2018年11月2日金曜日

2017年04月30日 神と無と宇宙

2017年04月30日

神と無と宇宙

無から宇宙が誕生できるのであれば、神は必要ない。
無=宇宙 が成立するからだ。
神+無=宇宙  なのだろうか。その場合は「神の手」によって宇宙が誕生したとすべきか。
神という関数に(無)を代入して、宇宙という解が生まれた。といった方が正確か。

神が全知全能だとすると、この宇宙内には存在しないはずなので
やはりそのような式は成立しないかもしれない。
数式の枠外に存在するもの=神 ?

0で割る場合、その解はない。
0で割るという行為は、ではどこへ行ってしまうのか?
数式や数学の外部へと行ってしまうのか。
0では割れないとしても、無限に0に近づける数で割れば、その解は無限に近づく。
面白いね。


https://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20151023-00002072-ted
>どうして宇宙は存在するのでしょう? 何故-はい はい(笑) 厳粛にしてください これは広大無辺の謎なのです どうして世界があり 私たちはその中に居るのか そしてなぜ「無」ではなく 何かが「ある」のでしょう? つまり これは超究極の「問いかけ」なのです

さて まさに我々が 取り掛かろうとしている 存在の謎や存在の難問について それから 何故皆さんが注意を払うべきか -そうして頂くことを望んでいますが それらについてお話しましょう 哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアーは 己の存在 世界の存在の測り知れなさに 思いを巡らせない者は 低能だと言いました やや辛辣ですが 言い得て妙(笑) ですので これは最も崇高で 荘厳な謎- 人類が提起できる 最も深遠で壮大な 問いかけで 偉大な思想家を 悩ませ続けています 恐らく20世紀で最も偉大な哲学者 ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは 世界はまごうことなく あるべきことに驚嘆しました 彼は『論理哲学論考』の命題4.66で 「世界の中での事象の有り様が 神秘的ではなくて どの様に世界が存在しているかが 神秘的なのである」 もし哲学者からの警句を 拝借するのが好きでなければ 科学者はどうでしょうかー 20世紀で最も偉大な物理学者で リチャード・ファインマンの師 20世紀で最も偉大な物理学者で リチャード・ファインマンの師 「ブラックホール」を造語した ジョン・アーチボルト・ホイーラーは 「私はどうして量子が 宇宙が 存在が『ある』のか知りたいのです」 と言ったのです そして 私の友人の マーティン・エイミス- すみません 講演中に多くの名前が出てきますが どうか慣れて下さい- 私の友人のマーティン・エイミスは かつて 我々は宇宙がどこから来たのか という謎に答えるには アインシュタインが約5人必要だと言ったのです そして 今夜の観客席には間違いなく 5人のアインシュタインが居ると確信しています アインシュタインさん? 手を挙げて?居ないですか?

さて なぜ「無」ではなく 何かが「ある」のか というこの「問いかけ」 この崇高な問いかけは 思想史のかなり後期に提起されました それは17世紀末にかけて 哲学者であり アイザック・ニュートンから独立し 微積分学を生み出した アイザック・ニュートンから独立し 微積分学を生み出した 非常に聡明なライプニッツが 同時期に提起したのです なぜ「無」ではなく 何かが「ある」のか― 彼にとっては 大した謎でもなかったのです 彼の形而上学的な見地では 彼はキリスト教正教徒 もしくはそのフリをしていたので 何故 世界が存在するのかは 明らかだと言ったのです 何故なら 神が創造したからです 神は無から創造されたのです 神は全知全能な存在なのです 神は世界を形作るのに いかなる既存材料も必要としないのです 神はまったくの無から 何もないところから 世界を創造されたのです ちなみに これは 殆どの現代のアメリカ人が信じていることです 彼らには存在の謎はないのです 神が創り給うたのですから

