『顔真卿 王羲之を超えた名筆』報道発表会レポート 悠久の時代を超えて輝き続ける書の魅力、「かたちを超えたオーラ」に出会う
2019年1月16日(水)~2月24日(日)の期間、東京・上野の東京国立博物館 平成館で、特別展『顔真卿 王羲之を超えた名筆』が開催される。
中国・唐時代、26歳で官吏になり、玄宗皇帝をはじめとして4代にわたる皇帝に仕え、書の大家の成果を受け継ぎつつも独自の筆法を編み出した顔真卿。本展は唐時代の書全体を取り上げながら、顔真卿の諸作品、とりわけ名作と呼び声高い《祭姪文稿》を紹介するものだ。また、顔真卿が後世に与えた影響や、日本における唐時代の書の受容にも着目した、彩り豊かな内容である。東京国立博物館で開催された報道発表会の内容をお届けしよう。
王羲之と顔真卿 燦然と輝く傑作
東京国立博物館 副館長 井上洋一氏
報道発表会では、まず東京国立博物館 副館長 井上洋一氏が挨拶し、本展のタイトルについて言及した。『顔真卿 王羲之を超えた名筆』というタイトルの副題「王羲之を超えた名筆」については、顔真卿は卓越した書家ではあるが、日本での知名度はやや低いため、王羲之の名を入れることで顔真卿の素晴らしさを際立たせるという狙いがあったそうだ。そして展示の目玉は、顔真卿の書《祭姪文稿》であると強調。その上で井上氏は、本展は書の普遍的な美しさと、唐時代の書が果たした役割を明確にするものであると述べた上で、「悠久の時代を超えて輝き続ける書の魅力を知ってほしい」と熱弁した。
東京国立博物館 学芸企画部長 富田淳氏
続いて学芸企画部長の富田淳氏が登壇。富田氏はまず、近年開催された書に関する展覧会の紹介から話しはじめた。書の展示は、2013年に東京国立博物館で実施された特別展『書聖 王羲之』を皮切りに、2016年に大阪市立美術館の『王羲之から空海へ』、2018年の九州国立博物館の『王羲之と日本の書』と続いており、いずれも王羲之が関連していた。
千福寺多宝塔碑 顔真卿筆 唐時代・天宝11載(752) 東京国立博物館蔵
『顔真卿 王羲之を超えた名筆』が開催となったきっかけのひとつは、2013年の東京国立博物館での『書聖 王羲之』展閉幕後、関係者が唐時代の書の素晴らしさに感嘆したためだという。顔真卿の《祭姪文稿》は、歴史に名高い王羲之の《蘭亭序》に匹敵するとされている。《蘭亭序》は誰もが認める名品であるが、これは唐時代の人が臨書したものである。一方、顔真卿の《祭姪文稿》は現存している作品だ。富田氏は《祭姪文稿》を、「書の力そのものを、より身近に、より生き生きと感じられる」と評した。
3つの見どころ―義憤に満ちた《祭姪文稿》の熱量―
本展の見どころは、「楷書の美しさを徹底分析」する点、「《祭姪文稿》の魅力に迫る」点、「王羲之神話の崩壊をたどる」の3点とのことだ。まず、「楷書の美しさを徹底分析」においては、三井記念美術館が収蔵する名品のほか、前世紀に発見された非常に貴重な唐の肉筆楷書である敦煌文書も紹介されるという。
続く「《祭姪文稿》の魅力に迫る」に関し、富田氏が製作した《祭姪文稿》を主題に扱う号外「露華通信」が報道発表会の場で配布された。時は755年、中国の玄宗皇帝の治世、安禄山と史思明の手により安史の乱が起こった。顔真卿はいち早く反乱軍を抑えようとしたが、王承業が手柄を横取りしようと企て、そのために顔真卿は身内の人間を惨殺された。《祭姪文稿》は、顔真卿の従兄の顔杲卿の末子である顔季明を追悼するために書かれた弔文の草稿である。
祭姪文稿(部分) 顔真卿筆 唐時代・乾元元年(758) 台北 國立故宮博物院蔵
《祭姪文稿》は234文字だが、顔真卿は書きながら感情を抑えられなかったのだろう、誤字の訂正や脱字をした箇所が16にも及んでいる。書き出しは静かな書きぶりだが、中盤、王承業の企てにより救援がなく、顔季明が殺害された旨を語る部分にさしかかると感極まったのか、誤りが多くなっている。書き手の義憤と悲哀に満ちたこの作品は、字形を超えた力を持ち、見る者を顔真卿の熱い情念に巻き込むだろう。
