元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去
6月4日 19時17分
元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去
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プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ氏が、アメリカ西部の病院で亡くなりました。74歳でした。
モハメド・アリ氏は12歳でボクシングを始め、1960年、ローマオリンピックのボクシング、ライトヘビー級で金メダルを獲得しました。プロに転向したアリ氏は、1964年、22歳でヘビー級の世界チャンピオンになりましたが、3年後、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことでタイトルを剥奪されました。
その後、アリ氏はプロボクシングに復帰し、1974年に世界王座を奪還して通算19回の防衛を果たし、ヘビー級ながら華麗なフットワークを見せるボクシングスタイルは、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」と評されました。通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちでした。
一方、アリ氏は、アメリカのレストランで受けた人種差別に抗議して、ローマオリンピックの金メダルを川に投げ捨てたほか、黒人の人権擁護を呼びかける集会に参加するなど、人種差別の撤廃を国際社会に訴えました。
引退後は、難病のパーキンソン病を患って闘病を続け、1996年のアトランタオリンピックの開会式では、聖火台に火をともしました。また、アリ氏は病をおして、アメリカ軍兵士の慰問などの社会活動を続け、2005年には、アメリカ政府から、最高の栄誉とされる「自由勲章」を贈られました。
アリ氏は3日、アメリカ西部・アリゾナ州の病院で74歳で亡くなりました。
世界のメディア 大きく伝える
世界各国のメディアが、モハメド・アリ氏の死去を速報で伝えました。
このうち、アメリカの有力紙、ニューヨーク・タイムズは、アリ氏を「ボクシングと20世紀の巨人」と評したうえで、「オーソドックスではないボクシングスタイルをリングに持ち込み、最もわくわくさせてくれた。愛されもし、嫌われもしたが、50年間にわたって地球上で最も著名な人物の1人であり続けた」と伝えています。
アメリカのABCテレビは、アリ氏の生前の活躍を振り返る特別番組を放送するとともに、ツイッターに、「伝説であり、時代の象徴であり、ヒーローだった。安らかに眠ってください」と投稿しました。また、ロイター通信は、「最も偉大なボクサーだった。ハンサムかつ大胆で、言いたいことを言い、徴兵を拒否して黒人の運動のシンボルになった」として、アリ氏がアメリカの公民権運動に大きな影響を与えたと伝えています。
さらに、フランスのAFP通信は、「人々に愛された74歳のヒーローが、数十年間、パーキンソン病と闘った末にこの世を去った」としたうえで、リングの外でのアリ氏について、「イスラム教への改宗や、ベトナム戦争や公民権運動を巡る言動を中傷されたこともあったが、みずからの信念を曲げず、最後には称賛を勝ち取った」とたたえました。
オバマ大統領「同じ時代過ごせたことに感謝」
モハメド・アリ氏が亡くなったことについて、オバマ大統領は、4日、ミシェル夫人と共に声明を発表しました。
この中で、「世界中の人たちと同じように、私もミシェル夫人も彼の死を嘆き悲しんでいるが、同じ時代を過ごせたことを幸せに思い、神に感謝したい」と追悼しました。そして、オバマ大統領は「リングの上で戦うだけでなく、人々の権利のためにも戦ってきた。キング牧師や南アフリカのマンデラ元大統領などと共に立ちあがった。彼の戦いは困難で、周囲からは敵視され刑務所に送られそうにもなったが、彼が勝ちとったものこそが、まさにいまのアメリカを示すものとなっている」として、宗教や人種の差別の撤廃を訴えてきたアリ氏の功績をたたえました。
タイソン氏「神がチャンプを迎えに」
プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンモハメド・アリ氏が亡くなったことについて、親交のあった同じ元世界ヘビー級チャンピオンのマイク・タイソン氏は、自身のツイッターに、アリ氏と談笑する写真とともに、「神がチャンピオンを迎えに来た。さようなら、偉大な人」と投稿し、ボクシング界の英雄の死を悼みました。
パッキャオ氏「偉大な人を失った」
イギリスのキャメロン首相は自身のツイッターで、「モハメド・アリ氏はリング上におけるチャンピオンだっただけでなく公民権におけるチャンピオンでもあった。あまりに多くの人々の模範となった人だ」と投稿し、アリ氏の功績をたたえました。
また、フィリピンの上院議員で、ボクシングの元世界王者のマニー・パッキャオ氏は、自身のツイッターで、「われわれはきょう、偉大な人を失った。あなたはいつまでも史上最高であり続けるだろう」と追悼のコメントを寄せました。
アリ氏の娘で、父親に関する書籍も出版している作家のハナ・アリさんは、自身のツイッターで、「父は神のもとに旅立ちました。神のご加護がありますように。お父さん、あなたは私のすべてです」とコメントしています。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160604/k10010546201000.html
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。
以 上
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上