さて これを方程式に入れてみましょう スライドがありませんので 身振り手振りをしますから 想像力を働かせてください 神+無=世界 いいですか?これが方程式です 皆さんは恐らく神を信じないでしょう 科学的 または非科学的な無神論者とか いずれにせよ 神を信じておらず 快く思ってはいないでしょう ところで 神+無=世界 この様な方程式の場合でも 何故 神は存在するのか? という問題が既にあるのです 本体論的証明を信じれば別ですが 良いものでもなく 信じていない方がいいのですが 神は論理のみで存在しないのです ですから 神が存在するのであれば 未来永劫 全知全能な存在であることに 神は訝しむかもしれません でも 我はどこから来たのだろうか? (笑) そしてでも 我はどこにいるのだろうか? 神は「我」とか 格式ばった言葉で話しますからね (笑) そして 神は自身の 存在の謎を思案し飽き飽きし 気晴らしに世界を想像したのだと そういう説があります とにかく 神の事は置いておきましょう 方程式から神を除くと ________ +無=世界 となります さて もし皆さんが仏教徒なら ここまでで十分だと思うでしょう 何故なら 本質的に皆さんが得たものは 無=世界 そして式は対称ですから 世界=無なんです 分かりますか? 仏教徒にとって世界は ただの無の集積なんです それは広大無辺の空虚なのです そこに多くの何かがあると考えるのですが それは我々が自身の欲望の虜に なっているからです もし我々が欲望を消滅させるなら 世界は真にどんなものか 知ることが出来るでしょう -虚空 -無 そして我々は今世の命は成仏(死後)を 楽しむ為のものである というような 解脱による至福の境地に至るでしょう(笑)

それが仏教徒の考えです しかし 私は西洋人なので まだ存在の難問に関心があるので ________ + ― 直にエライことになりますよ いいですか? ________ + 無 = 世界 そこの空白には何を入れましょうか? 科学はどうでしょう 科学は現実の自然現象を 最も紐解いてくれますし 科学の根本は物理学なのです それは我々に素の現実が 本当はどんなものか 「TAUFOTU」-宇宙の真実と究極の構成物- The True And Ultimate Furniture Of The Universe というものを明らかにするのです ですので 恐らく物理学はこの空白を埋められます そして実際 1960年代後半か1970年頃から 物理学者は全くの虚無- 空間からの量子変動から どのようにして このような宇宙が存在することとなったかの 純粋な科学的説明を 口にし始めたのです スティーヴン・ホーキングは そんな物理学者の1人で 近頃では アレックス・ビレンケンや その他 実に優秀な物理学者の友人で 『宇宙が始まる前には何があったのか?』 の著者であるローレンス・クラウスなどが 人気を博しています ちなみにローレンスは 闘争的な無神論者なので 神を枠から外しています 最新技術の物理学である 場の量子論の法則は どの様に全くの無から- 空間も時間も何もかもの無から- 偽真空の小さな塊が 実在へと変化していき そして膨張の奇跡によって 我々の周りにある この巨大で多様な宇宙へと 変貌を遂げるのかを示してくれます

さて これは実に独創的な筋書です とても推論的で魅惑的です しかし ここでちょっと問題があります 宗教がかった見解が 問題なのです さて ローレンスは自分が無神論者だと思っていますが 彼は未だに宗教的世界観に 囚われているのです 彼は物質の法則は神の命令のように 見なしているのです 彼にとって 場の量子論の法則は まるで神の思召し- 「光あれ」なのです その法則はある種の力や影響力があり 実在を孕んだ 天地創造以前の混沌を 形作れるのです その法則により無から世界を実在させたのです しかし それは自然界の法則に関する 非常に原始の見解ですよね 我々は物理法則は実際に 世界の様式と規則性の 一般化された記述である と知っています それらは世界の外には存在しません それ自体 存在論的な 不透明さもありません だから その法則では無から世界を 創造できないのです それは科学の法則が何たるかの 非常に原始的な見立てなのです そして もしあなたがこのことを信じないなら いかなる外界の要因も 創造主も必要としない自己完結型の 宇宙モデルを周知させた 創造主も必要としない自己完結型の 宇宙モデルを周知させた スティーヴン・ホーキングに 話を聞いてみてください 彼はこのモデルは 方程式に過ぎないと述べ 未だに途方に暮れていることも認めました 方程式に命を与え 描くべき世界を創造するのは何であるのか? 彼は困惑させられました 方程式それ自体は魔法を起こせません 存在の難問を解決できません しかも 法則が解決出来たとしても どうしてこの法則の組合せでしょうか? どうして場の量子論の法則が 特定量の力と分子などで世界を 描写するのでしょう? どうして全く異なる法則の組合せではないのか? 多くの 数学的に矛盾のない 法則の組合せがあります どうして他の法則が何もないのか? どうして全くの無でないのか?