現在、台北の國立故宮博物院にある《祭姪文稿》は、貴重な唐時代の書の中でも、歴代皇帝の庇護を受けて後世に残りえた至宝である。同博物院では、3年に1度しか公開されない秘蔵の名品である。日本でこの書が紹介されるのは初めての機会であり、また海外では、今までに1997年にワシントン・ナショナルギャラリーで紹介されたのみだ。
自叙帖(部分) 懐素筆 唐時代・大暦12年(777) 台北 國立故宮博物院蔵
また、《祭姪文稿》と同様に注目度が高いのが、顔真卿と同じ時代に生きた僧・懐素による《自叙帖》だ。《自叙帖》において縦横無尽に走る文字はエンターテイメント性を持つ一方で、後に書かれた《小草千字文》などの字はよく整って涼やか、いぶし銀のような風情である。懐素の例にみられるように、一人の書家の変遷を発見するのもおもしろいだろう。
小草千字文(部分) 懐素筆 唐時代・貞元15年(799)頃 台北 國立故宮博物院寄託
3番目の「王羲之神話の崩壊をたどる」に関連して、富田氏は、王羲之の書法を学ぶのではなく、青銅器や石碑の文字を学び、野趣のある書風がメインとなっていく19世紀以降の清時代も扱っている旨を説明。顔真卿に学び、最初は顔真卿そっくりの字だったものの、次第に独自の字を見出していく趙之謙など、自由で野趣あふれる書が登場予定であるという。最後に富田氏は「数々の名筆の、『かたちを超えたオーラ』を是非味わってほしい」と熱弁、本展の魅力を強調した。
重要文化財 行書李白仙詩巻(部分) 蘇軾筆 北宋時代・元祐8年(1093) 大阪市立美術館蔵
濃密な展示構成、顔真卿と唐時代の名筆の数々
孔子廟堂碑 虞世南筆 唐時代・貞観2〜4年(628 〜630) 三井記念美術館蔵
本展は以下の6章構成となる。
第1章 書体の変遷
第2章 唐時代の書 安史の乱まで
第3章 唐時代の書 顔真卿の活躍
第4章 日本における唐時代の書の受容
第5章 宋時代における顔真卿の評価
第6章 後世への影響
第2章 唐時代の書 安史の乱まで
第3章 唐時代の書 顔真卿の活躍
第4章 日本における唐時代の書の受容
第5章 宋時代における顔真卿の評価
第6章 後世への影響
九成宮醴泉銘 欧陽詢筆 唐時代・貞観6年(632) 台東区立書道博物館蔵
いずれの章も盛りだくさんの展示内容であるが、とりわけメインと言えるのが第2章と第3章だ。618年に始まる唐という時代は、安史の乱を境に混迷を極めていく。そして王羲之の伝統に倣って確立された厳密な書法に基づいていた書は、顔真卿が活躍した時代辺りから自分の気持ちを盛り込むことを肯定するようになり、書風のスタンダードも変遷していくのである。
雁塔聖教序 褚遂良筆 唐時代・永徽4年(653) 東京国立博物館蔵
顔真卿の肉筆は、北京の故宮博物院や台北の國立故宮博物院、そして日本の書道博物館などに分散しているほか、個人で所蔵されているものもあり、世界中を見渡しても10点に満たない。今後日本で見られる機会は稀であろうことが予想されるだけに、この機会を逃さずに足を運びたい。また、書家によるトークや記念講演会が企画されるなど、イベントも充実している。2019年の新年を迎える時期、特別展『顔真卿 王羲之を超えた名筆』で、書の神髄と字から滲み出る情念に触れてみてはいかがだろう。
国宝 金剛般若経開題残巻(部分) 空海筆 平安時代・9世紀 京都国立博物館蔵
黄絹本蘭亭序(部分) 褚遂良筆 唐時代・7世紀 台北 國立故宮博物院寄託http://music-book.jp/video/news/news/196009
ゼロ除算の発見は日本です:
∞???
