「新聞崩壊」はたった一年でこんなに進んでしまった
この10年で約1000万部減
新聞の凋落が2017年も止まらなかった。日本新聞協会がまとめた2017年10月現在の新聞の発行部数合計(朝夕刊セットは1部と数える)は4212万8189部と、1年前に比べて115万部減少した。
2007年は5202万8671部だったので、10年で約1000万部減ったことになる。最大の発行部数を誇る読売新聞1紙がまるまる消えた計算になる。
新聞発行部数のピークは1997年の5376万5000部で、2000年以降は前年を上回ったことがなく、2008年あたりから減少率が大きくなっている。
まさにつるべ落としの状態で、2017年は2.7%減と、前年の2.2%減よりも減少率が大きくなり、下げ止まる気配はまったく見えない。
大手新聞社はどうやって発行部数の減少を補おうとしているのか。業界で切り札の1つと目されているのが「電子新聞」だ。形が「紙」から携帯端末やパソコンなどに変わるだけで、「新聞」自体は無くならない、というわけだ。
確かに欧米諸国の大手メディアはいち早く「電子化」を進めた。「ネットファースト」を掲げて紙の新聞が届くよりも早くネット上の電子版にニュースを掲載することも10年以上前から取り組んでいる。
2007年というのは初代「アイフォーン」が米国で発売された年。それまでのガラケー(携帯電話)とは格段に情報伝達量が増え、新聞もその力を無視できなくなった。
日本の新聞発行部数の減少率が2008年以降大きくなったのと、スマートフォーンの普及はもちろん関連性がある。その後のタブレット端末の普及などもあり、新聞の電子化は必然的な流れになった。
欧米で「ネットファースト」が可能なわけ
欧米のメディアに詳しい米国在住の日本人ジャーナリストは、米国で「ネットファースト」が急速に進んだ理由を、こう解説する。
「米国の新聞はもともと、 日本の新聞のような全国紙はほとんどなく、ローカル紙に近かった。国土が広く物理的に新聞を運べなかったことも大きい。だから、電子化することによって同じ国内の、これまで新聞が届いていなかった地域に読者を広げることができた。もともと紙の新聞を読んでいた人が電子版に移行するだけでなく、新規の読者を獲得するツールになったわけだ。だからこそ、新聞経営者もネット優先にシフトすることへの抵抗感がなかった」
電子化によって、それまでの紙時代よりも読者数を増やすことができた、というのだ。
電子新聞は紙に比べて一般的に購読料が安くなる、という問題を抱えている。単純に紙から電子版へのシフトが進めば、高い購読料が安い購読料に置き換わるだけで、新聞社の経営は窮地に陥る。欧米ではそれを新規読者の購読料で補うことができた、というわけだ。
もうひとつ、言葉が大きかった。英語の力である。英国のような国土が狭い国でもフィナンシャルタイムズ(FT)などが電子化にシフトできたのは、英語の情報であるために世界中に購読者を広げることが可能だった、というわけだ。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54095
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
まず、お金の述語 を確認しておこう:
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10): 政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以 上
再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい:
1) 多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2) これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3) 政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4) いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5) お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6) 上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7) いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。
言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。
以 上
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。
以 上
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