2015年1月27日火曜日

記事 Chikirin2015年01月23日 00:00理想の社会なんて信じるのはやめましょう

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Chikirin2015年01月23日 00:00理想の社会なんて信じるのはやめましょう



イスラム国に日本人 2人が人質に取られるという衝撃的な事件が起こっていますが、今年は東京でオウムのサリンテロが起こってから 20年目の年でもあります。
既に記憶がないという人も多いでしょうが、地下鉄サリン事件(私は「地下鉄サリンテロ」って呼ぶべきだと考えています)は、世界を震撼させた先進国・都市型の無差別テロであり、化学兵器テロでした。

あの朝、私はいつものように半分眠った状態で地下鉄に乗っていたのですが、降りようとした霞ヶ関駅で突然「駅に汚物が撒かれたため、停まらず通過します」という車内アナウンスを聞いて驚き、
「まじ!? 遅刻するじゃん!? 誰よ? 朝から汚物撒いたの?」などとブツクサ言いながら次の駅で降りたところ、
地上には多くの救急車と消防車が走っており、その騒然とした雰囲気に一気に目が覚めたという記憶があります。10分早起きしてたら、私も被害者のひとりになっていたのかもしれません。

★★★

地下鉄サリンテロのそのまた 20年前。1970年代の日本はテロの頻発国であり、同時に国際テロリストを生みだすテロ拠点国のひとつでした。
1970年には日本航空が乗っ取られて犯人が北朝鮮に亡命(?)し、1972年には日本のテログループがわざわざイスラエルまで行き、空港で無差別に銃を乱射するという、とんでもないテロを行っています。
この事件では 3人の日本人テロリストが乗客ら 26人を銃殺、+重軽傷者も 70人以上という無茶苦茶ぶり。フランスの雑誌社を襲ったテロ、シャルリー・エブド事件の倍以上の人を殺してる。日本人、怖すぎでしょ。
その 2年後にも日本の武装過激派がクェートで大使館を占拠、丸の内のビジネス街では爆弾テロにより、何人もの罪無き人を殺害してるし、

その後もダッカでハイジャック事件を起こすなど、当時は日本国内はもちろん、世界各地でも日本人によるテロが起こっており、日本は(平和で安全な国なんかでは全くなく)歴としたテロ国家だったのです。
今みなさんにとって、「テロが頻発し、世界中にテロを送り出してる迷惑な国」ってどこの国のイメージですか? それだったんですよ。たかだか 40年前の日本は。

★★★

そして日本でも世界でも、こういう大規模なテロ活動を行う集団の発想はいつも同じです。彼らは、
・理想の世の中が存在する
・その実現のためには、暴力を使って現在の社会を破壊してもよい
と考えています。
中国の文化大革命において「造反有理」と言われるのも、共産主義革命において「暴力革命」や「革命無罪」が唱えられるのも同じです。

「あるべき姿」としての理想社会を信じる人達は、
・今の社会は理想の姿から遠すぎるから、少しずつ変えていく方法ではいつまでたっても理想社会には到達しない

・だから、今の社会を破壊しよう。そのための暴力は許される。なぜなら自分たちが目指している理想の社会は、現実の社会より圧倒的に正しい姿だからだ
という理屈を使います。

この理屈のうち、多くの人は後半の「暴力を正当化する」部分を非難します。
・理想社会を掲げることには何の問題もない。今の社会が、理想からほど遠いのも、その通りである
しかし、
・理想の実現のためとはいえ、暴力を使うのはよくない!
ってみんなよく言うんだけど、

あたしは、「違うんじゃないの?」って思ってます。そもそもの間違いは、その前段階の「理想の社会が存在する」っていう発想から始まってるんじゃないかと。

現実の世界には、理想的な社会なんて存在しないんです。いろんな問題や矛盾や理不尽がある。それらは決して無くならない。
だから無くす努力が無意味だという意味ではなく、無くす努力は大事だし、無くす努力をすれば状況は改善されるけど、だからといっていくら頑張っても、理不尽が存在しない「理想の社会」なんて、ありえない。
それが、人間がたくさん集まって住むってことの現実なんです。

その現実を認めず、「いや違う。理想の社会は実現できる!」などという誤った夢を持つから、暴力が必要になっちゃう。
目指す場所が実現不可能な空想の国だから=あり得ないモノを実現しようとするから、暴力やテロまで必要だと言わざるを得なくなるんですよ。

★★★

しかも「理想を掲げる」と、洗脳が極めて簡単になります。言葉だけで構築される理想社会は、誰も反対できないキレイで完璧な姿だからです。
だから「その理想社会のために一緒に頑張ろう!」と言われると、みんな反論できない。

最初は懐疑的だった人も、いくら考えても「理想の社会を実現すべきでない理由」が見つからないから、そのうち「ホントにその通りだ! 自分はなぜ気付かなかったんだろう!?」と思い始める。これが洗脳への第一歩。
活動に参加し始めたあとも、その活動に人生を捧げる意義が超わかりやすい。なんたって、「理想の社会を実現するため」なんだから、何一つ迷う必要はありません。

こうして多くの人たちが洗脳され、「理想の国の建設に捧げられるオレの人生、めっちゃ有意義やん!」と嬉々として活動にのめり込みます。
その上、絶対的な善のための活動なんだから、少々の問題には目をつぶるべき。という理屈も易々と生まれてしまう。これで洗脳完成。

70年代の過激派の人達は、大企業や資本主義が人間を抑圧している社会を破壊して、理想の共産主義社会を実現すべきだと考えていました。
オウムのメンバーも彼らなりの「理想社会」を信じていたらしいし、イスラム国の人達も同じなんでしょう。

現実的な変革者は、理想の社会を語るのではなく、今の社会を変えるための一歩として、まずは何を変えるべきか、という話をします。
でもこの話法では、突っ込みどころが満載なのです。
「そんなふうに変えたら、こういう問題が起こるのではないか?」
「そんなふうに変えても、こういう問題は解決されない!」
と、改革の反対者達はツバを飛ばして叫びます。

理想社会の実現と違って、現実の改革にはいくらでも反対の理由が見つけられるからです。
こういう、「理想の社会が実現しないのであれば、現実を一歩たりとも変えたくない」という人達も、「理想社会の存在を信じ、理想社会以外は一切認められない」という点においては、発想が同じです。
理想しか信じない人は、今を一歩も変えようとしない。こっちはこっちで最悪! → 関連過去エントリ:「日本が次のステージに進めないワケ」

★★★

理想の社会はマル! それ以外の社会は全部ペケ!
このタイプの発想は、間違ってるとか役に立たないという以上に、とっても怖いんだということを理解しましょう。

人間はみんな身勝手だし、ワガママです。自分の子供だけ幸せならいいと思っている人と、自分の国だけ平和ならいいと思っている人が、みんなで集まって暮らしているんです。
誰だって自分がいったん握った権益は手放したくないし、自分が持ってない何かを苦労せずして保有している人がいる社会は「なんでやねん?」と思うんです。

でも、だからといって「そんな問題が一切存在しない理想の社会」なんて信じちゃイケないんです。だって・・
そんなモノは存在しないのだから。
そんなモノを信じたら、「どんな手段を使ってでも実現すべきだ」って話につながっちゃうんだから。

理想社会なんて信じるのはやめましょう。
ソレ、すごい危険な思想なんで。

そんじゃーね。http://blogos.com/article/104130/

少しずつ良い社会を作ろうと努力するのは当然では。 逆の立原、みんなの立場を考えるのは基本では?
再生核研究所声明 129 (2013.8.28): 
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)
再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:
(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)
そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治
権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。
以 上
追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45

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