∞は定まった数ではない・・・・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:
とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所
ゼロ除算関係論文・本
再生核研究所声明 405(2017.12.31): ゼロ除算が拓いた幾何学の現象 ― 堪らなく楽しい新奇な現象 - デカルトの円定理から
図と式の表現が表しにくいので 簡単に参照されるサイトhttps://arxiv.org/abs/1711.04961
を挙げて その中の図と式を参照して頂いて、ゼロ除算が如何に面白いかを解説したい。
まず、始めにデカルトの円定理と呼ばれる美しい定理を参照して下さい。3つの円が外接するときに、それらに内接したり、外接する円の半径の間の関係を確立した定理です。
式は美しいのですが、表現で4つの半径は、完全に対称になっていることに気づけばさらに 美しさを深く理解できます。
論文の発想は、そもそも、点や直線は円の特別な場合と見なせるという数学を想起して、デカルトの円定理で述べた基の3つの円を 点や直線に置き換えた場合にも成り立つかと問題にしました。 点は半径ゼロの円ですが、直線も半径ゼロの円だということはゼロ除算の結果導かれた発見です。すると、デカルトの円定理の式で、1/0 が出てきますが、それらはゼロと解釈すれば 良いとなります。それで、2つが円で、もう一つが共通接線である場合を考えると、図1-2のようですが、きれいに成り立っていることが分かります。 この辺の定理、事実は和算の得意とする分野で、デカルトの円定理も含めて和算でも広く知られていたということです。3つの円が、点や直線になった場合をすべて考えてみて何時でも成り立てば、デカルトの円定理は 一層美しいと言えます。 あらゆる場合を考えるのですが、2つが円で、一つが点の場合、それらに接する円は存在しないようですので、その場合デカルトの円定理は成り立たないようにみえます。
そこで、点では成り立たないので、小さな円の場合を考えて、その円を点にした場合にどうなるかを考えてみました。どんな小さな円でもデカルトの円定理は成り立っていますから、その小さな円の半径がゼロに近づいた場合を 考えてみるとどうなるかと考えたくなります。
数学的に厳格に議論するために、3つの円と内接円(外接円)をきちんと方程式で書いて議論しました。 円を点にするとき、 円の表現は孤立特異点を有していて、そこでは考えられないというのが 現代数学です。 ゼロ分の式はゼロのところで考えられないからです。 例えば、定理7の円の方程式で、z = 1,-1 の場合が考えられる。そこで、意味のある図形が出てくる。 ゼロ除算算法では孤立特異点で有限確定値を与えることができますので、今まで考えられなかった特異点で考えみました。― 無限の彼方が、特異点に成る場合も多い。その結果、驚嘆すべきことが起きていることが分かりました。(この辺の記述は厳密な表現より情念に思いを入れました)。
その特異点から、点円原点と、赤い円と青い円が出て来ることが分かりました。点がこれらの3つに分かれて出てきたという実に面白い現象です。 原点の場合にはデカルトの定理が成り立ちませんが、赤い円では、何とデカルトの円定理が成り立っていることが、ゼロ除算算法での計算の結果から確認できます。 青い円は美しい状況に置かれた円ですが、それは点に近づけた円が、突然、元の2つの円に外接する、しかもちょうどそれらの円を直径にする円に変形したと解釈すると、ちょうど内接する円が 緑の円で、デカルトの定理が成り立っているという、驚嘆すべき現象です。
