2015年1月20日火曜日

「夏の甲子園」100年、日本国民に愛され続ける理由とは

「夏の甲子園」100年、日本国民に愛され続ける理由とは
NHKが全試合中継
「情熱・挑戦・純粋」イメージで「人間ドラマ」生む
2週間で観客80万人、プロ野球人気に迫る

韓国の高校野球大会はプロ野球に圧倒され「存続の危機」まで取りざたされているが、今年で100年を迎える日本の高校野球大会「全国高等学校野球選手権大会」は依然としてプロ野球顔負けの人気を享受している。試合が行われる兵庫県内の球場の名前にちなみ「夏の甲子園」と呼ばれるこの高校野球大会は、地方予選を通過した49校が毎年8月中旬の2週間で勝負を決める。観客80万人を動員し、昼間の中継にもかかわらず視聴率が33.7%(2006年決勝、東京での視聴率)をマークする国民的な野球大会だ。
夏の甲子園が国民的に愛されている理由の一つは「伝統」だ。気温30℃と、立っているだけでも倒れそうな真夏に試合をするという伝統が続いている。「熱中症で死者が出かねない」と分散開催を求める声もあるが、熱中症患者発生に備えて医師・看護師を待機させ、猛暑の中で試合を続けている。
日本で甲子園は「野球の聖地」という象徴性を持つ。負けたチームの選手たちが涙を流しながら甲子園球場の土を持ち帰る「儀式」も有名だ。再び甲子園の土を踏むという意志を込めた儀式だ。1958年に米軍統治下の沖縄の高校が米軍の検疫で甲子園の土の持ち込みを禁止されたことから、沖縄返還運動に火がついたこともあった。
このような象徴性が全国の高校野球選手17万人に「甲子園の土を踏みたい」という夢を植え付けている。少子高齢化で生徒数は急減しているが、それでもまだ4000前後の高校チームが出場している。選手不足でチームが作れない高校は地域連合チームで甲子園に挑む。韓国高校野球の聖地だった東大門運動場が閉鎖されたのとは対照的だ。
選手保護のため投球数を制限しようという声もあるが、以前と変わらず投球数に制限はない。「体を壊して選手生命が終わってもいい」と指から血を流しながら連投する姿に、日本国民は熱狂する。米大リーグに進出した日本の野球選手たちが頻繁に故障するのも「甲子園での『虐待』のためだ」という批判もあるが、こうした姿が「情熱」「挑戦」「純粋」という甲子園のイメージを作り、国民の関心を維持する原動力になっている。
公共放送NHKなど放送局や新聞も、甲子園を単なる野球の試合ではなく「人間ドラマ」と位置付けている。 NHKは夏に一日中「甲子園」本選の全試合をテレビ・ラジオで生中継する。国民的人気を受けて、民放も競い合うように特集を放送している。選手たちが流した汗に焦点を当てたドラマ風ドキュメンタリーもある。レギュラーだけでなく、控え選手や応援団も「主人公」だ。福島原発事故で電力不足が深刻化した2011年には、夏に甲子園野球のテレビ中継を見る人が急増するためブラックアウト(大規模停電)の懸念も取りざたされた。
夏の甲子園は朝日新聞社が主催しているが、ライバルの新聞社も夏はプロ野球より高校野球の方を大きく取り上げる。甲子園は「愛郷心」を刺激する。地方予選から地元放送局や新聞が詳しく紹介し、観客席がいっぱいになるほど関心を集める。そうしたプロセスを経て甲子園大会に出場した地元代表を、住民たちは一斉に応援する。
甲子園をテーマにした漫画・ドラマ・映画・小説も多い。「甲子園の星」がプロ野球のスターになることもある。大リーガーとして活躍した、あるいは現在活躍中の松井秀喜や田中将大も「甲子園の星」だった。
東京= 車学峰(チャ・ハクポン)特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か
(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。
以 上

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