篠原涼子らが演じるドラマの中の「ロスジェネ」女性
前回は、男性のロスト・ジェネレーションについて書いた。ロスジェネとは1972年生まれから1982年生まれの、就職氷河期に大学を卒業し新卒となった世代のことを言う。この10年の間に生まれた、いわゆる現在のアラフォー女優たちも、ドラマの世界で活躍中である。また、朝ドラでヒロインの母親をそろそろはじめるのが、ロスジェネの一番上の世代である。
そんなこの世代の女優たちの中でも、もっともこの世代の女性の在り方を演じているのが篠原涼子だと言ってもいいのではないか。彼女もまた、ロスジェネの「こんなはずじゃなかった」という状態に陥った⼥性の「冴えない」生き方を演じていると言っていいだろう。
○「ロスジェネ」女性の"冴えない"はどう描かれる?
ロスジェネの女性主人公の「冴えない」とは、どんな状態を指すのだろうか。例えば2013年の『ラスト・シンデレラ』で篠原涼子は、彼氏いない歴10年、ある日鏡を見たら、あごに一本の髭が生えていたという美容室の副店長を演じている。職業だけを見ていくと、2009年の『働くゴン!』ではシングルマザーの報道記者を、2015年の『オトナ女子』では大手アプリ会社のOLを演じている。
これを見て思うのは、男性であれば、仕事で成功したと言えないことが「冴えない」の条件になる。前回ふれた大泉洋や峯田和伸の役柄も、仕事で成功しているとはいいがたいことが、彼らが「冴えない」ということを表していた。しかし女性の場合は、むしろ仕事をバリバリしていることが、「冴えない」に結びつくことが多いということだ。
ドラマの中の彼女たちは、仕事もバリバリ、友達もいる、おしゃれだってそこそこ頑張っている(『ラスト・シンデレラ』ではそうでもないが)。それなのに、恋愛や愛情面だけが充実していないというキャラクターが多く、それが「冴えない」こととして描かれる。社会が男性と女性の「冴えない」に、違う価値観を当てはめているということがわかる。
ではなぜ女性は「仕事ができる」と「冴えない」ことに繫がるのか。それは、ロスジェネの女性にとっての「こんなはずじゃなかった」のひとつが、「未婚」であるということと直結しているとみなされているからではないだろうか。男性キャラだって未婚であることは「冴えない」条件のひとつであるが、男性キャラの場合は、「仕事で満足していない」ことと「未婚」が直結していて、むしろ「仕事で満足していない」ことが男性にかけられた特有の呪いでもあるのだ。対して女性は、「仕事で満足している」からこそ「未婚」が直結していて、「仕事ばっかりしている」ことに呪いがかけられることが多い。
ロスジェネは就職氷河期に新卒で、正社員の数も少ないということが問題であるのだが、女性の場合は、もっと複雑だ。そもそも、ロスジェネよりひと世代上の女性たちは、雇用機会均等法第一世代と呼ばれ、働き続ける女性と、家庭に入る女性とに二分され、前者は少なく特別であった。ロスジェネの場合は、正社員でなくても派遣社員などで働き続ける環境が整い(というよりも、働き続けないと生きていけない状況になり)、どちらかを選ばなくとも生きていけるようになった。そうなると、仕事も家庭も趣味も……と、全部手に入れられるようになった分、ひとつでも欠けていると、それが「冴えない」に繫がってしまうのだ。
○「こんなはずじゃなかった」状況からの行動
では、フィクションの中のロスジェネの女性たちは「こんなはずじゃなかった」状況に陥ったとき、どんな行動をとるのだろうか。
『ラスト・シンデレラ』では、仕事はできるが、後輩たちからは「説教おやじ」と裏で陰口をたたかれ、合コンに行こうにも、ほとんど服を持っておらず、就職活動のリクルートスーツで出かけ、しかも、雨の中、知り合いのご婦人を助けようとして服を濡らしてしまい、そのご婦人が貸してくれた、何十年も前のクラシック……と言えば聞こえはいいが、時代遅れの服装で会場に向かうことになる。踏んだり蹴ったりの悲惨な状況だ。