点に成って定理が成り立たない場面で、点が突然変異を起こして定理をそのまま成り立たせている現象が現れたと発想すると、この現象は世の一般的な現象における新規な現象として注目すべきではないでしょうか。 見かけ上成り立たない場合、そこが変形して成り立たせる世界が存在する。 ― ものは燃焼で変形する、変形以前のあるものは変形してもそのまま、引き継がれている。意味深長では ないだろうか。― 山根現象を想起して下さい。 ― これは、運動エネルギーが一定であったものが ある時、物質は突然消えて、物質は消えて運動エネルギーが熱エネルギーに変化する現象を表しています。
赤い円は、美しいので、その分野の有名なバーコフの円と呼ばれる円ですが、2つの円に直交していますが、点に近づいていくとき、 円は接していたのですが、出てきた円は接するのではなくて、直交でしょうか。 実に面白いことは ゼロ除算が発見した典型的な結果として、y軸の勾配はゼロ、\tan(\pi/2) =0 ですから、バーコフの円は2つの円に接しているということを述べていますから、 堪らなく楽しいと言えます。― 直交は接していると解釈できるという新発見です。 緑の円は美しく3つの円に接しています。
論文では、あらゆる場合を考えたと述べていますので、3つの円が3つの点でも、3本の直線の場合も考えて、デカルトの定理は成り立っていると述べていますので、さらに面白いです。それには、ゼロの意味を考えてゼロとは何かを発見する必要が有ります。
以 上
再生核研究所声明 406(2018.1.8): アジア不戦条約の提案を ― 批准を ― 丸丸お得な考え、方法
ユークリッド以来、2000年以上我々は間違った空間の認識をし、1300年以上ゼロ除算は不可能であるとの おかしな数学をしていたが、それらが明らかにされた現在、人類の愚かさを知らされて 世界を見ると、誠に動物以下の人間の存在を思い知らされる。― 実は平行線は存在せず、すべての直線は原点を通っていた。実は、1/0=0/0=z/0= tan(pi/2)=0 だった。愚かな争いを続けてきた恥ずかしい世界史。
自国の安全は大事だと、軍拡に走れば、相手は必ず、反作用で応え、軍拡競争は切りがない、これは自明の理である。尖閣諸島で、暗黙の諒解を破って相手を傷つけ、勝手に国有化宣言したら、普通は フォークランド紛争のように、これは宣戦布告のようなものであるから、軍事占領するのが道理であるが、相手の弱味を突いて、得をしたかと思えば、警戒に膨大な経費をかけ、軍事費を増大させる羽目に追い込まれ、結局アジアの愚か者の道(再生核研究所声明 49:アジアの愚か者、アジアの野蛮性)を進んでいる。一発でもロケットを攻撃的に発射すれば、自国は吹っ飛んでしまう現実も見えず、おかしな言動を繰り返している奇妙な国も 未だに存在しているようである。そんなに愚かな動物は居るだろうか。
そこで、ちょっと賢くなって、アジア不戦条約を提案、アジアのいかなる国も自国の軍隊をアジアの国に出さない、攻撃しない、誓いをしたら如何であろうか。そして、軍事費は拡大させず、縮小する方向で努力することを申し合わせる。提案国日本は、核武装すべきところ、せず、 憲法改正すべきところ せず、条約の精神を尊重してともにしないとする。
人類は 宇宙の大きさや将来、初期を考察していたり、美しい文化を有しているのだから、闘争本能丸出しの世界から、公正の原則に従って、相手の立場に思いを致し、明るい、楽しい世界の建設に目を向けるべきである。過去志向ではなくて、恥ずかしい世界史を思い直して、人間らしい世界史を築いていこうではないか。
膨大な軍事費、エネルギーを楽しい方に向けようではないか。- これ、当たり前のことではないだろうか。恥ずかしい世界史、人間の性、そろそろ卒業して、少し、賢くなろうではないか。
