端が入試の選抜と権力者側の私的な関係にあることは 歴然とした大学側の不祥事から起きているので、誠に残念なことと言わなければならない。そこは犯罪を構成する要素になるので、司法の問題として委ねることが 社会的には適当ではないだろうか。無責任な言動と憶測は避けたい。
それが契機に湧いてきた 上記のように女性の入試における差別などが問題になっているようである。入試採点の調整など意図的な操作が行われていたとされるが、その辺の事実は不明としても考え方について述べたい。 どのような学生を取りたいかは大学自治の大事な要素で、例えば女性の入学者数を3割に抑えたい等そのような原則は、尊重されるべきである。 特に私立大学では国立大学より入試の在り様などについては自由であり尊重されるべきである。
ただ 入試の学科試験の結果だけで合格者を決定する方が、複雑な医療関係の入試においては 単純すぎで、現状に合わない事態が十分に予想される。その辺の状況に直接関与している大学人の判断は大いに尊重されるべきである。世に女性差別などの批判がみられるが、それらは行き過ぎではないだろうか。ただ大学は、取りたい学生のイメージが入試を志願する学生にもある程度分かるようにして、志望の動機が、大学が求めている人材像とチグハグにならないように配慮することは 上記公正の原則からしても 大事ではないだろうか。
上記の話題は 結構単純で問題の、在るべき在りようは 簡単では ないだろうか。
如何であろうか。
上記に書かれていることはそれなりに道理と考えるが、その後、入試の実体でいわばおかしな入試状況が伝えられると大学自治の美しい理念も色あせてしまい、大学不信の気持ちが高まり、人々はうんざりで 憂鬱な気持ちにさせられてしまうのではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2)あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明329(2016.10.31) 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
近年、センター試験、大学受験制度のいろいろ改革が考えられていることは、大学入試が教育界に大きな影響を与え、さらに、児童、生徒の人間形成上でも大きな影響を与える事実から、絶えざる改革は歓迎されるべきことである。これらの課題には永遠の問題を内在させているという意味で、より良い方法を模索して行くべきである。特に在り様を固定化すれば、必ず弊害が出てくる観点にも気を付けたい。入試の在り様はそのように大きな問題であるから、ここでは、主に、大学側、中規模の大学の試験業務を行う立場から、試験関係の業務軽減の立場の視点から、入試の在り様の議論の際に 気を付けて欲しい観点として 意見表明しておきたい。
共通試験やセンター試験後の特徴は 入試を2回行うことで、入試業務が増大し、他の様々な入試と法人化後はさらに、研究・教育業務以外の業務が極端に増大して、年中振り回されるような雰囲気に大学がなってしまったことである。近年、ノーベル賞受賞者が増大している状況からも分かるように日本の学術レベルの高度化は高く評価されるが、それは、20年、30年前の体制の成果である点を忘れるべきではないのではないだろうか。近年大学の環境の悪化はひどいもの、惨憺たるもので、憂慮している。時間的、資金的余裕を取り戻し、教育・研究に楽しみながら、当たれるような大学の在り様を志向したい。
入試は一身上の大事であり、その判定に携わる者の心理的な圧迫は大きく、大学教員の最も嫌な仕事に当たるのではないだろうか。 そのような業務を繰り返されては、教育・研究どころではない心理状態になってしまう。
入試の原理は、人間の能力は簡単に評価できるものではないと考え、入試は便法として簡素化すべきである。ある種の基準で輪切りにするような在り様も良くなく、ある程度のばらまきも人材の配置、多様化の精神で大事ではないだろうか。― 同じような人を過剰に集めれば、そのような組織は変な組織になるのではないだろうか。― この精神は尊敬する人物の言葉として印象深いが、富士山型より峯が乱立する八ヶ岳のような在りよう が良いと表現される。
他方、児童・生徒の立場に立てば、永い、過剰な受験勉強は修行の面があっても、やり過ぎ、不適当な学習の集中しすぎで、教育本来の理念からの乖離は、相当に広く認識されている状況ではないだろうか。
例えばポルトガルでは、大学入試業務は、高校で全国レベルの試験を行い、大学は提出された書類で選考するだけであるから、入試業務が殆どなく、大学は入試業務から解放されていると言える。― さらに、例を挙げると8月1ヶ月間は大学閉鎖、8月は大学の暦に無く、7年目毎、1年間のサバーティカルライトで一切業務無しであるから、凄い。
そのような観点からすると、日本でも主な入試は各大学ではせいぜい年1回くらいに限るべきではないだろうか。入試業務の軽減化、縮小化を強く求めたい。
具体的には、センター試験作成機関を活かして、各大学で行う2次試験の在り様を検討すべきではないだろうか。論説・記述方式・面接など問題とされているが、採点する立場からすれば、評価は難しく、荷重な業務であるから、センター試験問題の作成において、大いに工夫を考えての対応が良いのではないだろうか。 センター試験が細々とした知識の寄せ集めや、パターン化した問題解きの問題にならないような注意が大事ではないだろうか。時間に追われるような在り様も問題ではないだろうか。これらに関しては、問題を精選したり、試験時間を十分伸ばすことも考えられる。知識より考える力、創造性などをみる試験の在り様を考えて行きたい。当然、入試とは何かと関係者は、絶えず問うべきである。
論説・記述方式の客観的な評価は難しく、本質的な問題を抱えていると考えられる。そのような観点から面接で差を付けるようなことは 実際にはできず、機能しないのではないだろうか。― 他方、人事採用などでは、面接は大きな影響を与えていると考えられる。これらの差は、評価を受けるものの数、人数が影響しているのではないだろうか。― この節の問題は、言わば感覚的な評価を取り入れるべきか否かという問題であるが、画一的に数字で評価が出る方式に対して、入試に柔軟性とある種のランダム性、多様性を取り入れる観点から、検討するに値する考えとも思われるが、評価は極端に荷重になる。