信じようが信じまいが これは問題です 思慮深い物理学者が再三考え そしてこの点においては 彼らは形而上学に傾倒しがちで 例えば- 我々の宇宙を描写する 法則の組合せは 一組だけで それは現実のある一面を描写しているが すべて矛盾のない法則は 現実の他の側面を描写し そしてすべての有り得る物質界は 実際にそこに存在していて 「ある」のである 我々は場の量子論の法則によって描写された 小さな現実の一部を見るだけだが 非常に異なる仮説で語られる 多くの別の世界や 現実の要素は 想像できない程 我々のものとは違うので 想像を絶するほどに異世界なのです 一般的な素粒子物理学の父とされる スティーヴン・ワインバーグは 全ての可能な現実は実際に存在しているという このアイデアに実に魅了されました また 若手の物理学者のマックス・テグマークは 全ての数理的な構造は存在し そして数理的な存在は物理的な存在と 同じであると信じているので 我々は全ての理論的な可能性を包括する この広大で豊かな多元宇宙論を有するのです

さて この形而上学的なものはさて置き これらの物理学者や哲学者は 事実 非常に昔のアイデア -プラトーまで 立ち戻っています それは充足や繁殖力の原則 あるいは 現実が出来る限り満たさている 大いなる存在の連鎖です それは虚無から 出来る限り遠くに移されます

ですから 我々には 二つの極論があるのです 一方は全くの空虚で 最も簡素な現実です もう一方は対極で 全ての想像し得る 世界を包含する 満ち溢れた現実―なのです さて この二つの極論の間には何があるのでしょうか? これらは あらゆる種類の中間の現実で 幾つかだけを含み それ以外は除外されています ですので これらの中間現実の1つ- 例えば 数学的にエレガントな現実が そうでないもの -不格好な非対称なもの等を 除外するのです さて 我々が最もエレガントな現実に住んでいると そう言う物理学者も中にはいます 私はブライアン・グリーンが -観客席に居ると思いますが 『エレガントな宇宙』という著書で 我々が住んでいる宇宙は数学的に 非常にエレガントだと主張しています 彼を信じないでください(笑) 願わくば という 信心深い望みですが ある日 彼が私に 実は不格好な宇宙だと 認めました それは さほど考えもせずに作られ 多すぎる任意の結合定数と 質量比や 不必要な基礎素粒子の族です ダークエネルギーとは何なのでしょうか? それは棒と風船ガムの奇妙な仕掛けです それはエレガントな宇宙ではありません(笑) そして倫理学上の意識の中に 最善の世界があるのです 厳粛にお願いします 何故なら 感覚のある生き物が いわれなく苦しまない世界- 小児がんや大虐殺などのない世界 なのですから これは倫理的な概念です ともかく 虚無と 充足した可能現実 種々の特別な現実の間なんです 空虚は特別で 最も単純です そして 最もエレガントな可能現実があるのです それは特別です 充足した可能現実 実に特別です

でも 我々はここで何を取りこぼすのでしょうか? そこには ただ下らなく どうあがいても 特別にはなり得ない ある意味 手当り次第の ごく一般的な現実もあります それらは永遠に虚無から取り除かれていますが 完全な充足が永遠に足りないのです それらは混沌と 数理的なエレガンスと醜さの 道理が混在しているのです ですので 私はこれらの現実を 果てしない 二流の 不完全な混乱で 包括的な現実で ある種の宇宙の下らない 試みだと述べましょう そしてこれらの現実には 神性なるものがあるのでしょうか? 恐らく- しかしユダヤ教やキリスト教の神のように 神性なるものは完璧ではありません それは完璧に善良で万能ではありません 代わりに100%の悪意あるもので でも80%しか効いてないような まるで 我々を取り巻く この世界のようなものかも知れません(笑) ですから存在の謎の決意は 我々が存在している現実が これらの包括的な現実の1つである ということだと提案したいわけです 現実は 何とか判明しないとなりません それは全く何でもない とか その通りだったとか どちらとも言えない とかでしょう ですからそれが例えば 実にエレガントだとか充足しているとか 虚無のように実に単純だとか 何か特別な特徴を備えていると 説明が必要になるでしょう しかし 気まぐれな包括的な 現実の内の1つに過ぎなけば それ以上の説明はないでしょう 実に言うなれば それが我々の生きる現実なのです それが科学が我々に教えてくれることです 今週始めに宇宙の膨張説の 胸躍る情報を得たのです それは大きくて 無限で ごたまぜであり 気まぐれで 良く分からない現実を予言します それはボトルから溢れ出る シャンペンの大きな泡のようで 魅力と秩序と平和の 小さなポケット付きの 大概は不毛な 広大無辺の宇宙で この膨張説は 南極大陸にある電波望遠鏡による 観測によって確認されています それはビッグバンの直前に 重力の波の兆しを捉えました 皆さんもご存知のことと思いますが いずれにせよ この現実というのは 我々に押し付けられた現実であるという 証拠があると思うのです