これらは、ゼロ除算の間違いと同様、当たり前に見える。
以 上
再生核研究所声明 408(2018.1.25): 数学を越えて ― 価値あるものとは
(ゼロ除算の研究に専念してきた物理学者と興味深い議論をしてきた。 それで気づかされた視点である。)
数学の本質論:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
から、最近でも数学についていろいろな意見を表明してきている:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ゼロ除算の研究者は我々の研究グループを除いて世界で大体15名くらいいて、彼らの研究は今でも混乱していると言える。大きく分けると数学の基礎が無くて、論理が通じず、混乱している数学の愛好者たち、ゼロ除算不可能性に満足できず ― この元は多くは計算機がゼロ除算に会うと計算機障害を起こすが、それを回避することに動機がある ― 公理論的に独自の数学を建設している者、そして物理学上の立場からゼロ除算の研究に取り組んでいる者である。この最後のグループとの相当な議論をして感じたことを述べたい。― 尚、我々の研究グループは、内外大体8名である。ゼロ除算は本質的に解明され、基本は既に確定していると考えている。― 我々の存念を繰り返し内外に広く送っているが、上記グループからも批判が寄せられず、我々の主張を相当理解され、認めてきていると判断している。
特に二人の研究者はゼロ除算と物理学の関係を 人生をかけて、研究しているように見えるほど、研究活動が活発である。ところが繰り返し確認しているが、この二人はゼロ除算の定義、0/0の定義は何かとの質問に 定義はないと繰り返し言明している。それで数学者の立場からは議論はできず、論理的に考えられない状況になってしまう。論理的に矛盾であると言っても自分たちの立場を変えようとしないのである。事実は我々の結果に反して0/0=1 であると物理的な裏付けで主張され、数学がおかしいという考えを抱いていることが分かる。物理的な事実は数学を超えていると考えていることが分かる。多くの数学者はこの辺で交流を打ち切るのが 普通ではないだろうか。- 実際、彼らの理論は数学界でも物理学界でも受け入れられていないようである。
そこで、数学についてそのような視点から考えさせられることがある。いろいろな理論が提起されて、いろいろな結果が導かれる。何をもってそれらを評価し、価値あるものと判断できるかという視点である。公理系や論理も、仮定もいろいろ存在して、様々な研究成果が得られている。ここで、評価をどのようにするかである。ある純粋数学者は人類の名誉のためにこの問題を解いたと表現するが、他の人はそんなことは分からず、また興味も関心もないという。興味、関心の前に 結果そのものが分からないは 今や純粋数学ではほとんどであると言えよう。
数学とは何かを論じ、数学とは関係の集まりであるとして、良い結果とは、
基本的であること、
美しく感動させること、
そして
世の中に良い影響を与えるものとして、
オイラーの公式が数学上の最高の結果であると表現した:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
T. M. Rassias, Editor, Nonlinear Mathematical Analysis and Applications, HadronicPress,Palm Harbor,FL34682-1577,USA:ISBN1-57485-044-X,1998, pp.223–234: Nonlinear transforms and analyticity of functions, Saburou Saitoh.
