2015年1月31日土曜日

汝の敵を愛せよ ルカによる福音書 6章27~38節(口語訳)

汝の敵を愛せよ
ルカによる福音書 6章27~38節(口語訳)
しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。
ひとことお祈りいたしましょう。私たちの魂の羊飼いなる天の父なる神様。この新しい聖日の朝、私たちに呼掛け、遠くから近くから貴方の御前にこうして導いて下さった事を心から感謝いたします。貴方はいつも私たちに呼びかけてくださる御方であります。大胆に恵みの御座に近づきなさいと招いてくださる御方であります。誰でも重荷を負っている者は私のところに来なさいと招いてくださる主であります。一人一人それぞれの重荷があり、悩みがあり、苦しみがあります。そしてまた一人一人に勝利もあり、喜びもあります。貴方の御前に心を開き、罪を悔い改め、また感謝をし、貴方との交わりを今朝、得ることが出来ますことを感謝いたします。
神は光であって、神の内には暗きものは何もないとあります。そのような貴方に触れて私たちの心の、そして生活の暗闇を、貴方の光で満たしてくださいますように。そして私たちが暗闇ではなく、光の中を歩む光の子どもとしてくださいますように、どうか私たちの愚かさや足りなさや欠けを、そして罪を、すべて貴方の十字架の贖いをもって、お許しくださいますように。貴方に許された者、貴方が愛して下さる者、貴方が御目にとめて下さる者として、今朝もう一度立ち上がり貴方の内なる力によって生きる希望を、命を与えられる事を感謝いたします。今朝も貴方の御言葉を開いてください。そして光を放ってください。私たち一人一人のために、そして私たちが貴方を愛し、さらに深く貴方を愛していくことが出来ますように、思い煩いの多い私たちでありますが、どうかいつも心を貴方に向けて、私たちが生かされている意味をしっかりととらえる事ができますように導いて下さい。
どうか愚かなしもべを今朝のご奉仕のために清めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
「汝の敵を愛せよ」、とても難しいテーマを今朝与えられております。この日曜日の礼拝ではルカによる福音書を私どもは見ていますが、このルカによる福音書の六章の二十節から、その章の最後までのところにイエス様が語られた説教が記されております。
これはイエス・キリストがその弟子となっている人たちに対して、またこれからキリストの弟子になろうとしている人たちに対して語られた説教であると考えていいと思います。キリストの弟子になるということはどういう事なのだろうか、クリスチャンとはどういう人たちなのだろうか、そういった事がはっきりと示されている箇所であります。
そこにはいくつかのテーマが語られておりますが、今日はこの二十七節のところからご一緒に見ていきたいと思います。今日の聖書の箇所の冒頭に出てきますのが、キリストの教えの中でも最も良く知られている「あなたの敵を愛しなさい」という御言葉であります。この教えはこの説教の中のいくつかの一つではありますけれども、中心的な教えであることに間違いはありません。二十七節から三十六節までが一つのまとまりになっていて、そこに「あなたの敵を愛しなさい」という言葉が二回出てまいります。そこの箇所は、前半と後半にさらに小さなまとまりに分けることが出来ます。その小さなまとまり、つまり二十七節から三十一節までのところで、イエス・キリストの弟子になろうとしている人々の基本的な生き方が述べられております。「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者に親切にし、あなたを呪う者に祝福を与え、あなたを辱める者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には他の頬をむけてやり、あなたの上着を取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持物を奪う者からは取り戻そうとするな。」
