2016年6月10日金曜日

アリストテレスの時空論 ―『自然学』第3巻第4巻の構造と存在論的前提― 松浦 和也

アリストテレスの時空論 ―『自然学』第3巻第4巻の構造と存在論的前提―
松浦 和也
アリストテレスの『自然学』第3巻第4巻は、運動論、無限論、場所論、空虚論、時間論で構成される。これら一連の議論は、運動変化一般と、空間的延長および時間的延長を扱う議論だと言えるだろう。本論文は運動論が無限論以降の議論における運動モデルを提供していると措定し、この観点から『自然学』第3巻第4巻の統一的読解を目論む。本論文の主要な目的は次の2つである。第一の目的は、運動論から時間論までの各論の有機的関連を明確にすることである。第二の目的は、アリストテレスにおける空間的延長と時間的延長の存在論的位置づけを確認し、『自然学』第3巻第4巻の自然哲学上の基本的態度を明らかにすることである。
 第1章は『自然学』第3巻第1~3章の運動論を扱い、運動の定義の内実を検討する。アリストテレスは運動を「可能的にあるものの、そのようなものとしてのエンテレケイア」と定義する。この定義に関しては、この定義が静的な事態ではなく、ものが運動しているという事態を指示できているのか、また、「エンテレケイア」自体が運動を指示しているのではないか、といった点で論争が行われてきた。本論はこの2つの問題点を回避できる理解を、定義中の「そのようなものとしての」の解釈を通じて模索した。その結果、「そのようなものとしての」には、青銅が可能的に彫像のみであり、剣や壺といった他の可能性を除外する役目が与えられており、運動の定義は「可能的にXである対象の、その対象が可能的にXであるものとしての、現実態」と再定式化できることが明らかとなった。そして、運動の定義に即した運動変化モデルは、運動体、運動体の現在の状態、運動が完了するときの運動体の状態という3つの項で構成されることになる。
 第2章は、運動論に続く『自然学』第3巻第4~8章の無限論を扱う。無限論解釈における近年の論争のひとつは『自然学』第3章第6章以降で論じられる分割無限が、通常の理解通り可能的にのみ存在するのか、それとも現実的にも存在することが認められるのか、というものである。この論争に対する準備として、『自然学』第3章第6~8章は『自然学』第3巻第4、5章からの自然哲学的文脈に置かれており、それゆえ第6章以降で中心的に論じられる分割無限は思惟的対象や数学的対象ではなく、物体に依存した対象であることを確認した。続いて、「無限が可能的にも現実的にも存在する」と主張する『自然学』第3章第6章206b12-14の扱いと、この主張を導く議論構造を整理した。その結果、206b12-14における無限とは分割無限ではなく、限りなく繰り返しうる長さの分割過程を意味し、分割無限は可能的にのみ存在することを証明した。さらに、『自然学』第3章第6章で分割無限が質料であるという主張を検討し、この主張は質料形相論を量のカテゴリーに適用し、分割無限が一定の大きさを構成する部分であるという洞察から生じたことを明らかにした。このように『自然学』の無限論を理解すれば、無限論は物体が持つ大きさ、あるいは空間的延長の連続性を確保すると同時に、空間的延長の連続性を分割無限の概念によって確保することで、運動の定義における可能態と現実態の2つの状態の間に連続性を確立した議論として位置づけられる。
 第3章は、『自然学』第4巻第1~5章の場所論を扱う。アリストテレスが場所論で導いた場所の定義は「包む物体の不動の限界」というものであるが、この定義にはテオフラストスの時代より問題が指摘されてきた。特に争点となってきたのは、「包む物体」の指示対象と場所の不動性である。この問題の解決のために提案されてきた解釈は、四(五)元素説や同心天球説に基づいたアリストテレスの宇宙観を援用することによって場所の不動性を確保しようとする傾向にあった。このような解釈の傾向に対し、本論は彼独自の宇宙観を必ずしも前提とせず、かつ移動の説明に必要な2つの場所を区別できるような解釈を模索した。まず、彼にとって場所は必ずある物体の場所である。それゆえ、場所はその物体への存在論的依存関係を有する。ただし、定義である「包む物体の限界」が示しているように、場所はその物体を包む物体にも存在論的依存関係を有する。それゆえ、場所の不動性は包む物体に属する限界の不動性であり、さらに、その限界の不動性とは包む物体の不動性に他ならない。そして、包む物体の不動性は厳密な意味に捉えるべきではなく、場所内部の物体の移動の前後において不動であるという、弱い意味での不動性として理解しうることを示した。