それで、結局は世界史に貢献できる結果こそが良い結果であると言えよう。
上記物理学者に 理論を越えてそれでは貴方の研究成果の効用、価値はどこにあるのかと 問う。すると反作用で、私たちの研究成果の効用、意義はこうであると応えなければならない。言わば、その証拠を分かり易く、明示する必要がある。- この精神で ゼロ除算の新奇な結果の位置づけ、重要性を説明するために 具体的な証拠を沢山探す必要性に迫られた。
数学者は、数学の自由な精神で自由に研究を進めても良いが、評価を求めるためには得た成果の意義、意味、価値を具体的に示すことが要求されると言える。
そこで、ゼロ除算の重要性を示すために多角的な取り組みを始め、いろいろな表現を考え、意見表明を行っている。数学者の名誉のために、人類の名誉ためにである。― 実際、数学には恥ずかしい初歩的な欠陥があると主張している。さらに、人はゼロ除算の真相から、人間の愚かさを自覚することが出来るから、人間の精神の開放に ゼロ除算は大きく貢献できると考えている。
以 上
再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
数学の本質論については 次で相当深く触れた:
ここでは、現実の問題から、研究姿勢、路線について具体的に考察したい。
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる関係の全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになる. しかし、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、未来人が高い評価を与える場合もある。また、
デカルトの円定理:
定理は3つの外接する円に対して、それらに内接する円と外接する円の半径を、3つの円の半径で表わす公式を与えたものであるが、その公式は美しい形を有している。ところで、円の半径がゼロならば、点円、半径が無限大ならば、直線になると考えられる。後者の解釈については、ゼロ除算算法の導入で、直線とは中心が原点、半径ゼロの円と見なせるという知見をもたらした。点も直線も円の1種であるという考えから、それではデカルトの美しい定理で、円を直線や点の場合にも成り立つかと考えた。ゼロ除算算法で、2つが円で1つが点以外は、そのまま成り立つことが確認され、この例外である場合に、驚嘆すべきことが分った。3つの円が接しているとき、デカルトの定理は成り立っている。そこで、1つを点に近づけ、点に成ったときにデカルトの定理がどうなるかを調べた。点のときは内接円も外接円も存在しないから、デカルトの定理は成り立たないと考えられる。ところが、点に成ったとき、ゼロ除算算法で解析すると、その点は3つの場合に突然、変化する現象が現れた。点以外に、美しい円が2つ現れる。これらの円について、デカルトの定理を成り立たせる解釈が存在することが分った。― 点が変化して、変化した円で、デカルトの定理が成り立っている。専門家 奥村博博士と論文を執筆中である(2017.11.5.6.57)。この予稿版は2017.11.14に公刊された:https://arxiv.org/abs/1711.04961
そこで、次の研究課題として、如何に進めるべきかを考えている。当面研究課題が無い場合には、課題を探すことになる。しかし今回の場合には、次々と研究課題が存在することが分る。まずは、デカルトの円定理、外接する3つの円が、2つ交わった場合、3つ交わった場合どうなるかの問題が存在する。さらに、今回考えたように、その円の幾つかが、点や直線になった場合にはどうなるかの問題がある。それらの研究内容は今回の論文の6倍から、12倍以上の内容が存在することが予想される。数学の常道である多次元化を考えれば、それらはそれらの研究課題は20倍を超える世界で、挑戦すれば、1冊の著書と生涯の仕事に成り得ると考えられる。そこで如何に進むべきかと思案することになる。論文を出版する事が要求されている場合など、特に他に挑戦する課題が無い場合には、とりあえず、それらの大きな計画の最初の2,3歩を歩み出したいと考えるだろう。より良い課題を持っていれば、その課題に当面挑戦したいと成るだろう。その時の価値判断は 純粋な個人の思いと社会的な影響や共同研究者の意見、希望等が影響するものと考えられる。純粋な個人の価値判断と対社会的な反響に影響されることになる。このとき、その個人の数学観、人生観、価値観などが影響を与え、そのような経緯がその個人の数学を発展させていく原理になる。
今回の場合には、ユークリッド幾何学の世界は、やれば何でもできるので もはや興味も、関心もないという考えが基礎にあるが、全く新奇な現象が出ると分かれば、新規な現象になれるまでは、研究を続行したくなるだろう。人間の心とは極めて微妙で やればできるとなれば、大きな魅力は失われ、予想できない難しい分野に心が向く、真智への愛 が目覚めてくる。創造とは何か、生命とは何か、人工知能の発展とともに絶えず問われることになるだろう。人間にとって真に価値あるものとは何か。人間はどのようなものに感動を覚えるか。絶えず問うていくことになる。
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