ここで述べようとしたことは、入試業務の軽減化、入試の簡素化、入試があまりにも細かい評価をしないような多様な視点を持ちたいということである。教育は大事であるから、再生核研究所では、次のようにいろいろ意見を表明してきた。ここで述べられたことの逆のような見解もあるが、 それは、入試の在り様の問題には、いろいろな視点、在りようがあり、全体的で総合的なバランスが 大事であるということである。
再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に
再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明17: 教育界の改革を求める
再生核研究所声明20: 大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明 44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明 60: 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16): 教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27) 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明187(2014.12.8) 工科系における数学教育について
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い,そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明210(2015.2.21) 大学入試ミスにおける対応について
再生核研究所声明327(2016.10.) 数学教育についての提案
以 上
再生核研究所声明210(2015.2.21) 大学入試ミスにおける対応について
入学試験が盛んな時期であるが、特に入試のミスにおける対応について、考察しておきたい。入試のミスといってもいろいろなミスが考えられるが、代表的なものは
1) 出題が 定められた範囲を逸脱していた。
2) 問題そのものが、間違っていた。
3) 採点ミス、評価に著しいミスがあった。
4) 問題用紙や解答用紙の扱いにおけるミスや、選抜過程におけるミス。
など、相当に複雑な場合が考えられる。 入試は受験生の一身上に大きな影響を与えるので、関係者の気遣いは深刻で 重責である。そのような苦しい仕事を繰り返されては、特に、教員は教育・研究などの本務を全うできない状況が生じると懸念される。また、合否判定を行ってから、新年度に入ってや 1年以上も経って、入試のミスのために合否判定が覆り、大きな社会問題になった例も少なくない。そこで、 このようなミスに対してどのように対応すべきかを論じたい。
まず、原則は、次の 公正の原則 にあると考える:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
入試については、特に、次の観点に注目したい: 人間の能力を評価することは簡単ではないこと、しかしながら、現実的に選抜する必要性から、簡便法として入試を行って、対処する必要があること。― この背後には、 入試の問題そのものさえ、どのような問題が適切かは曖昧であり、数値化されたものは 受験者のどのような才能、適切さを表しているかさえ 曖昧であるという、事実、真実である。― 入試のミスを論じる前に 入試に対して、そのような柔軟な考えを有することは 良いのではないだろうか。また、優秀な者が風邪や体調で、また 運、不運のことで、不本意の成績が出ることは、世に多い事実ではないだろうか。 まずは、入試における数値化の問題と、数値化の曖昧さに言及したい。
そこで、上記公正の原則で、大事な視点は、 4) ミスに対応する対応が社会的にスムースに行くような配慮である。
そこで、具体的な提案をこの観点から、行いたい。
一旦 実際上の責任者が 決定を行ったことは(きちんと組織上決めておく、実際決まっている。)、修正や変更を行わないこと。― ここで、大事なことは たとえ間違いが有っても修正しないことである。― サッカーなどで、判定ミスがあっても、それを 覆さずゲームを続けることに対応する。
― 責任者が、決定の印を押したからには、軽々と覆すことのない決済として、認めることである。
これについて、社会も 入試について 間違いが有り得ることを認め、それを広く受け入れる必要がある。 覆さないは、時間と共に進む社会を考慮すれば、良き対応の有り様ではないだろうか。過ちを受け入れられる社会は 社会をより柔軟に、運営、考えるのに幅を持たせて 広い視野と優しさをもつ社会になるのではないだろうか。
上記の過程で、責任者がミスを冒したことについて、後で、相当な責任を求められるのは当然である。しかしながら、入試などで真剣に取り組まない教職員はいないから、人間の過ちは避けられないものとして、社会的に大きな影響を与えても、寛容な処分を考慮するのが良いと考える。
もちろん、簡単に、相当の混乱も無く、修正できる場合には、上記責任者が 修正するのは是であるが、入試のミスが結構起きて、入試は一種のゲームや偶然性があると考える世相、文化は社会の有り様として、良いのではないだろうか。
背後には、入試をもっと軽く、柔軟に考えられる社会を志向しようという精神がある。それでも上手く回る社会の在り様、柔軟性を広く志向することである。如何であろうか?
計算機の普及で 多くが几帳面になり、社会が細かく、厳密化する傾向を生み、人間の精神が、心が窮屈になる環境に向かうのではないだろうか。これは 将来における大きな懸念になる概念ではないだろうか。
新年度に入ってや 1年以上も経って、合否の判定を覆すのは 社会混乱であり、行き過ぎではないだろうか。
以 上
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