さて 我々はどうして懸念すべきなのでしょうか? えーと (笑) 「なぜ世界は存在するのか?」 というその問い それは広大無念な問いで もっと身近な問いを呼び起こします 「どうして私は存在するのか?」 「どうしてあなたは存在するのか?」 遺伝子的に誕生可能な人間の数は膨大で 我々の存在は驚異の賜物のようなのです もし遺伝子の数と その対立遺伝子をを見積もると 概算して 約10から10,000乗の 遺伝的に誕生可能な人間が いるわけです それは100の10乗と天文学的数字の間なのです そして実際に存在している人間の数は 1000億人とか50億人でしょうか ごく僅かな割合です ですから我々全員は 驚異的な広大無辺のくじを引き当てたのです 我々はここにいるのです いいですね

どんな種類の現実に我々は住みたいのか? 我々は特殊な現実に住みたいのか? もし我々が最もエレガントな 可能現実に住んでいるとしたら? エレガントであろうと その期待に応えようとする 我々の実存のプレッシャーを 想像してみてください あるいは もし我々が最も充実した 可能現実に住んでいるとしたら? すると 我々の存在は保証されるでしょう 何故ならすべての可能なことは 現実に存在しているのです しかし 我々の選択は意味をなさないでしょう もし私が本当に道徳的に苦しみもがき 正しい行いをしようと決めたら どんな違いが あるというのでしょうか そこには無限の私のバージョンが存在し そして正しい行いをし また 無限の数の私が 悪いことを行っているのです ですから私の選択は無意味で 我々はそんな特殊な現実に住みたくありません 無の特殊な現実については もうお話しすることはないでしょう ですから この平凡でありきたりの 現実に住むということは 良いことも嫌なこともありますが 我々は良いことはもっと多く そして嫌なことはもっと少なくすることで 人生の目的のようなものを得るのです 宇宙は滑稽ですが 我々はまだ目的を掲げることができ それはとても良いモノで 全体的な現実の平凡さのようなものは 我々の存在のコアで感じるような平凡さと きちんと共鳴しているのです 皆さんも感じておられるはずです 皆さんは全員特別なのですが ある種 密かに平凡なのです そうですよね? (笑)(拍手)

さて ともかく 皆さんはこう言うかもしれませんね 存在の謎の難問は 馬鹿らしい謎を煽っているだけだと 皆さんは宇宙の存在に驚きませんし 良い仲間に恵まれています バートランド・ラッセルが言うには 「宇宙はただそこにあるんだ それだけさ」 どうしようもない事実です 偉大な達観したおどけ者であり 私の教授でコロンビア大学の シドニー・モーゲンベッサーは 「モーゲンベッサー先生 なぜ無ではなく 何かが『ある』のでしょう?」と尋ねると 「えー もし何も無かったとしても 君は満足しないだろうからね」 と答えました

ですので―(笑)―はいはい 皆さんは驚かなくても 私は気にしません でも結論として 皆さんが絶対に驚くようなことを お話しします それは このTEDカンファレンスで出会った 全ての輝くばかりの素晴らしい人々を 驚かしたものなのです  ―それは― 「私は人生で一度も携帯電話を持ったことがない」 ありがとうございました (拍手)http://mijikaku.seesaa.net/article/449461311.html

ゼロ除算の発見は日本です:
∞???    
∞は定まった数ではない・・・・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:

とても興味深く読みました:2014年2月2日 4周年を超えました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所