6月4日 19時17分
元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去
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プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ氏が、アメリカ西部の病院で亡くなりました。74歳でした。
モハメド・アリ氏は12歳でボクシングを始め、1960年、ローマオリンピックのボクシング、ライトヘビー級で金メダルを獲得しました。プロに転向したアリ氏は、1964年、22歳でヘビー級の世界チャンピオンになりましたが、3年後、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことでタイトルを剥奪されました。
その後、アリ氏はプロボクシングに復帰し、1974年に世界王座を奪還して通算19回の防衛を果たし、ヘビー級ながら華麗なフットワークを見せるボクシングスタイルは、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」と評されました。通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちでした。
一方、アリ氏は、アメリカのレストランで受けた人種差別に抗議して、ローマオリンピックの金メダルを川に投げ捨てたほか、黒人の人権擁護を呼びかける集会に参加するなど、人種差別の撤廃を国際社会に訴えました。
引退後は、難病のパーキンソン病を患って闘病を続け、1996年のアトランタオリンピックの開会式では、聖火台に火をともしました。また、アリ氏は病をおして、アメリカ軍兵士の慰問などの社会活動を続け、2005年には、アメリカ政府から、最高の栄誉とされる「自由勲章」を贈られました。
アリ氏は3日、アメリカ西部・アリゾナ州の病院で74歳で亡くなりました。
世界のメディア 大きく伝える
世界各国のメディアが、モハメド・アリ氏の死去を速報で伝えました。
このうち、アメリカの有力紙、ニューヨーク・タイムズは、アリ氏を「ボクシングと20世紀の巨人」と評したうえで、「オーソドックスではないボクシングスタイルをリングに持ち込み、最もわくわくさせてくれた。愛されもし、嫌われもしたが、50年間にわたって地球上で最も著名な人物の1人であり続けた」と伝えています。
アメリカのABCテレビは、アリ氏の生前の活躍を振り返る特別番組を放送するとともに、ツイッターに、「伝説であり、時代の象徴であり、ヒーローだった。安らかに眠ってください」と投稿しました。また、ロイター通信は、「最も偉大なボクサーだった。ハンサムかつ大胆で、言いたいことを言い、徴兵を拒否して黒人の運動のシンボルになった」として、アリ氏がアメリカの公民権運動に大きな影響を与えたと伝えています。
さらに、フランスのAFP通信は、「人々に愛された74歳のヒーローが、数十年間、パーキンソン病と闘った末にこの世を去った」としたうえで、リングの外でのアリ氏について、「イスラム教への改宗や、ベトナム戦争や公民権運動を巡る言動を中傷されたこともあったが、みずからの信念を曲げず、最後には称賛を勝ち取った」とたたえました。
オバマ大統領「同じ時代過ごせたことに感謝」
モハメド・アリ氏が亡くなったことについて、オバマ大統領は、4日、ミシェル夫人と共に声明を発表しました。
この中で、「世界中の人たちと同じように、私もミシェル夫人も彼の死を嘆き悲しんでいるが、同じ時代を過ごせたことを幸せに思い、神に感謝したい」と追悼しました。そして、オバマ大統領は「リングの上で戦うだけでなく、人々の権利のためにも戦ってきた。キング牧師や南アフリカのマンデラ元大統領などと共に立ちあがった。彼の戦いは困難で、周囲からは敵視され刑務所に送られそうにもなったが、彼が勝ちとったものこそが、まさにいまのアメリカを示すものとなっている」として、宗教や人種の差別の撤廃を訴えてきたアリ氏の功績をたたえました。
タイソン氏「神がチャンプを迎えに」
プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンモハメド・アリ氏が亡くなったことについて、親交のあった同じ元世界ヘビー級チャンピオンのマイク・タイソン氏は、自身のツイッターに、アリ氏と談笑する写真とともに、「神がチャンピオンを迎えに来た。さようなら、偉大な人」と投稿し、ボクシング界の英雄の死を悼みました。
パッキャオ氏「偉大な人を失った」
イギリスのキャメロン首相は自身のツイッターで、「モハメド・アリ氏はリング上におけるチャンピオンだっただけでなく公民権におけるチャンピオンでもあった。あまりに多くの人々の模範となった人だ」と投稿し、アリ氏の功績をたたえました。
また、フィリピンの上院議員で、ボクシングの元世界王者のマニー・パッキャオ氏は、自身のツイッターで、「われわれはきょう、偉大な人を失った。あなたはいつまでも史上最高であり続けるだろう」と追悼のコメントを寄せました。
アリ氏の娘で、父親に関する書籍も出版している作家のハナ・アリさんは、自身のツイッターで、「父は神のもとに旅立ちました。神のご加護がありますように。お父さん、あなたは私のすべてです」とコメントしています。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160604/k10010546201000.html
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。
以 上
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上






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