 第4章は『自然学』第4巻第6~9章の空虚論を分析対象とする。この空虚論では空虚は存在しないという結論が導かれるが、本章はこの結論を導いたアリストテレスの根本的な自然哲学的態度の明確化を試みた。しばしば、彼が空虚の非存在を導出するための主要な論拠は、空虚の存在が「物体の速度は媒体の密度に反比例する」という彼独自の力学的公理と対立することにあると解されることがある。しかし、該当する『自然学』第4巻第8章215a24以下の論拠はこのような力学的公理よりも「物体の速度は媒体の密度に依存する」という現象あるいは感覚的パイノメナにあり、そもそも215a24以下は、運動一般が成立するための必要条件として古代原子論が要請した空虚の非存在の証明ではあっても、空虚の非存在を完全に否定するための決定的議論ではない。むしろ、決定的議論と見なすべきは空虚そのものの存在を検討する『自然学』第4巻第8章215a24-216a11である。本論はこの議論の再構成を行い、次の2つの自然哲学的態度を析出した。第一に、物体を存在の基盤に据えること、第二に、「同じところに実体性を持つ対象が2つ以上重なって存在することはない」という原理である。これらの自然哲学的態度が、空虚の存在を否定するアリストテレスの主要な論拠である。
 第5章は『自然学』第4巻第10~14章の時間論を扱う。アリストテレスは時間を「前後に関する運動の数」と定義する。しかし、時間論冒頭で挙げられる「過去は存在しない、未来は存在しない、現在は時間の部分ではない、ゆえに時間は存在しない」というパラドックスに、彼は明確な解決法をテキストで提示していない。この時間のパラドックスを解決するために、本論は時間の定義が有する存在論的含意を析出し、さらに本論第1章で扱った運動の定義に着目した。彼にとって時間は、その定義中の「運動の数」が示しているように、運動から独立して存在するものではなく、運動に依拠して存在するものである。しかし、時間の存在を運動に基礎づけたとしても、直ちに時間のパラドックスに解決がもたらされるわけではない。なぜなら、時間のパラドックスは「過去の運動は存在しない、未来の運動は存在しない、ゆえに運動は存在しない」という形に改めることができるからである。ただし、現在の同一性と差異を説明するために、アリストテレスは、現在の同一性を運動体の同一性に、現在の差異を運動体の状態の差異に対応付けることによって説明する。そして、運動体を運動の定義に即して捉えなおせば、この運動体は実際の状態と運動が完成する状態の2つの状態を併せ持つ。これら2つの運動体の状態に現在が対応するならば、現在には可能的な現在と現実的な現在があり、2つの現在の間に連続的な時間が存する。
 以上、第1章から第5章における検討から、『自然学』第3巻第4巻における空間的延長と時間的延長の存在論的位置づけについて以下のことが明らかになった。運動の定義は運動体、運動体の現在の状態、運動が完了するときの運動体の状態の3つの項で構成されているが、この項の中に空間的延長や時間的延長の概念は含まれていない。ただし、無限論以降の考察において、アリストテレスは両者を運動や物体から独立して存在するようなある種の実体として扱おうとはしていない。むしろ、運動概念や運動する物体を考察の基盤におき、それぞれの存在論的位置づけを考察していることが、彼の時空論の特色である。また、『自然学』第3巻第4巻は、まず運動論において運動を可能態・現実態の概念で形式的に定義し、その定義と既存の物体観を元に無限論意向で空間的延長と時間的延長に存在論的位置づけを与え、さらに両者の解明を通じて運動の一般的理解を完成させるという回帰的な構造を有する。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2015/200.html