前回にも書いた大泉洋主演の映画『青天の霹靂』であれば、「冴えない」主人公が、仕事帰りにスーパーで安く購入したホットドッグを食べようとするも、そこでソーセージだけを地面に落としてしまい、それを洗って食べようとするときに、電話がなり、長年会っていなかった父親の訃報を知る。その踏んだり蹴ったりのシーンで、「腐る」しかない主人公の境遇が十分に伝わってくるのだが、篠原涼子のように、女性の場合は、踏んだり蹴ったりでも「腐る」ことすら許されたことを見たことがない。
女性はつらいことがあったとき、誰かに頼りたい守られたいと望む物語は許されても(それ自体、男性には選択肢にないことで、男性のほうが損だと考える人もいるだろうが、選択肢のなさもまた社会の構造が作った呪いだ)、やさぐれて世を恨んだり、自暴自棄になって、世間との交流を絶ったりという描写はほとんど見られない。
そこで代わりに用意されているのは、「こんな悲惨な私だけど、明るく健気に生きているのよ」と自分を低く見せることで自衛し、自虐して生きる道か、そうでなければ、「こんなあたしだけど、磨けば今からでも光るのよ」と前向きに奮起して変身し、白馬に乗った王子様とまではいかないが、近くにいてケンカばかりしていたが、ひそかにお互いが思いを寄せていて、自分のことを実はなんでもわかってくれる都合の良い同年代の男性に救われるという展開である。
このなんでもわかってくれる同世代の男性役を一手に引き受けているのが、藤木直人だと断定しても良いくらいだ。ロスジェネの身近な王子様は「冴えない」男性ではいけないからだろう(だからこそ、本人は「冴えない」役を演じたいと思っているかもしれないが)。
藤⽊直⼈は、『ラスト・シンデレラ』では、篠原涼⼦にとっての同世代の王⼦様役を演じ、年下の王子とともに、どちらが篠原を救うのか、最後の最後まで、どうなるかとハラハラさせた。またロス・ジェネの女優として、篠原と同様、主演作品も多い中谷美紀がヒロインを演じる『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』でも、やはり40歳目前にして独身のヒロインの近くにいて、いつもは喧嘩ばかりしているが、実は……という王⼦様を演じている(もちろん、ここにも年下王子のライバルがいる)。そして、この作品の中谷美紀の役もまた、クリニックを開業した医師というバリキャリだが、結婚という面では苦戦しているというキャラクターだ。どんなに美しさを保っていても、恋愛より仕事優先で生きてきた女性は「冴えない」に分類されるのである。
とりあげた作品のように、2010年前半は、ロスジェネ女性の夢の形をひとつの型に落とし込み、無条件に癒やしてくれる年下王子と、同世代で喧嘩しながらも自分の"本当の姿"をわかってくれているロスジェネ王子との間で揺れる物語をおとぎ話のように描き、それを、視聴者たちは⼀⽅的に押し付けられてきた感があった。確かに、ラブコメのヤキモキさせる描写がうまく描けた作品は麻薬のように楽しい。しかし、そんな都合の良い話ばかりではないことは、この世代だからこそ知っている。昨今は、もっとリアルな心の機微を描いた作品を求めているのではないかとも思えるのだ。
○著者プロフィール: 西森路代
ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。テレビブロスで、テレビドラマの演者についてのコラム「演じるヒト演じないトキ」連載中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。
※写真と本文は関係ありません
(西森路代)http://news.nicovideo.jp/watch/nw3730041
そんなこの世代の女優たちの中でも、もっともこの世代の女性の在り方を演じているのが篠原涼子だと言ってもいいのではないか。彼女もまた、ロスジェネの「こんなはずじゃなかった」という状態に陥った⼥性の「冴えない」生き方を演じていると言っていいだろう。
○「ロスジェネ」女性の"冴えない"はどう描かれる?
