2015年1月16日金曜日

ゼロ除算(ゼロじょざん、division by zero)は、

ゼロ除算
ゼロ除算(ゼロじょざん、division by zero)は、0 で除す割り算のことである。このような除算は除される数を a とするならば、形式上は a⁄0 と書くことができるが、数学において、この式と何らかの意味のある値とが結び付けられるかどうかは、数学的な設定にまったく依存している話である。少なくとも通常の実数の体系とその算術においては、意味のある式ではない。
コンピュータなど計算機においても、ゼロ除算に対するふるまいは様々である。たとえば浮動小数点数の扱いに関する標準であるIEEE 754では、数とは異なる無限大を表現するものが結果となる。他には、例外が起きてプログラムの中断を引き起こすかもしれないし、例えばナイーブに取尽し法を実行しようとしたなら無限ループに陥るか、なんらかの最大値のようなものが結果となるかもしれない。
計算尺では、対数尺には0に相当する位置が存在しない(無限の彼方である)ため不可能である。
目次 [非表示]
1 算数的解釈
2 初期の試み
3 代数学的解釈
3.1 ゼロ除算に基づく誤謬
4 解析学的解釈
4.1 ゼロ除算と極限
4.2 リーマン球面
5 コンピュータにおけるゼロ除算
6 ポップカルチャー
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
算数的解釈[編集]
算数レベルでは、除算は何らかの物の集合をそれぞれ同数になるように分けることで説明される。例えば、10個のリンゴを5人で分ける場合、各人は 10⁄5 = 2個のリンゴを受け取ることになる。同様に、10個のリンゴを1人で分ける場合、各人は 10⁄1 = 10個のリンゴを受け取る。
この考え方を使ってゼロ除算を説明できる。10個のリンゴを0人で分けるとする。各人は何個のリンゴを受け取るだろうか? 10⁄0 を計算しようとしても、元の設問自体が無意味なので無意味となる。この場合、各人が受け取る個数は、0個でも、10個でも、無限個でもない。なぜなら、元々受け取るべき人はいないからである。以上のように算数レベルで考える場合、ゼロ除算は無意味または未定義となる。
ゼロ除算の未定義性を理解する別の方法として、減法の繰り返し適用という考え方がある。すなわち、余りが除数より少なくなるまで除数を繰り返し引くのである。たとえば 13 割る 5 を考えると、13 から 5 は 2 回引くことができ、余りは 3 となる。結果は 13⁄5 = 2 あまり 3 などと記される。ゼロ除算の場合、ゼロを何度引いても余りがゼロより小さくなることはないため、無限に減法を繰り返すだけとなる。
初期の試み[編集]
628年にブラーマグプタが著した『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』では、0 を数として定義し、その演算結果も定義している。しかし、ゼロ除算の説明は間違っていた。彼の定義に従うと代数的不合理が生じることを簡単に証明できる。ブラーマグプタによれば、次の通りである。
「正または負の数をゼロで割ると、分母がゼロの分数となる。ゼロを正または負の数で割ると、ゼロになるか、またはゼロを分子とし有限数を分母とする分数になる。ゼロをゼロで割るとゼロになる」
830年、マハーヴィーラはブラーマグプタの間違いを著書 『ガニタ・サーラ・サングラハ』で以下のように訂正しようとして失敗した。
「数はゼロで割っても変化しない」
バースカラ2世は n⁄0 = ∞ と定義することで問題を解決しようとした。この定義はある意味では正しいが、後述の「ゼロ除算と極限」に示す問題もあり、注意深く扱わないとパラドックスに陥る。このパラドックスは近年まで考察されなかった[1]。
代数学的解釈[編集]
ゼロ除算を数学的に扱う自然な方法は、まず除算を他の算術操作で定義することで得られる。整数、有理数、実数、複素数の一般的算術規則では、ゼロ除算は未定義である。体の公理体系に従う数学的体系では、ゼロ除算は未定義のままとされなければならない。その理由は、除法が乗法の逆演算として定義されているためである。つまり、a⁄b の値は、bx = a という等式を x について解いたときに値が一意に定まる場合のみ存在する。さもなくば、値は未定義のままとされる。