ある教会の牧師さんが、教会学校に熱心に来ていた一人の少年にこう言いました。「ぼうや、君は大きくなったら、右の頬を打たれたら左の頬を出すような立派な人間になるんだよ。」会うたびにその少年に言っていたそうです。するとある時、突然その少年が教会に来なくなってしまいました。道端で会って、「どうして教会学校に来ないの」と聞くと「だって、僕あんなのいやだよ。右の頬を打たれたら、僕だって殴り返したいもの」と言ったといいます。この子どもの気持ちは痛いほど良くわかるのではないでしょうか。私たち人間がもっているごく自然な心を表していると思います。殴られたら殴りかえすんだ。取られたら取りかえすんだ。そういう心をみんなもっているのではないでしょうか。そしてそのような心も、ある意味では人間の社会というものが成り立っていくための一つの基本であるといっても良いかと思います。
しかし、イエス様はキリストの弟子になろうとしている人々の基本的な生き方の原則を示されました。それはキリストについていこうという人たちは復讐しない、報復しない、仕返しをしない、自分を苦しめる人たちと同じような行為に出ない、その人たちと同じような生き方をしない、ということであります。これがキリストについていく人たちの基本的な生き方であります。人を苦しめる行為にどのようなものがあるかということが、ここに述べられております。人を苦しめる行為、それは人を憎む事、人の悪口を言う事、人を侮辱する事、暴力をふるう事、盗む事、人の親切心に圧力をかけて無理になんとかしてくれと求める事。こういう事を言う時に私は視線をどこに向ければいいか分からなくなりますけれども。礼拝ではいいのですが、小さな聖書の学び会なんかになると、視線をどこに向けてこういう事を言っていいのか・・・。
ここで私たちが気づかされますことは、このイエス様の教えを聞いている人たちは、他の人たちを苦しめている人たちではなくて、苦しめられている人たちであるということであります。人を苦しめるということは、あるいは人を辱めるという事は、神の国に生きる人々には本来無縁の行為であるとイエス様が教えておられる事が分かります。もう一つ分かりますことは、イエス・キリストの弟子になろうとする人々は、確かに苦しめられている被害者であるかもしれませんが、自分自身をいわゆる被害者とみなすのではないということであります。人からの暴言や侮辱に対して同じように仕返したり、不平不満をならべたり、あるいは何にも苦しんでいないよというような演技をするのでもなくて、積極的に神の国の原則である愛と許しと寛容をもって接する、ということが教えられています。そういう生き方というのは相手を打ち負かすための密かな戦略ではありません。戦略のために愛するという種類の愛もあるかもしれませんが、そうではなくて、そういう生き方は私たちがこうして神を礼拝し、神ご自身から学びとっていく生き方だということであります。このルカの福音書六章の三十五節後半のところに、このように記されています。“いと高き方は恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである”神様は仕返しする神ではなく、恩を知らぬ者にも、自己中心的なわがままな者に対しても親切な方である、とキリストは言われます。そういう神様を私たちが礼拝している、その神様から学びとっていく、そのような神様の御性質を私たちもいただきたいと願っていく、そういう生き方を求めなさいと主は言われます。