再生核研究所声明296(2016.05.06)   ゼロ除算の混乱

ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:

再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める

我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。

以 上


考えてはいけないことが、考えられるようになった。
説明できないことが説明できることになった。


再生核研究所声明295(2016.04.07) 無限の先にあるもの、永遠の先にあるもの ―盲点
セロ除算は新しい空間像をもたらしたので、いろいろな面から論じ、例えば、再生核研究所声明 271(2016.01.04): 永遠は、無限は確かに見えるが、不思議な現象 の中で、次のように述べた。

直線を どこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか。立体射影の考えで、全直線は 球面上 北極、無限遠点を通る無限遠点を除く円にちょうど写るから、我々は、無限も、永遠も明確に見える、捉えることができると言える。 数学的な解説などは下記を参照:

再生核研究所声明264 (2015.12.23):永遠とは何か―永遠から
再生核研究所声明257(2015.11.05):無限大とは何か、無限遠点とは何か―新しい視点
再生核研究所声明232(2015.5.26):無限大とは何か、無限遠点とは何か―驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明262(2015.12.09)::宇宙回帰説―ゼロ除算の拓いた世界観

とにかく、全直線が まるまる見える、立体射影の考えは、実に楽しく、面白いと言える。この考えは、美しい複素解析学を支える100年以上の伝統を持つ、私たちの空間に対する認識であった。これは永劫回帰の思想を裏付ける世界観を 楽しく表現していると考えて来た。
ところが、2014.2.2.に発見されたゼロ除算は、何とその無限遠点が、実は原点に一致しているという、事実を示している。それが、我々の数学であり、我々の世界を表現しているという。数学的にも、物理的にもいろいろ それらを保証する事実が明らかにされた。これは世界観を変える、世界史的な事件と考えられる:

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0

現在、まるで、宗教論争のような状態と言えるが、問題は、無限の彼方、無限遠点がどうして、突然、原点に戻っているかという、強力な不連続性の現象である。複数のEUの数学者に直接意見を伺ったところ、アリストテレスの世界観、世は連続であるに背馳して、そのような世界観、数学は受け入れられないと まるで、魔物でも見るかのように表情を歪めたものである。新しい数学は いろいろ証拠的な現象が沢山発見されたものの、まるで、マインドコントロールにでもかかったかのように 新しい数学を避けているように感じられる。数学的な内容は せいぜい高校生レベルの内容であるにも関わらず、考え方、予断、思い込み、発想の違いの為に、受けいれられない状況がある。
この声明では 盲点の視点から、強調したい存念を纏めたい。
直線をどこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか? 関数 y = 1/xで 正方向からx がゼロに近づいたらどうなるであろうか? あるいは 同様に上記立体射影で 北極にどんどん近づいたら どうなるであろうか? どんどん進んだらどうなるであろうかという問題である。伝統的で自然な考えは 何に近づくかと発想して、近づいた先、具体的には、無限大や北極に(無限遠点)に行くと考えるのは当然ではないだろうか。この発想の基礎には連続性、あるいは極限値の考え方がある。近づいて行った先が、求める対象であると考えてきた。具体的な関数y = 1/x では 正方向からx がゼロに近づいたら,限りなく大きくなるので、無限大が 1/0 の自然な値であろうと考えてきた。ところがゼロ除算の数学は、突然ゼロであると言っている。驚嘆すべき現象、事件である。北極に近づいた先が北極(無限遠点)であるから,平面上のあらゆる方向の先は、北極(無限遠点)であろうと発想してきたが、実は突然、原点に飛んでいるということが明らかにされた。無限の先は、実はゼロであったという事実である。我々はどんどん近づく先を考えたが、真の先までは考えず、あくまでも近づく先を考えていたことになる。これは無限の先を見てきた時の,それこそ、盲点そのものであったと言えるのではないだろうか。無限の先は、連続性ではなく、実は強力な不連続性、飛びが生じていたという事実である。これは全く、思いがけない、現象である と言える。それは、盲点、あるいは落とし穴があったと表現できよう。
従って、無限の彼方に関する我々の世界観は 大きな変更を要求されることになるだろう。

以 上











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