b = 0 のとき、等式 bx = a は 0x = a または単に 0 = a と書き換えられる。つまりこの場合、等式 bx = a は a が 0 でないときには解がなく、a が 0 であれば任意の x が解となりうる。いずれにしても解は一意に定まらず、a⁄b は未定義となる。逆に、体においては a⁄b は b がゼロでないとき常に一意に定まる。
ゼロ除算に基づく誤謬[編集]
ゼロ除算を代数学的記述に用いて、例えば以下のように 1 = 2 のような誤った証明を導くことができる。
以下を前提とする。
0 \times 1 = 0\quad
0 \times 2 = 0\quad
このとき、次が成り立つ。
0 \times 1 = 0 \times 2
両辺をゼロ除算すると、次のようになる。
\textstyle \frac{0}{0}\times 1 = \frac{0}{0}\times 2
これを簡約化すると次のようになる。
1 = 2\quad
この誤謬は、暗黙のうちに 0⁄0 = 1 であるかのように扱っていることから生じる。
上の証明が間違いであることは多くの人が気づくと思われるが、これをもっと巧妙に表現すると間違いを分かりにくくできる。例えば、1 を x と y に置き換え、ゼロを x - y、2 を x + y で置き換える。すると上記の証明は次のようになる。
(x-y)x = x^2-xy = 0
(x-y)(x+y) = x^2-y^2 = 0
したがって、
(x-y)x = (x-y)(x+y)
両辺を x - y で割ると次のようになる。
x = x+y
x = y = 1 を代入すると、次のようになる。
1 = 2
解析学的解釈[編集]
ゼロ除算と極限[編集]
関数 y = \textstyle\frac{1}{x} のグラフ。x が 0 に近づくと、y は無限大に近づく。
直観的に a⁄0 は a⁄b で b を 0 に漸近させたときの極限を考えることで定義されるように見える。
a が正の数の場合、次のようになる。
\lim_{b \to 0^{+}} {a \over b} = {+}\infty
a が負の数の場合、次のようになる。
\lim_{b \to 0^{+}} {a \over b} = {-}\infty
したがって、a が正のとき a⁄0 を +∞、a が負のとき -∞ と定義できるように思われる。しかし、この定義には2つの問題点がある。
第一に、正と負の無限大は実数ではない。実数の範囲内で考えたい場合、この定義には意味がない。この定義を使いたければ、何らかの形で実数を拡張する必要がある。
第二に、右側から極限に漸近するのは恣意的である。左側から漸近して極限を求めた場合、a が正の場合に a⁄0 が -∞ となり、a が負の場合に +∞ となる。これを等式で表すと次のようになる。
  1. \infty = \frac{1}{0} = \frac{1}{-0} = -\frac{1}{0} = -\infty
このように、+∞ と -∞ が等しいことになってしまい、これではあまり意味がない。これを意味のある拡張とするには、「符号のない無限大」という概念を導入するしかない。
実数に、正負の区別が有る、あるいは無い、無限大が含まれるように拡張したものが拡大実数である。アフィン拡大実数では区別が有り、射影拡大実数では区別が無い(無限遠点)。
物理学においてはブラックホールや宇宙の始まりを考察するさいに質量/体積(密度)の体積が0となる特異点が発生するためゼロ除算による無限大発散の難問が生じている。この場合質量・体積は正であるため正の無限大への発散となる。
直接のゼロ除算以外では、三角関数のtan90°などの計算においても、同様の問題が生じてしまう。
0⁄0 についても、極限
\lim_{(a,b) \to (0,0)} {a \over b}
は存在しないため、うまく定義できない。さらに一般に、x が 0 に漸近すると共に f(x) も g(x) も 0 に漸近するとして、極限
\lim_{x \to 0} {f(x) \over g(x)}
を考えても、これは任意の値に収束する可能性もあるし、収束しない可能性もある。したがって、この手法では 0⁄0 について意味のある定義は得られない。
リーマン球面[編集]
リーマン球面は、複素平面に無限遠点 ∞ の1点を付け加えて得られるもの C ∪ {∞} である。上記実射影直線(射影拡大実数)の複素数版とも考えられる。リーマン球面は複素解析において重要な概念であり、演算は例えば 1/0 = ∞、1/∞ = 0、などとなるが、∞+∞ や 0/0 は定義されない。