次のまとまりであります三十二節から三十六節の中では、今述べられました原則が別の角度から述べられています。つまり、キリストの弟子となる人は、他の人の行為に対して同じ行為を返さないという原則であります。けれどもこの箇所においては、私たちを苦しめる人たちに対してではなく、私たちを愛し、私たちに親切にしてくれる人に対してであります。つまり私たちの生き方というのは私たちを苦しめる人たちに対して左右されないと同じように、私たちに親切にしてくれる人によっても左右されないという生き方だというのです。憎しみに対しては憎しみ、愛に対しては愛、そう言う生き方ではなくて、キリスト者の行為と人間関係とは、私たちが礼拝する神によって与えられるもの、そしてその神様はすべての人に対して、愛とあわれみをもって応じられる御方であります。そういう御方を礼拝するところから生まれてくる生き方を求める人が、いと高き方の子となるのだとキリストは言われます。神がすべての人に対して、恩知らずの人に対しても、自己中心的な人に対しても、わがままな人に対しても恵みを注がれる御方であるという事は、あのマタイの福音書では別な表現で記されております。そこでは“天の父は悪い人の上にも良い人の上にも太陽をのぼらせ、正しい人にも、正しくない人にも雨を降らせてくださる”そのように言われます。ルカの福音書でもマタイの福音書でも、ともに神様の徹底的な恵みが表されております。それと同時にこのルカの福音書もマタイの福音書もこのような神様の無差別のめぐみというものは、不公平ではないかと感じる人々がいることにも触れております。
マタイの福音書では二十章の葡萄園の例えがそれであります。朝早くから葡萄園で働いた人にも、夕方遅くなってからほんの少ししか働かなかった人にも、その葡萄園の主人は同じようにまる一日分の賃金を払ったという、あの例えであります。朝早くから一日中暑い中をまじめに働いた人たちは、それは不公平だと思うのは自然な事であります。そして主人に文句を言います。それに対して主人は「私が気前良くしているので、妬ましく思うのか」という質問を返すのであります。
またルカの福音書の中では十五章に出てきます放蕩息子の例えに神の恵みを不公平だと感じる人が出てきます。それは放蕩の限りをつくした弟息子のために、盛大な宴会を催す父親に対して「こんな不公平なことがあっていいのですか。私はいつも真面目に働いているのに、私の弟にはこんな宴会などしてくれて、私にはかつて宴会などしてもらったことがない。なのにあの自分勝手なわがままの限りを尽くして帰ってきた弟のためには、こんなに御馳走をだすのですか」とお兄さんは訴えるのです。その兄息子の訴えに対して父親は「このあなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当たり前ではないか」と答えます。神様はその恵みを受ける資格を全く持たない人にも豊かな恵みを注ぎ、心にとめ、かえりみてくださる、それが神の徹底した恵みだとキリストは示しておられます。私たちもまたそういう神様の恵みに対して、問題を感じるのではないでしょうか。人がどういう生き方をしていようとも、神は恵みを持って応じられる。しかもキリストについていこうとする私たちもまた、神と同じように人々に愛と寛容と許しをもって接しなければならない。それは不公平ではないか。あの放蕩息子のお兄さんの言葉が私たちに心に響いてくるのではないでしょうか。
ある方が私に「アマデウス」という映画をご覧になった事がありますか」と言われました。「いいえ、マダデウス」といいましたけれども・・・。「あれは是非見てください」と言われて、どんなものだろうかと思って借りて見たのであります。ご覧になった方もいると思うのですが、それは音楽家モーツァルトについての作品であります。どこまで史実にもとづいた物語りであるか私にはわかりませんが、モーツァルトと同じ時代に音楽家として活躍したサリエリという人がモーツァルトに激しい妬みを覚えるというテーマであります。