ロスジェネの女性主人公の「冴えない」とは、どんな状態を指すのだろうか。例えば2013年の『ラスト・シンデレラ』で篠原涼子は、彼氏いない歴10年、ある日鏡を見たら、あごに一本の髭が生えていたという美容室の副店長を演じている。職業だけを見ていくと、2009年の『働くゴン!』ではシングルマザーの報道記者を、2015年の『オトナ女子』では大手アプリ会社のOLを演じている。
これを見て思うのは、男性であれば、仕事で成功したと言えないことが「冴えない」の条件になる。前回ふれた大泉洋や峯田和伸の役柄も、仕事で成功しているとはいいがたいことが、彼らが「冴えない」ということを表していた。しかし女性の場合は、むしろ仕事をバリバリしていることが、「冴えない」に結びつくことが多いということだ。
ドラマの中の彼女たちは、仕事もバリバリ、友達もいる、おしゃれだってそこそこ頑張っている(『ラスト・シンデレラ』ではそうでもないが)。それなのに、恋愛や愛情面だけが充実していないというキャラクターが多く、それが「冴えない」こととして描かれる。社会が男性と女性の「冴えない」に、違う価値観を当てはめているということがわかる。
ではなぜ女性は「仕事ができる」と「冴えない」ことに繫がるのか。それは、ロスジェネの女性にとっての「こんなはずじゃなかった」のひとつが、「未婚」であるということと直結しているとみなされているからではないだろうか。男性キャラだって未婚であることは「冴えない」条件のひとつであるが、男性キャラの場合は、「仕事で満足していない」ことと「未婚」が直結していて、むしろ「仕事で満足していない」ことが男性にかけられた特有の呪いでもあるのだ。対して女性は、「仕事で満足している」からこそ「未婚」が直結していて、「仕事ばっかりしている」ことに呪いがかけられることが多い。
ロスジェネは就職氷河期に新卒で、正社員の数も少ないということが問題であるのだが、女性の場合は、もっと複雑だ。そもそも、ロスジェネよりひと世代上の女性たちは、雇用機会均等法第一世代と呼ばれ、働き続ける女性と、家庭に入る女性とに二分され、前者は少なく特別であった。ロスジェネの場合は、正社員でなくても派遣社員などで働き続ける環境が整い(というよりも、働き続けないと生きていけない状況になり)、どちらかを選ばなくとも生きていけるようになった。そうなると、仕事も家庭も趣味も……と、全部手に入れられるようになった分、ひとつでも欠けていると、それが「冴えない」に繫がってしまうのだ。
○「こんなはずじゃなかった」状況からの行動
では、フィクションの中のロスジェネの女性たちは「こんなはずじゃなかった」状況に陥ったとき、どんな行動をとるのだろうか。
『ラスト・シンデレラ』では、仕事はできるが、後輩たちからは「説教おやじ」と裏で陰口をたたかれ、合コンに行こうにも、ほとんど服を持っておらず、就職活動のリクルートスーツで出かけ、しかも、雨の中、知り合いのご婦人を助けようとして服を濡らしてしまい、そのご婦人が貸してくれた、何十年も前のクラシック……と言えば聞こえはいいが、時代遅れの服装で会場に向かうことになる。踏んだり蹴ったりの悲惨な状況だ。
前回にも書いた大泉洋主演の映画『青天の霹靂』であれば、「冴えない」主人公が、仕事帰りにスーパーで安く購入したホットドッグを食べようとするも、そこでソーセージだけを地面に落としてしまい、それを洗って食べようとするときに、電話がなり、長年会っていなかった父親の訃報を知る。その踏んだり蹴ったりのシーンで、「腐る」しかない主人公の境遇が十分に伝わってくるのだが、篠原涼子のように、女性の場合は、踏んだり蹴ったりでも「腐る」ことすら許されたことを見たことがない。
女性はつらいことがあったとき、誰かに頼りたい守られたいと望む物語は許されても(それ自体、男性には選択肢にないことで、男性のほうが損だと考える人もいるだろうが、選択肢のなさもまた社会の構造が作った呪いだ)、やさぐれて世を恨んだり、自暴自棄になって、世間との交流を絶ったりという描写はほとんど見られない。
そこで代わりに用意されているのは、「こんな悲惨な私だけど、明るく健気に生きているのよ」と自分を低く見せることで自衛し、自虐して生きる道か、そうでなければ、「こんなあたしだけど、磨けば今からでも光るのよ」と前向きに奮起して変身し、白馬に乗った王子様とまではいかないが、近くにいてケンカばかりしていたが、ひそかにお互いが思いを寄せていて、自分のことを実はなんでもわかってくれる都合の良い同年代の男性に救われるという展開である。
このなんでもわかってくれる同世代の男性役を一手に引き受けているのが、藤木直人だと断定しても良いくらいだ。ロスジェネの身近な王子様は「冴えない」男性ではいけないからだろう(だからこそ、本人は「冴えない」役を演じたいと思っているかもしれないが)。
