西洋(せいよう、英: the West)は、キリスト教文明に根ざしたヨーロッパ諸国、オーストラリア、ニュージーランド、ラテンアメリカ、及び北アメリカを指すが、その指し示す範囲は多様である。歴史的にはオクシデント(Occident)とも呼ばれ、その対立概念は東洋(the East, Orient、オリエント)である。
日本においては19世紀に起こり、19世紀後半には中等教育での歴史教育で促進された。1894年に文部省から「西洋史」として新設教科の教授要領が発表され翌年に教科書が発行された。この意味での「西洋」とは、主にヨーロッパやアメリカ合衆国などキリスト教文化圏の世界を指し、明治期の富国強兵時代の日本から見た概念であるが、欧米の国々でも「西洋」という概念を用いることはしばしば見受けられる(例:The Western culture=西洋文化、など)。
上記の意味での東洋・西洋の概念が定着したことを受けて、その後、学術用語としてオリエント(Orient)の対義語であるオクシデント(Occident)の訳語として「西洋」があてられるようにもなった。ただし、こちらの用法は狭義の用法である。
現代では、東洋・西洋の意味は歴史的な観点で用いられることが多く、文化とりわけ芸術分野の分類などにも影響を残しているが、現代用語としてはその役割を終えつつある。同義語に中国語から入った泰西があり、こちらは完全に現代用語としての役割を終えている。
東洋・西洋の語源[編集]
漢字の東洋(中国語)および西洋(中国語)は、中国を中心とした主観的区分であり、相対的な概念である。時代の移り変わりの中で、起点をどこに置くか、さらにどこまでの知見があるかなど世界観の変化から定義は大きく変化していった。中国周辺の漢字文化圏の各国では、定義がさらに独自に変化していった。東洋・西洋の概念は古代中国まで遡り、秦の時代には華南から南の海、現在の南シナ海を南海と呼び、南海からインド洋にかけてを南洋と呼んでいた。後に航路拡張に伴い華南から南に伸ばした経線によって東西に分け,それぞれを東洋,西洋と呼んだ。14世紀半ばの中国の文献にはブルネイ以東を東洋、インドシナ半島からインドへかけてを西洋と記述していた[1]。
「坤輿万国全図」も参照
坤輿万国全図は詳しい中国語の地図で、カナがふられている。
15世紀に入り鄭和の大航海によりアラビア半島やアフリカ東岸まで到達し、16世紀末にはヨーロッパから地理学や航海法の伝来もあり,広東を通る東経 113度を境として東洋と西洋に区分した。フィリピン・ボルネオなどを東洋諸国、ジャワからインドシナ半島を西洋諸国、台湾から日本にかけてが小東洋、南インドが小西洋、ヨーロッパに至る海を大西洋、アメリカ大陸に至る海を大東洋と呼んだ。現代中国では東洋は東アジアを意味する場合もあるが主に日本を指す[2]。日本語の西洋に相当する単語は西方世界であるが、西洋自体にも日本語と類似した意味がある。中国語版zh:西洋を参照
中国では明の時代に、台湾・琉球・日本にかけての海を小東洋と呼んでおり、日本では中世から近世にかけて知識人の間では東シナ海の東の島国という意味で、日本の事を東海、東洋と呼んでいた。明治維新後は脱亜・欧米化の動き中で、欧州視点のアジア・オリエントの概念が導入され、オリエントの訳に東洋が充てられ、西洋(欧州)の対義語としてアジア全域を示すようになった[3]。
以上のように、東洋・西洋の洋は海を意味するのみであるが、日本ではいつからか洋が西洋の略として使われるようになり、明治頃には、洋式・洋風とは西洋の方式および西洋風を意味し、洋画、洋風建築、洋式トイレ、和洋折衷、洋服、洋傘、洋食、洋楽などの語句が広く使われるようになった[4][5]。中国語圏でもzh:洋服、zh:洋蔥、zh:洋酒など洋に西洋の意味を持たせている熟語もあるが、日本語の洋式にあたる中国語は西式である。ウィクショナリーの中国語版を参照zh:wikt:洋。
オクシデント[編集]
元々ラテン語で「日の没する所」という意味であり、転じて西の方角を表すようになった。古代ローマではシリア・エジプトなどを「日の出る所」(オリエント)と呼んだため、オクシデントとはローマを中心とした欧州世界そのものを指す。西洋史においては、現在のトルコにあるボスポラス海峡より西の地域である。
エドワード・サイードらの研究によってオリエンタリズムが蔑視的なイメージとして批判されると、西洋の拝金主義、利益優先的な考え方をオクシデンタリズムとする解釈も現われた。ただしサイードは、オリエントとオクシデントのいずれの呼称も否定している[8]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B
ゼロ除算の発見は日本です:
∞???