サリエリという音楽家は貧しい家の出身で、努力に努力を重ねてやっと宮廷音楽家として雇われ、日の目を見た人であります。彼は真面目で礼儀正しく、謹厳実直な人であります。ところがモーツァルトは若い天才音楽家として彗星のごとく現われます。彼が作曲する音楽はどれもこれも人々の心を感動させるものであります。ところがこれもどこまで史実に基づいているか分かりませんが、モーツァルトは品性に欠け、非常識で不真面目で遊び好きで、お金にルーズで、しかも他の音楽家たちを平気で侮辱する、高慢きわまりない人であったとあります。そしてこともあろうに宮廷音楽家であり、品行方正な道徳心の高いサリエリを公衆の面前で愚弄したのであります。モーツァルトは天才の持つ無邪気さというか天真爛漫というか、悪意はないのでありますけれども、ただあまりにも自分の音楽に自信をもっていたために、他の音楽家がくだらないと思えたのでしょう。そんなモーツァルトにしだいに妬みと憎しみを持ちはじめたこのサリエリは、ある時神様に訴えます「神よ。なぜ貴方はあんな品性の欠けた、人間として道徳心もない愚弄な男に、あのような音楽の才能を授けられたのですか。私はどうなのですか。一生懸命努力し、真面目に働き、人一倍苦労してきたのに、私には彼のような才能を下さらないのですか。神よ。私は貴方が理解できません。」そのように訴えるこのサリエリは若いモーツァルトの音楽の仕事が失敗するようにあらゆる工作を始めるのであります。しかし、彼が企む事がすべて裏目に出て、モーツァルトはますます世間の評価を得るようになっていきます。そしてサリエリは落ち目になっていくのであります。このあたりは映画のためにかなり強調してコミカルに演出しているのだと思いますけれども、このサリエリの怒りと憎しみ、恨みは心頭に達するのであります。最後にはモーツァルトが病気になった時、サリエリは彼を看病していると見せかけて、モーツァルトに病気を押して作曲に集中させ、とうとうモーツァルトは若くして死んでしまいます。モーツァルトが亡くなった後も、彼の音楽はますます世界中にひろがっていきますが、サリエリの音楽は人々から忘れ去られていきます。そしてサリエリは自分がモーツァルトを殺してしまったという罪の意識で、それから何年も何年も苦しみ続けるという内容であります。
この作品の全体を通して、素晴らしいモーツァルトの音楽が流れ、エンターティメントとして楽しませてくれる作品ではありますけれども、そこで取り扱われてテーマは実に重いテーマであります。神は不公平ではないかというテーマであります。神は恩知らずの者にも、自己中心でわがままな者にも、情け深くめぐみを豊かにそそがれるというのは、不公平ではないか。それでは真面目に道徳的に生き、一生懸命努力している者が損をするのではないか。しかも私たちも、神様と同じように、恩知らずの者にも、自己中心でわがままな者にも親切に愛と許しと寛容を持って接していかなければいけないといわれるならば、どこに正義があるのだろか。どこに公平があるのだろうか。神様の無差別の愛というのは、実は不公平ではないかという問い掛けであります。その疑問に答えるために三十七節と三十八節が記されております。“人を裁くな、そうすればあなた方も裁かれる事がない。人を罪人だと決めるな、そうすればあなた方も罪人だと決められる事がない。許しなさい、そうすればあなた方も許される。与えなさい、そうすればあなた方にも与えられる。押し入れ、ゆすり入れ、あふれるほどに量をよくしてふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量りで量り返されるからである。”弟子たちに、どんな人に対しても、寛容な心をもって生きる事を自分の生き方とするように教えられたキリストは、ここで人を裁いてはいけない、人を罪人だと決めるなと言われます。文字通り訳しますと“裁く事を止めよ、責める事を止めよ、人を非難する事を止めよ”ということになります。
イエス様のこの教えを聞いていた当時の群衆の中には、人生は不公平ではないかと思って、他の人を責めたり非難したりしていた人がいたと思います。人を恨んだり、妬んだりした人もいたでしょう。ですからイエス様はここで公平という事について語られます。“あなたが量るその量りで自分も量り返されるからである”と言われます。これが公平なのだと言われます。あなたが人に寛容であれば、人はまたあなたに対して寛容になるであろう。あなたが人を愛せば、人はあなたを愛するであろう。あなたが人を許せば、人はあなたを許すであろう。あなたが気前よく人に与えていけば、人はまたあなたに与えるであろう。