2018年1月24日水曜日

阪大入試ミス 原因公表も「子どもの言い訳」学者ら猛反発

阪大入試ミス 原因公表も「子どもの言い訳」学者ら猛反発

 大阪大学の物理学といえば、日本でも有数のレベルを誇る。その入試がこの体たらくとは……。力が衰えてしまったのだろうか。

 予備校で物理を教える吉田弘幸さんは1月6日、大阪大学の突然の発表に驚いた。2017年度入試で物理の出題と採点でミスを犯し、ほぼ1年たって30人の追加合格を出すというのだ。

「センター試験の1週間前に受験生が可哀想だよ。夏に指摘した時点で認めればよかったのに」(吉田さんのツイッター、同日午後5時)

 昨年8月、吉田さんは予備校テキストに載せる問題を選んでいて大阪大の昨年度入試を解き直すうち、疑問を感じた。

 物理で出題された3問のうちの[3]の前半Aの問4、5で、音叉の出す音と、向かい合う壁による反射音が相互作用して強め合ったり弱め合ったりする干渉現象について問うものだ。試験直後の各予備校の評価では「標準」から「やや易」という難度だったが、それぞれの答えに食い違いがあった。問4を正しく解いても次の問5の設定と整合性がなくなってしまうと吉田さんは気づいた。

 8月9日、大阪大理学部宛てに問い合わせのメールを送った。21日に受け取った返答は、吉田さんが「誤答」と判断したものを正解とするというのみ。

 関西ではそれ以前に表沙汰になっていた。6月10日、日本物理教育学会近畿支部が開催した「物理教育を考える会(大学入試問題検討会)」で、大阪大の問題作成責任者が先の「誤答」が「正しい」と説明していた。

 大阪大当局が気づくのは、12月に入ってからだった。4日、物理に詳しい外部の人物が大阪大入試課宛てに、当該問題の「不整合」を詳細に指摘したメールを届けた。問題作成の責任者と副責任者に加え、別の4人の教員が検討し、19日にやっと「その指摘が正当と判明した」という。ミスの原因は「解答を限定するための条件設定をしなかったので複数の解答が可能だったが、それに気づかず特定の答えのみを正答とした」。これが専門家の疑問を噴き出させた。https://dot.asahi.com/aera/2018012200040.html?page=1

再生核研究所声明 407(2018.1.9):  大阪大学の入試ミス対応についての
一考察
再生核研究所は良い社会を作るには教育が大事であると述べ、教育はもちろん、教育に大きな影響を与える入試の在り様についても考察し、いろいろ具体的に提案を行ってきている:
再生核研究所声明329(2016.10.31): 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
再生核研究所声明210(2015.2.21): 大学入試ミスにおける対応について
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
今回、大阪大学で次のような問題が生じている。外部から入試問題ついての解答がおかしいとの指摘があり、内部関係者で2度に亘り検討、初回は解答に問題はないと判断したが、2度目の検討で解答のミスを認めて公開した。それで対応について具体的に検討している段階と思われる。他の事情として、外部指摘者は、文科省にも入試採点ミスを報告しているという。既に、30名近い人が採点の変更で影響をうけると公開している。大学は正式に採点ミスを認め謝罪を表明している。 そこで、これらの経過と対応について、従来考察して来た背景で、どのように 大学は対応すべきかについて 具体的に提案を行ない今後の問題の対応について 参考にして頂きたいと考える。 ― その心は あるべき在りようを求めたいという、愛である。
上記経過で、外部指摘者の意見は 尊重されるべきであり、検討は真理の追究、事実の追求として 真摯に行うは当然である。 公開していることに誤りを認めるのは大学として当然である。 大学は誤りを認め、入試に誤りがあったことを認めるが、大学は相当に真剣に検討、対応した結果の間違いであるから、間違いが有っても 入試結果を修正しない。修正すれば混乱を起こすので修正しない。 また、詳しい事情、修正した場合の事情なども公表できないとする。 このような対応が良いのではないだろうか。 要するに、入試に間違いが有っても 簡単に修正できるような状況が無い限り、修正しないということである。大学の謝罪は当然である。
このような対応を 社会的にも関係者にとっても、あるいは受験者関係者も受け入れるのが 良いのではないだろうか。 具体的な対応を提案します。
何名が具体的に影響を与えるなどの公表は 関係者の心を乱すだけで良くないのではないだろうか。入試にはミスは有り得ると寛容に、柔軟に考え、対応できる社会の方が 良いのではないだろうか。 広く社会的な検討を求めます。
また、このような過失に対して過失に対する責任、処分などの問題が生じるが、そのような問題にも気を付ける必要がある。入試業務は大事であり、関係者が異常に気を遣ってきており、言わば最善を尽くしてきている現実があると考えられる。既に繰り返し述べてきたように大学入試業務は既に関係者にとって極めて荷重になっており、ポルトガルなどの例にも見られるように、大学の入試業務は特別の機関や高校段階に大幅に移すことによって、軽減化の方向で検討されるべきであると考える。
以 上