∞は定まった数ではない・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:
とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所
ゼロ除算関係論文・本
再生核研究所声明 443(2018.8.13): アリストテレス以来、二千年を越える封印、タブーの解消 - ゼロ除算
一般向きにゼロ除算の解説を 4年間を越えて続けている:
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える。
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える。
しかるに 2018.8.11.11:20 突然に全体の構想が湧いてきた。 そこで、できるだけその忠実な表現を試みたい。 その主旨は 声明の題名の通りであるが、その説明を述べたい。
ゼロで割る問題、ゼロ除算は歴史家の分析によれば、最初に考えたのはアリストテレスで、物理的な意味から真空の比、ゼロ除算は不可能であると述べ その後の西欧文化に大きな影響を与えたと言う。狭義ではゼロの発見と算術の発見者Brahmagupta (598 -668 ?)がゼロ除算0/0 を考え、その後1300年を越えて、ゼロ除算は議論されてきたが、 現在でも未明の状態と考えられる。ゼロ除算は2014.2.2発見されて論文などにも公表されているが、そのあまりにも永い歴史のゆえに 中々認知されない状況が続いている。それが殆ど当たり前のことなのに、拒否、受け入れられない状況が続いている。最近も誤解を解消すべく解説をしている:
再生核研究所声明 434 (2018.7.28) : ゼロ除算の誤解と注意点
再生核研究所声明 437 (2018.7.30) : ゼロ除算とは何か - 全く新しい数学、新世界である
再生核研究所声明 438(2018.8.6): ゼロ除算1/0=0/0=z/0=\tan(\pi/2)=0 の誤解について
そこで、タブーの理由を考察して置きたい。ゼロ除算の結果を複数のヨーロッパの数学者に直接話したときに、アリストテレスの名前をあげて、異様に感情むき出しで拒否されたのは 強力な体験である。表情をサッと変えられた方も結構居た。そのような話しは聞きたくないという強い意志表示であるから、単に数学の話しをしているようには 感じられないものである。それも20年来の友人たちの間での出来事である。背後には永く深いギリシャ文化の影響、無やゼロ、空を嫌う文化背景、無神論を発想しているような 深い拒否反応である。 日本でもゼロで割ってはいけないは永い伝統であるから 受け入れられないは あるが、ゼロについての不愉快な気持ちは 零点や消えること、無くなることなど 不愉快な気持ちが強いようである。
数学的には 簡単にゼロ除算は不可能であることが証明されてしまう事実と共に1/0 は 無限大のようなものであるとの確信が深いためであろう。それがゼロであると言われて天地が ひっくり変える様な驚きを感じるだろう。実際、基本的な関数y=1/x を考えて、xが小さく成っていく時、yの値がどんどん大きく発散している様子を思い浮かべるだろう。アリストテレスの世界観 連続性に反するので、そのような突飛なことは認められないと考えられてきた。そこで、ゼロ除算は 有る意味では神秘的な対象 になってしまう。実際ゼロ除算は、神秘的な問題と考えられてきた。
現在でも、インターネットの世界でもそのような扱いになっている。
永いタブーの理由は、無、ゼロ、空などの忌み嫌う感情、世の連続性に拘るギリシャ文化の強い影響、数学的に明解な 不可能であることの証明 があるためではないだろうか。実際には、最も簡単な方程式 ax =b の解として、分数b/a, 割り算を考えれば、有名なMoore-Penrose一般逆で 解は何時でも一意に存在して 1/0=0 であることは相当に基本的な考えて ゼロ除算は当たり前の周知の筈と考えられるが、上記の永い伝統、思い込みで それらは受け入れられず、沢山の意味付けや例を示されても、中々理解されない状況が続いていると考えられる。しかしながら、ゼロ除算は発見後3週間くらいで、ゼロ除算は割り算の意味から当たり前であるとの道脇親娘(当時6歳)の言明は誠に興味深い。
以 上
再生核研究所声明 394(2017.11.4): ゼロで割れるか ― ゼロで割ったらユークリッド以来の新世界が現れた
ゼロで割る問題は、ゼロ除算は Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスはゼロ除算の不可能性を述べていたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べている。
まずゼロで割れるか否かの問題を論じるとき、その定義をしっかりすることが大事である。 定義をきちんとしないために空回りの議論をしている文献が大部分である。何十年も超えて空回りをしている者が多い。割れるとはどのような意味かと問題にしなければならない。 数学界の常識、割り算は掛け算の逆であり、az =b の解をb割るaと定義し、分数b/a を定義すると考えれば、直ちにa=0の場合には、一般に考えられないと結論される。それで、ゼロ除算は神でもできないとか神秘的な議論が世に氾濫している。しかしながら、この基本的な方程式の解が何時でも一意に存在するように定義するいろいろな考え方が存在する。有名で相当な歴史を有する考え方が、Moore-Penrose一般逆である。その解はa=0 のとき、ただ一つの解z=0 を定める。よって、この意味で方程式の解を定義すれば、ゼロ除算 b/0, b割るゼロはゼロであると言える。そこで、このような発想、定義は自然であるから、発見の動機、経緯は違うが、ゼロ除算は可能で、b/0=0 であると言明した。Moore-Penrose一般逆の自然性を認識して、ゼロ除算は自明であり、b/0=0 であるとした。