コンピュータにおけるゼロ除算[編集]
SpeedCrunchという電卓ソフトでゼロ除算を実行したときの様子。エラーが表示されている。
現在のほとんどのコンピュータでサポートされているIEEE 754 浮動小数点に関する標準規格では、全ての浮動小数点演算を定義している。ゼロ除算も例外ではなく、どういう値になるかが定義されている。IEEE 754の定義によれば、a/0 で a が正の数であれば、除算の結果は正の無限大となり、a が負の数であれば負の無限大となる。そして、a も 0 であった場合、除算結果は NaN(not a number、数でない)となる。IEEE 754 には -0 も定義されているため、0 の代わりに -0 で除算をした場合は、上述の符号が反転する。
整数のゼロ除算は通常、浮動小数点とは別に処理される。というのは整数ではゼロ除算の結果を表す方法がないためである。 多くのプロセッサは整数のゼロ除算を実行しようとすると例外を発生させる。この例外に対する対処がなされていない場合、ゼロ除算を実行しようとしたプログラムは強制終了(アボート)される。これは、ゼロ除算がエラーと解釈されるためで、エラーメッセージが表示されることも多い。
1997年、民生品の応用を研究していたアメリカ海軍はタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦ヨークタウンを改造して主機のガスタービンエンジンの制御にマイクロソフト社のソフトウェアを採用したが、試験航行中にデータベースのゼロ除算が発生してソフトウェアが例外を返し、結果として主機が停止、回復するまでカリブ海を2時間半ほど漂流する事態となっている[2]。
ポップカルチャー[編集]
"OH SHI-"―ゼロ除算がコンピュータや電卓でエラーを引き起こす様を宇宙の終焉などに結びつけた英語の口語表現。「Oh shit!」と最後まで言い切る前に宇宙は破壊されてしまう[3]。
テッド・チャンの短篇に Division by Zero(ゼロで割る)という題名のものがある。
北米発祥のジョーク、チャック・ノリス・ファクトによれば、「チャック・ノリスはゼロ除算ができる」という真実(ファクト)がある[4]。
脚注[編集]
^ J J O'Connor and E F Robertson (2000年11月). “Zero”. 2008年11月16日閲覧。
^ “Sunk by Windows NT”. (1998年7月24日) 2008年11月16日閲覧。
^ “oh shi-”. Urban Dicthionary. 2011年10月11日閲覧。
^ “Chuck Norris can divide by zero”. Chuck Norris Facts. 2011年10月11日閲覧。
参考文献[編集]
Jakub Czajko (July 2004) "On Cantorian spacetime over number systems with division by zero", Chaos, Solitons and Fractals, volume 21, number 2, pages 261—271.
Ben Goldacre. “Maths Professor Divides By Zero, Says BBC”. 2008年5月8日閲覧。ゼロ除算の結果を nullity という新たな記号で表す方法が提唱された。
関連項目[編集]
漸近線
0の0乗

再生核研究所声明199(2015.1.15) 世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
ゼロ除算は 西暦628年インドでゼロが文献に記録されて以来、問題とされてきた。ゼロ除算とは、ゼロで割ることを考えることである。これは数学の基本である、四則演算、加法、減法、乗法、除法において、除法以外は何時でも自由にできるのに、除法の場合だけ、ゼロで割ることができないという理由で、さらに物理法則を表す多くの公式にゼロ除算が自然に現れていることもあって、世界各地で、今でも絶えず、問題にされていると考えられる。― 小学生でも どうしてゼロで割れないのかと毎年、いろいろな教室で問われ続いているのではないだろうか.