ゼロ除算関係論文・本

行ってきました:世界を変えた書物展

再生核研究所声明 459(2018.11.01):  数学者の反省、数学教育の反省
再生核研究所は 広く世の意見を求め それらに対する回答、見解を表明している。特にゼロで割る問題についての 数学の初歩についての歴史的な発見 を契機に 数学に対する意見がいろいろ 一般の方々から寄せられている。そのような社会の反響から、数学界の問題、数学教育の問題が次第に露わになってきた。そこで数学界の反省の観点から要点を纏めてみたい。 ある意味において神学とも言える数学の普及と数学の健全な発展と世に貢献すべき数学の在りようからの 独断と偏見に満ちた 視野の狭い一つの見解である。 次も参照:

まず、世の数学に対する 結構広く存在する自然な心情、- 数学はダメ、数学は嫌い、興味も関心も無い、話したくもない。 これは 数学界の基本的な問題であり、数学教育の基本的な過ちを表していると言えるのではないだろうか。これでは数学自身の存在が脅かされ、文化を支えるべき数学が 基本的な役割を果たしているとは言えない。多くの素敵な人たちが、 受験勉強や教育の場で 数学に虐められたと表明している。 高校時代の素敵な女性にそのように 卒業後56年を経たクラス会で表明されて この声明のきっかけを得た。 ある化学の教授が 数学がどうも苦手で 化学を専攻せざるを得なかったという言葉も 永く、心に響いている。高校の担任は数学の先生で、50年を超えてクラス会に招かれている程だから、人物良好、尊敬される存在である。しかし、数学の教育は受験の必要性に迫られて 型にはまった教育にならざるを得なかった。それでも当時はまだ受験事情は 甘い余裕のある時代であった。 現在は受験数学の過熱さは凄くなっている現実があるのではないだろうか。 そのような事情は、数学嫌いな人々をどんどん多く育てている現実があるのではないかと危惧している。
ところが、このような状況に対して、数学好きな人々は 己が才能の優秀性を示す好機と見、数学者はこのような風潮を助長させているような状況が相当に見られると考えられる。 ― 多くの数学者は実際、受験の数学などに困っているような人は 既にダメと発想して、そのような状況を無視されてきたのではないだろうか。
― 数学の先生が、数学嫌いな生徒を馬鹿にするような風潮が広く見られ、多くの生徒が永く傷つき、数学と数学の先生に恨みさえ懐いている現実は 相当に見られるのではないだろうか。また数学の歴史には 競争をしたり、自分の才能を示したいという数学者の存念が表れているが、研究の面では 仕方がなく、数学者が自己中心で視野も狭く、子供っぽいとの批判も 研究上はやむを得ないと弁明せざるを得ない。しかしながら、競争のための数学界では情けない。 ノーベル賞などの価値観に対しては、文化への、社会への貢献の視点で確立しているように見られるのに対して、数学界ではいわば競争のための数学、分からない内容での評価があって、一般の人には状況が分からない、それ故に社会の関心が湧かない状況にあることにも注目される。
日本では数学ができる、頭が良い、高学歴の変な文化を育て 数学の社会的な存在基盤を弱くして 閉じた狭いエリート社会を構成している状況が広く見られる。 数学の研究、教育が 広い社会的な存在にならず、閉じた極めて小さな存在になっていると思われる。数学界のいろいろな賞等フィールズ賞でさえ、マスコミや世の話題にもならず、それらは 我々にとって何の意味もないと多くの人は興味を懐かず、無関心である。 数学者自身理屈っぽく、社会性がなく、変人が多く、自己中心の視野の狭い人々の集まりと 考えられているのではないだろうか。 ― 研究者としては やもう得ない面と考えられるが 教育面では改めたい。
前向きに考えれば、まず数学教育の中心を 数学の楽しさ、数学の精神を身に付ける教育への回帰を提案したい。受験や選別、競争のための型にはまった訓練を超えて、多くの人々が数学とは 楽しいものであるとの認識を持つような教育を まずは 志向すべきである。 当然、数学者は真理を求める真摯な態度で 公正で、競争や優秀性の観点の精神ではなく 人々から尊敬されるような人物と見なされるべき人物を志向すべきである。- ポルトガルでは サッカーが大衆レベルで人気が有り、それ故にサッカー選手は 尊敬の 話題の中心である。 日本では 数学の愛好者が多く、数学者は尊敬され、 数学が社会の話題で多い。これは無理としても、そのような在りようを志向するのは良いのではないだろうか。
受験のための数学より、文化のため、文化の基礎のための数学、芸術、楽しみのための数学の視点は 大事ではないだろうか。
マスコミやマスメデア関係者には いわゆる 文系が多く、特に上記で述べたように数学嫌い、数学者嫌いの方々が多く、数学界の情報は 社会的な広がりを見せない異常な状態ではないだろうが。それで分かり易い、スポーツ、芸能、ドラマ、犯罪の扱い、追究などの異常な氾濫を招いていて、数理科学の情報が閉ざされているのではないだろうか。これはもちろん、狭い見解、偏見であろう。
数学者や数学教育についてのご意見など頂ければ、美しい数学のために 活かしたい。めて、この地域では 柚子が沢山なっていて、美しく色づいている。
以 上

