2015年1月28日水曜日

記事 鈴木友也2015年01月25日 11:11大勝し過ぎて出場停止処分?

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鈴木友也2015年01月25日 11:11大勝し過ぎて出場停止処分?

Twitterでもつぶやきましたが、先日、カリフォルニア州の高校バスケ(女子)の試合で161対2というスコアで大勝した監督が、所属学区から「Unsportmanlike Conduct」(スポーツマンらしくない行為)により2試合の出場停止処分を受けるという“事件”が起こりました。この件については、いろいろ考えさせられることがあり、ブログにも書いてみようと思います。
この「Unsportmanlike Conduct」ですが、日本ではあまり聞きなれない罰則かもしれませんが、米国では様々な競技でよく見受けられるものです。多くは、試合中の選手やコーチによる暴言や相手の選手を殴るなどの行き過ぎた暴力行為を対象とするもので、具体的なペナルティーとしては、バスケならフリースロー、フットボールなら罰退など、試合中に相手に有利になるように実務的に適用されるケースが多いです。また、行き過ぎると今回のように個人が出場停止処分を受けることもあります。
今回珍しいのは、大差で勝ち過ぎたことが「スポーツマンらしくない」と判断された点です。状況をもう少し詳しく調べてみると、前半終了時点で104対1という大差がついており、この時点で既に「やりすぎだ」と判断されていたようです。100点以上も差がつくのは、大学生と小学生が試合をしているようなものでしょうが、この高校は点差がついてもフルコートプレスを止めなかったようです。後半はレギュラー陣は下げ、第4Qからは時計も止めずに流すように審判に要請したそうですが、“時すでに遅し”でした。
日本的な表現で言えば「相手に恥をかかせた」という感じでしょうか。
面白いのは、プロレベルだと日米で似たようなことが見受けられる一方、アマチュアではむしろ価値観が正反対と思える点です。
例えば、プロ野球なら日本でもMLBでも点差が開きすぎた際には、勝っている方は塁に出ても盗塁をしないとか、必要以上に相手の顔に泥を塗らない配慮をします。この「Unwritten Rule」(不文律)に反すると、後で報復の死球を受けるなどやり返されることになります。
これは恐らくはお互い不要な「遺恨」を残さないための大人の知恵なのではないかと感じます。プロでやっている以上、お互いプレーに生活がかかっていますから、変な遺恨を残して後から「こいつにだけは絶対に負けない」と怨念を持たれても得することはありません。
しかし、逆にアマチュアレベルでは、日米の取り組みは正反対のようにも見えます。日本では、「手を抜かずに最後までやるのが礼儀」という価値観がある程度共有されているように感じます。だから、負けていても、途中から相手の二軍に相手をされて適当にあしらわれるよりは、一軍にコテンパンに負ける方が美徳とされるような文化がありますよね。僕は小学校から高校まで野球をやっていましたが、そんな雰囲気でした。
で、この違いはどこから来るんだろうと考えてみたのですが、まず最初に頭に浮かんだのは、アマチュアレベルでは「スポーツをする目的」が日米で違うのではないか、という仮説です。目的が異なれば、同じ行為に対して評価が分かれるのは納得できます。
日本では、スポーツは「教育」を目的とされるため、「ルールを守ること」が大事とされ、これが美徳になる文化が根付いた。それに対して、米国ではスポーツは「競争」と「娯楽」を目的とするため、「競い合って楽しむこと」が大事とされる。
「ルールを守る」ことが最優先と認識されているなら、「最後まで手を抜かずに相手をする」「胸を借りて大敗する」という行為が美化されることも、もっと言えば、灼熱の太陽の下で何時間も試合をしたり、体を壊すのも厭わずに連投したりする行為をやめないのも合理的に説明できますね(笑)。
こんなことをFacebookで書いてみたら、アジアや欧米でアイスホッケーのコーチをしている知人より、別の角度から面白い指摘を頂きました。彼によると、アマチュアスポーツのリーグが、日本では欧米のように実力に応じて階層化されて組織・運営されていないのも背景の1つなのではないかということでした。
欧米では、アマチュアでもマイナーリーグのように実力に応じたリーグが階層的に組織されているので、そもそも実力差がありすぎるチームが同じ土俵で戦うミスマッチが少ない(「ミスマッチの美化」を必要とする土壌がそもそもない)のだそうです。だから、今回のように点差が付きすぎると問題視される。逆に、日本では、高校野球が象徴的ですが「無差別級一発勝負」が多いので、ミスマッチが多発するのが普通で、それを誰も変だと思わない。
だから、今回のケースでは、出場停止処分になった監督とは別に、実力差がありすぎるリーグ構成や参加資格も議論されるのではないかと、その友人は言っていました。
なるほど、興味深い指摘だと思います。僕は育成方面は明るくないので、そのような発想は思いつきもしませんでした。
日本で階層化された育成環境が整備されないのは、日本に根強い平等意識からくるものなのでしょうかね?以前、「スポーツ界の発展を(も)阻む?日本の悪しき平等主義」でも書きましたが、日本は「結果平等」主義が強く、最近では運動会でも手をつないで皆一緒にゴールするという話も耳にします。こうした発想が、小さい時に能力で機会を区別することを良しとしないのかもしれません。スポーツが「教育」の手段として認識されているのなら、なおさらでしょう。http://blogos.com/article/104265/
確かに 勝ちすぎると、もはや、面白くなく、ほどほどは 大事では?
再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界
(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)
主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明
再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
の題名も真実だろうが、そこで述べた、
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。
言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば
磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。
などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:
再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。
以 上

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