それゆえに、神秘的な歴史を持つ、ゼロ除算は 実は当たり前であったが、現在でもそうは認識されず混乱が続いている。その理由は、関数 W = 1/z の原点での値をゼロとする考えに発展、適用するとユークリッド以来、アリストテレス以来の世界観の変更に繋がるからである。1/0は無限大、無限と発想しているからである。実際、原点の近くは限りなく原点から遠ざかり、限りなく遠くの点、無限の彼方に写っている歴然とした現象か存在する。しかるに 原点が原点に写るというのであるから、これらの世界観は ユークリッド空間、アリストテレスの世界観に反することになる。それゆえに Moore-Penrose一般逆は一元一次方程式の場合、意味がないものとして思考が封じられてきたと考えられる。
そこで、この新しい数学、世界観が、我々の数学や世界に合っているか否かを広範囲に調べてみることにした。その結果、ユークリッドやアリストテレスの世界観は違っていて、広範な修正が必要であることが分った。
そこで、次のように表現して、広く内外に意見を求めている:
Dear the leading mathematicians and colleagues:
Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1
-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40)
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:
数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学
www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdfDOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
再生核研究所声明296(2016.05.06) ゼロ除算の混乱
ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:
再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める
我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。
以 上
考えてはいけないことが、考えられるようになった。
説明できないことが説明できることになった。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
天才ガウスは生存中に既に数学界の権威者として高い評価と名声を得ていた。ところが、2000年の伝統を有するユークリッド幾何学とは違った世界、非ユークリッド幾何学を発見して密かに研究を進めていた。この事実を繰り返し気にしてきたが、ガウスは結果を公表すると 世情か混乱するのを畏れて公表をためらい、密かに研究を続けていた。ガウスの予想のように、独立に非ユークリッド幾何学を発見、研究を行って公表した、数学者ロバチェスキー と若きヤーノス・ボヤイは 当時の学界から強い批判を受けてしまった。
ガウスの心境は、十分にやることがあって、名声も十分得ている、ここで騒ぎを起こすより、研究を進めた方が楽しく、また将来に遺産を沢山生産できると考えたのではないだろうか。現在の状況より、歴史上に存在する自分の姿の方に 重きが移っていたのではないだろうか。
このような心理、心境は研究者や芸術家に普遍的に存在する未来に生きる姿とも言える。いろいろな ちやほや活動、形式的な活動よりは 真智への愛に殉じて、余計なことに心を乱され、時間を失うのを嫌い ひたすらに研究活動に励み、仕事の大成に心がける、未来に生きる姿といえる。
しかしながら、この未来に生きるは 実は当たり前で、生物の本能であることが分る。世に自分よりは子供が大事は 切ない生物の本能である。短い自己の時間より、より永い未来を有する子供に夢を託して、夢と希望を抱いて生きるは 生物の本能の基本である。生物は未来、未来と向かっているとも言える。
そこで、ゼロ除算が拓いた新しい世界観に触れて置きたい。未来、未来と志向した先には何が有るだろうか。永遠の先が 実は存在していた。それは、実は始めに飛んでいた。
そこから物語を始めれば、実はまた 現在に戻り、未来も過去も同じような存在であると言える。- これは、現在は未来のために在るのではなく、未来も現在も同じようなものであることを示している。
現在は 過去と未来の固有な、調和ある存在こそが大事である。将来のためではなく、現在は現在で大事であり、現在を良く生きることこそ 大事である。ガウスについていえば、ちょうどよく上手く生きたと評価されるだろう。- ただ人生を掛けて非ユークリッド幾何学にかけた若き数学者の研究を励まさず、若き数学者を失望させたことは 誠に残念な偉大なる数学者の汚点であることを指摘しなければならない。
以 上
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