藤⽊直⼈は、『ラスト・シンデレラ』では、篠原涼⼦にとっての同世代の王⼦様役を演じ、年下の王子とともに、どちらが篠原を救うのか、最後の最後まで、どうなるかとハラハラさせた。またロス・ジェネの女優として、篠原と同様、主演作品も多い中谷美紀がヒロインを演じる『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』でも、やはり40歳目前にして独身のヒロインの近くにいて、いつもは喧嘩ばかりしているが、実は……という王⼦様を演じている(もちろん、ここにも年下王子のライバルがいる)。そして、この作品の中谷美紀の役もまた、クリニックを開業した医師というバリキャリだが、結婚という面では苦戦しているというキャラクターだ。どんなに美しさを保っていても、恋愛より仕事優先で生きてきた女性は「冴えない」に分類されるのである。
とりあげた作品のように、2010年前半は、ロスジェネ女性の夢の形をひとつの型に落とし込み、無条件に癒やしてくれる年下王子と、同世代で喧嘩しながらも自分の"本当の姿"をわかってくれているロスジェネ王子との間で揺れる物語をおとぎ話のように描き、それを、視聴者たちは⼀⽅的に押し付けられてきた感があった。確かに、ラブコメのヤキモキさせる描写がうまく描けた作品は麻薬のように楽しい。しかし、そんな都合の良い話ばかりではないことは、この世代だからこそ知っている。昨今は、もっとリアルな心の機微を描いた作品を求めているのではないかとも思えるのだ。
○著者プロフィール: 西森路代
ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。テレビブロスで、テレビドラマの演者についてのコラム「演じるヒト演じないトキ」連載中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。
※写真と本文は関係ありません
(西森路代)http://news.nicovideo.jp/watch/nw3730041
慣性の法則によれば、同じような生活を送っていると、この状況はどのような意味を有するのだろうかと ある種の不安とともに感じることがある。人間とは何者で、人生とは何だろうかと同じような問いを繰り返していると言える。まず、基本は 人間は作られた存在だから、作られたように生きる他はない。人間は生物、そして動物であるから、それらの要求を満たしたいと考えるのは 当然である。 衣食足りて礼節を知る、恒産無ければ恒心なしも当然である。すなわち、生活や家庭内などの生活が相当に良い状況の中、さらに 自由な身になった場合に人間は何を志向するだろうか。 人間は何をしたいと思うだろうか。人間は多様で志もいろいろであるから、それらによって具体的な取り組みは 人によって違うが、心はみな通じて、 良い思い、感動するようなことを志向するだろう。人生の基本定理、人生の意義は感動することにある。そこで良い感動が続くのは望ましいと考え、 その素は何だろうかと考えれば、人は世の名人や偉人の心構え、 人生観、人生から多くを学ぶことができるだろう。そこで一芸に秀でたものの共通の心を理解し、共感、共鳴を覚え、普遍的なものを捉えられるだろう。 そこで、 人間とは何ものかと高次に捉えることができるだろう。
人間は何を求めているのか。最近 一様にゼロ除算の研究にはまっているが、どのような時に鋭い感動と喜びが湧いてくるだろうか。共同研究者の奥村氏やPuha氏が想像もできないような新規な結果をメールで送って来た時など激しい喜びが湧いて来る。そう新規な世界に触れるとき人間の人間的な歓びが湧いて来るのでは ないだろうか。もちろん自分で考えが湧いたときも同様であり、ようするに新規な世界に触れたとき人間は大きな 喜びが湧いてくる存在ではないだろうか。 そこで人生の基本定理に対して、人の生きるは 真智への愛にある、真智とは 神の意志のことであると表現した。 要するに、真実が知りたい、本当のことが 知りたい、世界を知りたい それが 人間の 究極の意志、喜びでは ないだろうか。
ゼロ除算を表現すれば、 人は それは何だと、驚き、とても信じられない、そのような数学はたとえ正しくても、興味も関心も持たない。一切興味や関心はないので、関わりたくない。 話しにもならず、関わりたくもない。 興味も関心も無い と言明されてしまえば、もはや絶交状態に陥ってしまう。 要するに全然だめで、一切関心が無いということである。それが、最も近い人たちから、そのような態度をとられたので、大丈夫か、大丈夫かどうしてかと反芻し、また共同研究者たちと検討を重ねてきている。 誠に奇妙な事実は、仲間内では 自明当たり前のことが 何年と一切拒否の姿勢が一部に続いていることである。それはなぜかと問い、理解を進める努力を広範に行っているのは 当然である。 そこで、 最近 次のような声明も公表している。
再生核研究所声明 430(2018.7.13): 古典的なリーマン球面に代わるHorn Torusの出現について
再生核研究所声明 431(2018.7.14): y軸の勾配はゼロである - おかしな数学、おかしな数学界、おかしな雑誌界、おかしなマスコミ界?