再生核研究所声明 375 (2017.7.21):ブラックホール、ゼロ除算、宇宙論
                        
本年はブラックホール命名50周年とされていたが、最近、wikipedia で下記のように修正されていた:
名称[編集]                                    
"black hole"という呼び名が定着するまでは、崩壊した星を意味する"collapsar"[1](コラプサー)などと呼ばれていた。光すら脱け出せない縮退星に対して "black hole" という言葉が用いられた最も古い印刷物は、ジャーナリストのアン・ユーイング (Ann Ewing) が1964年1月18日の Science News-Letter の "'Black holes' in space" と題するアメリカ科学振興協会の会合を紹介する記事の中で用いたものである[2][3][4]。一般には、アメリカ物理学者ジョン・ホイーラーが1967年に "black hole" という名称を初めて用いたとされるが[5]、実際にはその年にニューヨークで行われた会議中で聴衆の一人が洩らした言葉をホイーラーが採用して広めたものであり[3]、またホイーラー自身は "black hole" という言葉の考案者であると主張したことはない[3]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB

世界は広いから、情報が混乱することは よく起きる状況がある。ブラックホールの概念と密接な関係のあるゼロ除算の発見(2014.2.2)については、歴史的な混乱が生じないようにと 詳しい経緯、解説、論文、公表過程など記録するように配慮してきた。
ゼロ除算は簡単で自明であると初期から述べてきたが、問題はそこから生じるゼロ除算算法とその応用であると述べている。しかし、その第1歩で議論は様々でゼロ除算自身についていろいろな説が存在して、ゼロ除算は現在も全体的に混乱していると言える。インターネットなどで参照出来る膨大な情報は、我々の観点では不適当なものばかりであると言える。もちろん学術界ではゼロ除算発見後3年を経過しているものの、古い固定観念に囚われていて、新しい発見は未だ認知されているとは言えない。最近国際会議でも現代数学を破壊するので、認められない等の意見が表明された(再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告)。そこで、初等数学から、500件を超えるゼロ除算の証拠、効用の事実を示して、ゼロ除算は確定していること、ゼロ除算算法の重要性を主張し、基本的な世界を示している。
ゼロ除算について、膨大な歴史、文献は、ゼロ除算が神秘的なこととして、扱われ、それはアインシュタインの言葉に象徴される:

Here, we recall Albert Einstein's words on mathematics:
Blackholes are where God divided by zero.
I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).

ところが結果は、実に簡明であった:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

しかしながら、ゼロ及びゼロ除算は、結果自体は 驚く程単純であったが、神秘的な新たな世界を覗かせ、ゼロ及びゼロ除算は一層神秘的な対象であることが顕になってきた。ゼロのいろいろな意味も分かってきた。 無限遠点における強力な飛び、ワープ現象とゼロと無限の不思議な関係である。アリストテレス、ユークリッド以来の 空間の認識を変える事件をもたらしている。 ゼロ除算の結果は、数理論ばかりではなく、世界観の変更を要求している。 端的に表現してみよう。 これは宇宙の生成、消滅の様、人生の様をも表しているようである。 点が球としてどんどん大きくなり、球面は限りなく大きくなって行く。 どこまで大きくなっていくかは、 分からない。しかしながら、ゼロ除算はあるところで突然半径はゼロになり、最初の点に帰するというのである。 ゼロから始まってゼロに帰する。 ―― それは人生の様のようではないだろうか。物心なしに始まった人生、経験や知識はどんどん広がって行くが、突然、死によって元に戻る。 人生とはそのようなものではないだろうか。 はじめも終わりも、 途中も分からない。 多くの世の現象はそのようで、 何かが始まり、 どんどん進み、そして、戻る。 例えばソロバンでは、願いましては で計算を始め、最後はご破産で願いましては、で終了する。 我々の宇宙も淀みに浮かぶ泡沫のようなもので、できては壊れ、できては壊れる現象を繰り返しているのではないだろうか。泡沫の上の小さな存在の人間は結局、何も分からず、われ思うゆえにわれあり と自己の存在を確かめる程の能力しか無い存在であると言える。 始めと終わり、過程も ようとして分からない。