そればかりかあなたがもし、私についてきて私の教えるこのような生き方をするならば、人々はあなたのふところにあふれるほどの報いを与えるであろう。これが人生における神の真意なのだとキリストは教えてくださいました。神様は決して不公平ではない。あなたが蒔くものをあなたが刈り取るのだ。あなたが愛を蒔けば、あなたが愛を刈り取る。あなたが許しを蒔けば、許しを刈り取る。寛容な心を蒔けば、寛容を刈り取るであろう。だから人を愛する事において、人に親切にする事において失望してはいけない。神様の愛を生きることにおいて怯んではいけない。その道に励んでいくならば、時が来れば豊かな実を刈り取ることになるであろう。悪を成し遂げようとする者に腹を立てるな、主を信頼して善を行なえ、地に住み誠実を養え、主をあなたの心の喜びとせよ、主はあなたの心の願いを叶えてくださる、主はこのように語られました。
戦前の事であります。ある小さな村に、人々からぺパジ兄さんと呼ばれている一人の人がいました。ぺパジとはその地方の言葉でクルクルパーという意味であります。ぺパジ兄さんはその村で、大人の人から「ぺパジのあほ、まぬけ、バカ」と言われていました。それがいやだったからでしょうか。ぺパジ兄さんは子どもたちが遊んでいるところに寄ってきてじっと見つめていました。そのうち自分もやりたくなって子どもの遊びの輪の中に入っていきました。初めてぺパジ兄さんが子どもたちの遊びの輪の中に入った時、子どもたちの手を取って「かごめ、かごめ、篭の中の鳥はいついつである、うしろのチョウメンだ~れ」とたどたどしい言葉で歌いました。ぺパジ兄さんは言葉が不明瞭で手足に軽いマヒがありました。ぺパジ兄さんは、子どもたちと遊んでいる時は満面に笑みを浮かべてとてもうれしそうであります。その日以来、来る日も来る日も、子どもたちはぺパジ兄さんの後を追いかけるようになりました。ぺパジ兄さんは村中で一番のノッポで、大人たちは「あほだから、ノッポなんだ」と言っていました。ぺパジ兄さんが子どもたちの世界に入ってきてからは子どもたちの遊びの世界がぐんぐんと広がってきました。ある時は子どもたちを山に連れていき、こくわや山葡萄を子どもたちの両手一杯に採ってくれました。ある時は左手が不自由なのに汗まみれになりながら、子どもたち一人一人にチャンバラごっこの木刀を作ってくれました。子どもたちが夢中になって遊んでいて一人の子どもが足の付け根から血を出したことがあります。その時ぺパジ兄さんは血の出ている足をなめながら、大切にしていた日本てぬぐいを首からはずして包帯代わりに手当てをしてくれました。奥山で遊びほうけて山を越えて野を越えて、急な坂道になると、ぺパジ兄さんは一番小さな子どもをおんぶし、次に小さい子どもをひょいと右の脇にかかえます。坂道を降りながらはるか向こうの水平線に真っ赤な夕焼けが沈もうとする時「ゆうやけ、こやけ、日が暮れて、山のお寺の鐘がなる、お手々つないでみな帰ろう、カラスといっちょに帰りまちょう」と歌います。ぺパジ兄さんは、昔からのいろいろの遊びを子どもたちに教えてくれました。遊びに飽きたら子どもたちを川辺に連れていきました。川縁で石をそっととり、川底をほじくると、ザリガニがざっくざっくと出てきて、子どもたちは嬉しさのあまり飛び跳ねました。ぺパジ兄さんは岸辺で一生懸命石でザリガニの家を作っていました。子どものザリガニには小さな部屋を、親のザリガニには大きな部屋を。そんな時、ぺパジ兄さんは子どもたちにサルカニ合戦の話をしました。そのうちに子どもたちの一人がザリガニの爪をとってしまいました。ぺパジ兄さんはその子からそのザリガニを受け取り、掌にのせ涙を流していました。またある時は、池の蓮のうえに乗っている蛙を見て、だれが最初に石を投げられるかのジャンケンをしている時、いつもニコニコ笑っているぺパジ兄さんがすごい勢いで「ダメだ。蛙、生きているべ。」と叫びました。この世の中、生きているものすべて、命を与えられているのだという事を子どもたちは体で感じとっていたのでありました。