これについては、近代数学が確立された以後でも、何百年を越えて 永い間の定説として、ゼロ除算は 不可能であり、ゼロで割ってはいけないことは、初等教育から、中等、高校、大学そして学術界、すなわち、世界の全ての文献と理解はそうなっている。変えることのできない不変的な法則のように理解されていると考えられる。
しかるに2014年2月2日 ゼロ除算は、可能であり、ゼロで割ればゼロであることが、偶然発見された。その後の経過、背景や意味付け等を纏めてきた:
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9) ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25): Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185 : The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1)― 
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
ところが、気づいてみると、ゼロ除算は当たり前なのに、数学者たちが勝手に、割り算は掛け算の逆と思い込み、ゼロ除算は不可能であると 絶対的な真理であるかのように 烙印を押して、世界の人々も盲信してきた。それで、物理学者が そのために基本的な公式における曖昧さに困ってきた事情は ニュートンの万有引力の法則にさえ見られる。
さらに、誠に奇妙なことには、除算はその言葉が表すように、掛算とは無関係に考えられ、日本ばかりではなく西欧でも中世から除算は引き算の繰り返しで計算されてきた、古い、永い伝統がある。その考え方から、ゼロ除算は自明であると道脇裕氏と道脇愛羽さん6歳が(四則演算を学習して間もないときに)理解を示した ― ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であり、ゼロで割ればゼロであるは数学的な真実であると言える(声明194)。数学、物理、文化への影響も甚大であると考えられる。
数学者は 数学の自由な精神で 好きなことで、考えられることは何でも考え、不可能を可能にし、分からないことを究め、真智を求めるのが 数学者の精神である。非ユークリッド幾何学の出現で 絶対は変わり得ることを学び、いろいろな考え方があることを学んできたはずである。そのような観点から ゼロ除算の解明の遅れは 奇妙な歴史的な事件である と言えるのではないだろうか。
これは、数学を超えた、真実であり、ゼロ除算は不可能であるとの 世の理解は間違っている と言える。そこで、真実を世界に広めて、人類の歴史を進化させるべきであると考える。特に声明176と声明185を参照。ゼロ除算は 堪らなく楽しい 新世界 を拓いていると考える。
以 上

再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
ゼロ除算 100/0=0 は 説明も不要で、記号を含めて 数学的に既に確定していると考える。 もちろん、そこでは100/0 の意味をきちんと捉え、確定させる必要がある。 100/0 は 割り算の自然な拡張として ある意味で定義されたが、 その正確な意味は微妙であり、いろいろな性質を調べることによって その意味を追求して行くことになる:
ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
100/0=0 というのであるから、それは 100= 0 x0 というような意味を有するであろうかと 問うことは可能である。 もちろん、x を普通の掛け算とすると0x0 =0 となり、矛盾である。ところが山根正巳氏によって発見された解釈、物理的な解釈は絶妙に楽しく、深い喜びの情念を与えるのではないだろうか:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
等速で一直線上 異なる方向から、同じ一定の速さvで、同じ質量mの物体が近づいているとする。 その時、2つの物体の運動エネルギーの積は
\begin{equation}
\frac{1}{2}m{ v}^2 \times \frac{1}{2}m{(- v)^2} =E^2.
\end{equation}
で 一定E^2である。
ところが2つの物体が衝突して止まれば、vは ともにゼロになり、衝突の後では見かけ上
\begin{equation}
0 \times 0 =E^2.
\end{equation}
となるのではないだろうか。 その時はE^2 は 熱エネルギーなどに変わって、エネルギー保存の法則は成り立つが、ある意味での掛け算が、ゼロ掛けるゼロになっている現象を表していると考えられる。 ゼロ除算はこのような変化、不連続性を捉える数学になっているのではないだろうか。 意味深長な現象を記述していると考える。
運動エネルギー、物質は数式上から消えて、別のものに変化した。 逆に考えると、形式上ないものが変化して、物とエネルギーが現れる。これはビッグバンの現象を裏付けているように感じられる。 無から有が出てきたのではなくて、何かの大きな変化をビッグバンは示しているのではないだろうか?