ブラックホールとゼロ除算、ゼロ除算の発見とその後の数学の発展を眺めていて、そのような宇宙観、人生観がひとりでに湧いてきて、奇妙に納得のいく気持ちになっている。

以 上

再生核研究所声明 411(2018.02.02):  ゼロ除算発見4周年を迎えて
ゼロ除算100/0=0を発見して、4周年を迎える。 相当夢中でひたすらに その真相を求めてきたが、一応の全貌が見渡せ、その基礎と展開、相当先も展望できる状況になった。論文や日本数学会、全体講演者として招待された大きな国際会議などでも発表、著書原案154ページも纏め(http://okmr.yamatoblog.net/)基礎はしっかりと確立していると考える。数学の基礎はすっかり当たり前で、具体例は700件を超え、初等数学全般への影響は思いもよらない程に甚大であると考える: 空間、初等幾何学は ユークリッド以来の基本的な変更で、無限の彼方や無限が絡む数学は全般的な修正が求められる。何とユークリッドの平行線の公理は成り立たず、すべての直線は原点を通るというが我々の数学、世界であった。y軸の勾配はゼロであり、\tan(\pi/2) =0 である。 初等数学全般の修正が求められている。
数学は、人間を超えたしっかりとした論理で組み立てられており、数学が確立しているのに今でもおかしな議論が世に横行し、世の常識が間違っているにも拘わらず、論文発表や研究がおかしな方向で行われているのは 誠に奇妙な現象であると言える。ゼロ除算から見ると数学は相当おかしく、年々間違った数学やおかしな数学が教育されている現状を思うと、研究者として良心の呵責さえ覚える。
複素解析学では、無限遠点はゼロで表されること、円の中心の鏡像は無限遠点では なくて中心自身であること、ローラン展開は孤立特異点で意味のある、有限確定値を取ることなど、基本的な間違いが存在する。微分方程式などは欠陥だらけで、誠に恥ずかしい教科書であふれていると言える。 超古典的な高木貞治氏の解析概論にも確かな欠陥が出てきた。勾配や曲率、ローラン展開、コーシーの平均値定理さえ進化できる。
ゼロ除算の歴史は、数学界の避けられない世界史上の汚点に成るばかりか、人類の愚かさの典型的な事実として、世界史上に記録されるだろう。この自覚によって、人類は大きく進化できるのではないだろうか。
そこで、我々は、これらの認知、真相の究明によって、数学界の汚点を解消、世界の文化への貢献を期待したい。
ゼロ除算の真相を明らかにして、基礎数学全般の修正を行い、ここから、人類への教育を進め、世界に貢献することを願っている。
ゼロ除算の発展には 世界史がかかっており、数学界の、社会への対応をも 世界史は見ていると感じられる。 恥の上塗りは世に多いが、数学界がそのような汚点を繰り返さないように願っている。
人の生きるは、真智への愛にある、すなわち、事実を知りたい、本当のことを知りたい、高級に言えば神の意志を知りたいということである。そこで、我々のゼロ除算についての考えは真実か否か、広く内外の関係者に意見を求めている。関係情報はどんどん公開している。
4周年、思えば、世の理解の遅れも反映して、大丈夫か、大丈夫かと自らに問い、ゼロ除算の発展よりも基礎に、基礎にと向かい、基礎固めに集中してきたと言える。それで、著書原案ができたことは、楽しく充実した時代であったと喜びに満ちて回想される。
以 上

神の数式:
神の数式が解析関数でかけて居れば、 特異点でローラン展開して、正則部の第1項を取れば、 何時でも有限値を得るので、 形式的に無限が出ても 実は問題なく 意味を有します。
物理学者如何でしょうか。

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​そこで、計算機は何時、1/0=0 ができるようになるでしょうか。 楽しみにしています。 もうできる進化した 計算機をお持ちの方は おられないですね。
これは凄い、面白い事件では? 計算機が人間を超えている 例では?