そんなふうにぺパジ兄さんと共に喜び、共に遊んだ二年間の後、子どもたちは悲しみと苦しみのどん底へ入って行きました。というのもぺパジ兄さんが軍事教練にかり出されたからであります。敵に見たてた藁人形を竹やりで突く、という軍事教練で、ぺパジ兄さんは列の最後に並びます。次々と突進し、最後にぺパジ突進という号令をかけられます。ところがぺパジ兄さんは竹やりを持って藁人形に向かっていくのですが、十メートルくらい前から足が震え、結局竹やりで藁人形を突けなくなるのです。「バカ、もう一度やり直し」と怒鳴られ、やり直すのですが、掛け声はエイヤーと出しても、それは子どもたちと遊んでいる時の元気な大きな声ではなくてか細い声で、竹やりで藁人形を突きさす事は出来ません。そうこうしているうちに教官に怒鳴られ顔面を平手打ちされ、頭を殴られます。ぺパジ兄さんをいじめるのは教官だけではありませんでした。教練に参加している他の大人たちの中にも、事ごとにぺパジ兄さんをいじめる人がおりました。そんな様子を目の当たりにするのは、子どもたちにとっては胸の張り裂けるような思いでした。子どもたちはぺパジ兄さんの軍事教練の終わるのを小学校の裏でじっと待っていました。教練が終わると、子どもたちは大人たちがいなくなるのを見計らってぺパジ兄さんのところへ駆け寄り、物置小屋に連れていきました。ぺパジ兄さんは子どもたちを見て微笑んでいました。子どもたち一人一人の名前を呼び、代わる代わる「ようこ、マー坊、ミー、だだち、もとこ」と頭をなでます。一人一人の胸の中はぺパジ兄さんに頭をなでてもらった事の嬉しさと喜び、それと裏腹に、なぜ大人たちはこんなに優しく素晴らしいぺパジ兄さんをいじめなければならないのかという激しい怒り、そして悲しみがどっと沸き溢れ嗚咽していました。一人の女の子が「ぺパジ兄さん、藁人形、竹やりで突かないの、どうして、どうして」と聞きました。ぺパジ兄さんはその子の目を見つめて言いました。「教官が言ったべ、敵が攻めてきたら敵の目ん玉と腹めがけてどっと突けって。おら突けねべ。だって敵だって生きてるべ。突いたらチンデしまうべ。」ぺパジ兄さんの目から大粒の涙がポロポロとこぼれていました。子どもたちはそれから長い間、ぺパジ兄さんの涙の意味を問い続けていました。そして子どもたちは、ぺパジ兄さんから愛ということを教えられました。あの時のぺパジ兄さんの涙を通して、愛する心の美しさと偉大さに触れたのでありました。ぺパジ兄さんは子どもたち一人一人にとって、生きる意味を教えてくれた人生の教師でありました。
その時の一緒に遊んだ子どもたちの一人は、現在知的ハンディを背負っている子どもたちが生活している児童施設で、子どもたちの笑顔と笑い声に支えられて、喜びの時を分かち合う幸せな人生を送っておられます。そして一人でも多くの人に、このぺパジ兄さんの心を伝えることを使命と思って努めていらっしゃいます。愛は愛を生み出し、許しは許しを生み出します。そして寛容は寛容を生み出します。キリストは言われました。“人々にして欲しいとあなた方の望むことを、人々にもそのようにしなさい”と。
お祈りいたしましょう。天の父よ、イエス・キリストの教えられている事は、私たちには無理な事のように思われ、到底私たちには出来ないものと思ってしまいます。憎しみに対しては憎しみ、侮辱に対しては侮辱、無礼に対しては無礼をもって返したい、というのが私たち人間の自然な本能的な心の動きであります。しかし、そのような生き方にはカサカサとした味気ないものしか残らず、私たちの心はいつしか壊れてしまいます。けれどもキリストの示された道、それは命と光と喜びの道でありました。愛と許しと寛容の道であります。主よ、どうか私たちが貴方との交わりを深くし、貴方のめぐみを汲み取って、貴方の命を私たちの内に注いでくださいますように。今、人の不正や暴言や辱めによって傷つき悩み苦しんでいる人々に、どうか貴方の命と光と御愛を注ぎ、正しく、また力強く忍耐強く生きていくものとさせてくださいますように。私たちの主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/



0 件のコメント:

コメントを投稿