再生核研究所声明210(2015.2.21) 大学入試ミスにおける対応について

入学試験が盛んな時期であるが、特に入試のミスにおける対応について、考察しておきたい。入試のミスといってもいろいろなミスが考えられるが、代表的なものは

1) 出題が 定められた範囲を逸脱していた。
2) 問題そのものが、間違っていた。
3) 採点ミス、評価に著しいミスがあった。
4) 問題用紙や解答用紙の扱いにおけるミスや、選抜過程におけるミス。

など、相当に複雑な場合が考えられる。 入試は受験生の一身上に大きな影響を与えるので、関係者の気遣いは深刻で 重責である。そのような苦しい仕事を繰り返されては、特に、教員は教育・研究などの本務を全うできない状況が生じると懸念される。また、合否判定を行ってから、新年度に入ってや 1年以上も経って、入試のミスのために合否判定が覆り、大きな社会問題になった例も少なくない。そこで、 このようなミスに対してどのように対応すべきかを論じたい。
まず、原則は、次の 公正の原則 にあると考える:

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました. 
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか. 
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか. 
3) それはみんなに受け入れられるか.  
4) それは安定的に実現可能か. 
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる. 
(再生核研究所声明1)。

入試については、特に、次の観点に注目したい: 人間の能力を評価することは簡単ではないこと、しかしながら、現実的に選抜する必要性から、簡便法として入試を行って、対処する必要があること。― この背後には、 入試の問題そのものさえ、どのような問題が適切かは曖昧であり、数値化されたものは 受験者のどのような才能、適切さを表しているかさえ 曖昧であるという、事実、真実である。― 入試のミスを論じる前に 入試に対して、そのような柔軟な考えを有することは 良いのではないだろうか。また、優秀な者が風邪や体調で、また 運、不運のことで、不本意の成績が出ることは、世に多い事実ではないだろうか。 まずは、入試における数値化の問題と、数値化の曖昧さに言及したい。
そこで、上記公正の原則で、大事な視点は、 4) ミスに対応する対応が社会的にスムースに行くような配慮である。
そこで、具体的な提案をこの観点から、行いたい。
一旦 実際上の責任者が 決定を行ったことは(きちんと組織上決めておく、実際決まっている。)、修正や変更を行わないこと。― ここで、大事なことは たとえ間違いが有っても修正しないことである。― サッカーなどで、判定ミスがあっても、それを 覆さずゲームを続けることに対応する。
― 責任者が、決定の印を押したからには軽々と覆すことのない決済として、認めることである。
これについて、社会も 入試について 間違いが有り得ることを認め、それを広く受け入れる必要がある。 覆さないは、時間と共に進む社会を考慮すれば、良き対応の有り様ではないだろうか。過ちを受け入れられる社会は 社会をより柔軟に、運営、考えるのに幅を持たせて 広い視野と優しさをもつ社会になるのではないだろうか。
上記の過程で、責任者がミスを冒したことについて、後で、相当な責任を求められるのは当然である。しかしながら、入試などで真剣に取り組まない教職員はいないから、人間の過ちは避けられないものとして、社会的に大きな影響を与えても、寛容な処分を考慮するのが良いと考える。
もちろん、簡単に、相当の混乱も無く、修正できる場合には、上記責任者が 修正するのは是であるが、入試のミスが結構起きて、入試は一種のゲームや偶然性があると考える世相、文化は社会の有り様として、良いのではないだろうか。
背後には、入試をもっと軽く、柔軟に考えられる社会を志向しようという精神がある。それでも上手く回る社会の在り様、柔軟性を広く志向することである。如何であろうか?
計算機の普及で 多くが几帳面になり、社会が細かく、厳密化する傾向を生み、人間の精神が、心が窮屈になる環境に向かうのではないだろうか。これは 将来における大きな懸念になる概念ではないだろうか。
新年度に入ってや 1年以上も経って、合否の判定を覆すのは 社会混乱であり、行き過ぎではないだろうか。

以 上

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