以 上

再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
ゼロで割る、ゼロ除算は 割り算が掛け算の逆と考えれば、不可能である事が簡単に証明されてしまう。しかるにゼロ除算はある自然な考え方でゼロになるということが発見されるや否や、ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であるということと その一意性があっという間に証明されてしまった。ここでは創造性の実態、不思議な面に触れて、創造性の奇妙な観点をしっかり捉えて置きたい。― 背景の解説は 次を参照:
ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
道脇裕・愛羽 父・娘 氏たちの自明であるという解釈は 再生核研究所声明194で纏めたので、ここでは高橋の一意性定理を確認して置きたい。
まず、山形大学の高橋眞映 名誉教授によって与えられた 定理とその完全な証明を述べよう:
定理 Rを実数全体として、 Fを R x R からRへの写像(2変数関数)で、全ての実数 a、b、c、d に対して
F (a, b)F (c, d)= F (ac, bd)
および b がゼロでない限り、
F (a, b) = a/b
とする。 このとき、 F (a, 0) = 0 が導かれる。
証明 実際、 F (a, 0) = F (a, 0)1 = F (a, 0)(2/2) = F (a, 0)F (2, 2) = F (ax 2, 0 x 2) = F (2a, 0) = F (2, 1)F (a, 0) = 2F (a, 0).。 よって F (a, 0) = 2F (a, 0)、ゆえに F (a, 0)=0。
この定理で、F (a, 0) を a/0 と定義するのは自然であり、実際、 そう定義する。 ここは大事な論点で、チコノフ正則化法や道脇方式で既にa/0が定義されていれば、もちろん、定理ではF (a, 0) =a/0 が導かれたとなる。
定理は 分数の積の性質 (a/b)(c/d) = (ac/bd) を持つもので、分数をゼロ除算に(分母がゼロの場合に)拡張する、如何なる拡張も ゼロに限る a/0=0 ことを示している。― これは、拡張分数の基本的な積の性質(a/b)(c/d) = (ac/bd)だけを仮定(要請)すると、ゼロ除算は ゼロに限る a/0=0ことを示しているので、その意義は 決定的であると考えられる。 この定理は千年以上の歴史を持つゼロ除算に 決定的な解を与えていると考えられる。
チコノフ正則化法や一般逆の方法では、一つの自然な考え方で導かれることを示しているだけで、いろいろな拡張の可能性を排除できない。道脇方式も同様である。 一意性定理とは、そもそも何、何で定まるとは、その、何、何が定める性質の本質を捉えていて、導いた性質の本質、そのものであると言える。高橋眞映教授の定理は 証明も簡潔、定理の意義は絶大であり、このような素晴らしい定理には、かつて会ったことがない。数学史上の異色の基本定理ではないだろうか。
ゼロ除算は、拡張分数が 直接、自明であるが、積の公式が成り立つと、積極的に性質を導いていることにも注目したい。(ゼロ除算は 新しい数学であるから、そのようなことまで、定義に従って検討する必要がある。)
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで, 世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。 人は、我々の時代で、夜明けを迎えたいとは 志向しないであろうか。
数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって、例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できたと言える。
高橋の一意性定理だけで、数学はゼロ除算100/0=0,0/0=0を確定せしめていると言えると考える。 実はこの大事な定理自身は 論文にもそのまま記述されたにも関わらず、共著者名に高橋の名前が高橋教授の希望で載っていない:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