再生核研究所声明 432(2018.7.15): 無限に広がった平面を捉える4つの考え方
Announcement 433 (2018.07.16): Puha's Horn Torus Model for the Riemann Sphere From the Viewpoint of Division by Zero
再生核研究所声明 434 (2018.7.28) : ゼロ除算の誤解と注意点
再生核研究所声明 436 (2018.7.30) : 数学教育の原理 ― 省察と改善
再生核研究所声明 437 (2018.7.30) : ゼロ除算とは何か - 全く新しい数学、新世界である
声明434で、ゼロ除算誤解の理由が究明されたように ハット気づいたことがある。それは、数学の原理について述べているが、入り口、表題でゼロ除算を完全に拒否されてしまえば、内容や解説など興味を抱かないのだから、いくら説明しても関心をもってもらえず、何時まで経っても理解は進まないことになる。始めから、門前払いである。そのような態度をとる方は 世に多いと言える。最初の論文で100/0を論文の表題に書いたのは、100/0の意味を与える論文であることを簡潔に宣言するためであった。 ― 真面目に考える人は、100/0 の意味を考えるのなら、それは 何だろうか と興味や関心を抱いて欲しいと考えた。1/0=0/0=z/0=\tan(\pi/2)=0 などがアブストラクトなどにあれば、それは何だろうか と考えて欲しいと考えた。それらが全然自分達の考えと違っているから、話す機会も与えず、一切関わりたくないでは 真理を追究する研究者の姿勢としては 初歩的な精神の過ちに当たると考える。
しかしながら、 - これは全然間違った変な数学を論じている 変な人の発表である、と発表者の人格を、信用できない者でも、きちんと真相を求める姿勢は 大事であると考える。 新規な現象や変な意見こそ、尊重されるべきである。それは、自分たちの世界と違った世界を紹介しているからである。 確かにゼロ除算は 暗い永い歴史を有していて、大体世界で 20名くらい関与している人たちがいるが、ほとんどはおかしく、 論理も通じず、自己矛盾に陥っている者が多い。 その様な前例で、直ちに無視の姿勢に至った経緯も強く感じられる。しかしながら、ゼロ除算の理解を求める鍵を得た と感じてきた。
想像もできない変な数学が現れた。変な世界が現れてきた。 実は世界史でそのような事件が起きていた。約200年前、2000年間 永遠の学として栄えてきた絶体数学 ユークリッド幾何学に対して、平行線が無限に存在する幾何学が 考えられ、非ユークリッド幾何学が現れた。 その時人は、思ったのではないだろうか。 そのような数学は、たとえ正しくても興味も、関心も一切持たないと。全く新規な世界の出現である。それも2000年も続いた数学に反する数学の、新世界の出現である。 それゆえ世の理解を得るには 相当な期間が掛かったものと考えられる。
ゼロ除算の結果は 非常に似たような現象であると言える。 伝統で言えば、アリストテレス、 ブラーマグプタ以来、2400年来、1300年以来の結果であり、さらに天才的な数学者たちの築いてきた数学界の定説を全く覆す結果を述べているからである。超古典的なユークリッド幾何学と違った全く異なる新規な空間を示している。
数学的な原理としては、従来数学が 孤立特異点の周りで解析関数を考えて、孤立特異点での考察を一切行って来なかったところ、ゼロ除算は 孤立特異点そのところで解析関数を考えようとするのだから、全く新規な世界における新規な数学である。 ところが、それは初等数学全般に大きな影響を与え 不完全な現代数学の基本的な欠陥を指摘している。 典型的な結果が \tan(\pi/2)=0で、 y軸の勾配はゼロであるとの結果をもたらし、 それは、初等数学全般に影響を与えるばかりか、 ユークリッド以来の我々の空間の認識、世界観を変える内容を有している。 ゼロ除算の発見は、 非ユークリッド幾何学の発見のような 大きな世界観の変更をもたらすだろう。
再生核研究所声明290(2016.03.01) 神の隠し事、神の意地悪、人類の知能の程
オイラーの公式 e^{pi i}= -1 は最も基本的な数、-1, pi, i, eの4つの数の間の簡潔な関係を確立させているとして、数学とは何かを論じて、神秘的な公式として、その様を詳しく論じた(No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。)。
余りにも深い公式なので、神の人類に対する意地悪かと表現して、神は恥ずかしがり屋で、人類があまりに神に近づくのを嫌がっているのではないかと発想した。
ここ2年間、ゼロ除算を発見して、ゼロ除算の実在性は確信できたが、ゼロ除算の神秘的な歴史(再生核研究所声明287(2016.02.13)神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算)とともに、誠に神秘的な性質があるので その神秘性に触れたい。同時に これを未解決の問題として世に提起したい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。天才オイラーの無限であることの証明とその誤りを論じた論文があるが、アーベル、リーマンと継承されて現在に至る。他方極めて面白いのは、アリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインで問題にされ、下記の貴重な言葉が残されている:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
現在、ゼロ除算の興味、関心は 相対性の理論との関係と、ゼロ除算が計算機障害を起すことから、論理の見直しと数体系の見直しの観点にある。さらに、数学界の難問、リーマン予想に関係していると言う。
ゼロ除算の神秘的な歴史は、早期の段階で ゼロ除算、割り算が乗法の逆で、不可能であるとの烙印を押され、確定的に、 数学的に定まった と 人は信じてしまったことにあると考えられる。さらに、それを天才達が一様に保証してきたことにある。誠に重い歴史である。
第2の要素も、極めて大事である。アリストテレス以来、連続性で世界を考える が世界を支配してきた基本的な考え方である。関数y=1/x の原点での値を考えるとき、正方向、あるいは 負方向からゼロに近づけば、正の無限や負の無限に近づくのをみて、ゼロ除算とは無限の何か、無限遠と考えるのは極めて自然で、誰もがそのように考えるだろう。
ところが、結果はゼロであるというのであるから、驚嘆して、多くの人は それは何だと顔さえしかめたものである。しばらく、話さえできない状況が国際的にも一部の友人たちの間でも1年を超えても続いた。 そこで、最近、次のような文書を公表した:
ゼロ除算についての謎 ― 神の意思は?:
ゼロ除算は数学的な真実で、我々の数学の基本的な結果です。ところが未だ、謎めいた現象があり、ゼロ除算の何か隠れた性質が有るように感じます。それはギリシャ、アリストテレスの世界観、世の連続性を否定し、強力な不連続性を表しています。強力な不連続性は普遍的に沢山あることが分かりましたが、肝心な次の等角写像での不連続性が分かりません:複素関数
W = z+ 1/z
は 単位円の外と内を [-2,+2] を除いた全複素平面上に一対一上へ等角に写します。単位円は[-2,+2]を往復するようにちょうど写ります。単位円が少しずれると飛行機の翼の断面のような形に写るので、航空力学での基本関数です。問題は、原点が所謂無限遠点に写っているということです。ところがゼロ除算では、無限遠点は空間の想像上の点としては考えられても、数値では存在せず、数値としては、その代わりに原点ゼロで、それで原点に写っていることになります。それで強力な不連続性を起こしている。
神が、そのように写像を定めたというのですが、何か上手い解釈が有るでしょうか?
神の意思が知りたい。
2016.2.27.16:46
既に 数学における強力な不連続性は 沢山発見され、新しい世界観として定着しつつあるが、一般の解析関数の孤立特異点での確定値がどのような意味があり、なぜそのような不連続性が存在するのかは、神の意思に関わることで、神秘的な問題ではないだろうか。 神秘の世界があることを指摘して置きたい。
以 上
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:
論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。
直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday
詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
以 上
何故ゼロ除算が不可能であったか理由
1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
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