ところが、 高橋教授がゼロ除算の一意性を証明したと 当時 アヴェロ大学にポスドクで来ていた、イタリアのM. Dalla Riva博士に伝えたところ、そんな馬鹿な、反例を作ると猛然と挑戦したのであるが次々と失敗を続けていたが、帰る頃、驚いて高橋の結果は正しいと独自に定理を発見、証明した。― そこで、いろいろ経緯があって、共著で論文を書こうと提案していたところ、ゼロ除算そのものの研究の意味がないとして、論文と研究には参加せず、彼の結果は、齋藤のものとして良いとなった。彼らのあるグループ間では ゼロ除算は意味がないということで、意見が一致したというのである。これは数学が正しくても意味が無いという、見解の人たちが存在するという事実を述べている。アヴェイロ大学でもそのような意見であったので、アヴェイロ大学では、ゼロ除算は研究できない状況になっていた。それらの思想、感覚は、アリストテレスの世界観が宗教のように深くしみわたっていて、universe は不連続なはずがないという事である。ゼロ除算における強力な不連続性は受け入れられない、ゼロ除算はまるで、恐ろしい魔物をみるように 議論しても、発表してもならないと 数学教室の責任者たちに念を押された事実を 真実の記録として、書き留めて置きたい。
独立に証明された、Riva氏と高橋教授は、自分たちの定理の重要性を認識していなかったように感じられる。 他方、齋藤は、最初から今もなお その素晴らしさに驚嘆して感銘させられている。
以 上

再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
ゼロで割る、ゼロ除算は 割り算を掛け算の逆と考えれば、不可能である事が簡単に証明されてしまう。しかるにゼロ除算は 自然な考え方でゼロになるということが発見されるや否や、ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であるということと その一意性があっという間に証明されてしまった。ここでは創造性の実態、不思議な面に触れて、創造性の奇妙な観点をしっかり捉えて置きたい。― 背景の解説は 次を参照:
ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
道脇裕・愛羽 父・娘 氏たちの意見は 割り算を除算の固有の意味から考えて、自明であると結論づけたものであるが、この文脈を追記すると:
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数(商)は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。
さらに、
ところで、 除算を引き算の繰り返しで計算する方法自身は、除算の有効な計算法がなかったので、実際は日本ばかりではなく、中世ヨーロッパでも計算は引き算の繰り返しで計算していたばかりか、現在でも計算機で計算する方法になっている(吉田洋一;零の発見、岩波新書、34-43)。
さらに、道脇裕氏が、2014.12.14日付け文書で、上記除算の意味を複素数の場合にも拡張して ゼロ除算z/0=0を導いているのは、新しい結果であると考えられる。
吉田洋一氏は、上記著書で、ゼロ除算の方法を詳しく書かれているにも関わらず、ゼロ除算はゼロであるとの 結果に至っていない。道脇氏が見破ったセロ除算が出ていない。 吉田氏が書かれているように、中世ヨーロッパ、アジアでも、計算機内の計算法でも広範に、使われている方法の 小さな、小さな発想が出ていない。世界は広く、四則演算を習い、使用している人は それこそ膨大な人口なのに 皆道脇氏の発想が出ていないということは 何を意味するであろうか。 もちろん、数学や物理学の天才たちを回想しても 驚くべきことである。 しかも, 物理学には、ゼロ除算が自然に現れる公式が沢山存在して、ゼロ除算は 物理学の 不明な、曖昧な点であったという事実さえ存在していた。世間でもどうしてゼロで割れないかの疑問は 繰り返し問われてきていた、問われている。
この小さな、小さな発想の1歩が出なかった理由は、除算は乗算の逆であって、ゼロ除算は不可能であるという、数学の定説が ゆり動く事がなかったという、厳然とした事実ではないだろうか? 数学的に不可能性であることが証明されていることは、あたかも 絶対的な真理のように響いてきたのではないだろうか。― しかしながら、人類は非ユークリッド幾何学の出現で、数学的な真実は変わりうることを学んでいるはずである。 実際、平行線が無数に存在したり、全然、存在しない幾何学が現れ、現在それらが活用されている。
道脇愛羽さん(当時6歳)は 四則演算の定義、基本だけを知っていて、自由な発想の持ち主であるがゆえに、得られた感覚とも言えるが、無限が好きだとか、一般角の三等分を考えるなど、相当な数覚の持ち主のように感じられる。道脇裕氏は、自由人で、相当な整数論を独力で展開するなど多彩な才能の持ち主であるが、除算の理解にも深く、複素数でも除算の考えができるなど、全く新しい結果を得ていると考える。数学の定説など ものともしない、世界を観ているのが良く分かる。それらの故にこの偉大な1歩を踏み出すことができたと考えられる。
この1歩は偉大であり、小学校以上の割り算の考えを改め、ゼロ除算を 世界の常識にすべきであると考える。
我々は、この発見の契機から、人間の創造性について沢山の事を学べるのではないだろうか。
以 上

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