面白いことを発見しました。 計算機は 正しい答え 0/0=0
を出したのに、 この方は 間違いだと 言っている、思っているようです。
0/0=0 は 1300年も前に 算術の発見者によって与えられたにも関わらず、世界史は間違いだと とんでもないことを言ってきた。 世界史の恥。 実は a/0=0 が 何時も成り立っていた。 しかし、ここで 分数の意味を きちんと定義する必要がある。 計算機は、その意味さえ知っているようですね。 計算機、人間より賢くなっている 様が 出て居て 実に 面白い。
https://steemkr.com/utopian-io/@faisalamin/bug-zero-divide-by-zero-answers-is-zero
2018.10.11.11:23
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面白いことを発見しました。 計算機は 正しい答え 0/0=0
を出したのに、 この方は 間違いだと 言っている、思っているようです。
0/0=0 は 1300年も前に 算術の発見者によって与えられたにも関わらず、世界史は間違いだと とんでもないことを言ってきた。 実は a/0=0 が 何時も成り立っていた。しかし、ここで 分数の意味を きちんと定義する必要がある。 計算機は、その意味さえ知っているようですね。 計算機、人間より賢くなっている様が 出て居て 実に面白い。

 
https://steemkr.com/utopian-io/@faisalamin/bug-zero-divide-by-zero-answers-is-zero
2018.10.11.11:23

ゼロ除算、ゼロで割る問題、分からない、正しいのかなど、 良く理解できない人が 未だに 多いようです。そこで、簡潔な一般的な 解説を思い付きました。 もちろん、学会などでも述べていますが、 予断で 良く聞けないようです。まず、分数、a/b は a  割る b のことで、これは 方程式 x=a の解のことです。ところが、 b がゼロならば、 どんな xでも 0 x =0 ですから、a がゼロでなければ、解は存在せず、 従って 100/0 など、ゼロ除算は考えられない、できないとなってしまいます。 普通の意味では ゼロ除算は 不可能であるという、世界の常識、定説です。できない、不可能であると言われれば、いろいろ考えたくなるのが、人間らしい創造の精神です。 基本方程式 b x=a が b がゼロならば解けない、解が存在しないので、困るのですが、このようなとき、従来の結果が成り立つような意味で、解が考えられないかと、数学者は良く考えて来ました。 何と、 そのような方程式は 何時でも唯一つに 一般化された意味で解をもつと考える 方法があります。 Moore-Penrose 一般化逆の考え方です。 どんな行列の 逆行列を唯一つに定める 一般的な 素晴らしい、自然な考えです。その考えだと、 b がゼロの時、解はゼロが出るので、 a/0=0 と定義するのは 当然です。 すなわち、この意味で 方程式の解を考えて 分数を考えれば、ゼロ除算は ゼロとして定まる ということです。ただ一つに定まるのですから、 この考えは 自然で、その意味を知りたいと 考えるのは、当然ではないでしょうか?初等数学全般に影響を与える ユークリッド以来の新世界が 現れてきます。
ゼロ除算の誤解は深刻:

最近、3つの事が在りました。

私の簡単な講演、相当な数学者が信じられないような誤解をして、全然理解できなく、目が回っているいるような印象を受けたこと、
相当ゼロ除算の研究をされている方が、基本を誤解されていたこと、1/0 の定義を誤解されていた。
相当な才能の持ち主が、連続性や順序に拘って、4年以上もゼロ除算の研究を避けていたこと。

これらのことは、人間如何に予断と偏見にハマった存在であるかを教えている。
まずは ゼロ除算は不可能であるの 思いが強すぎで、初めからダメ、考えない、無視の気持ちが、強い。 ゼロ除算を従来の 掛け算の逆と考えると、不可能であるが 証明されてしまうので、割り算の意味を拡張しないと、考えられない。それで、 1/0,0/0,z/0 などの意味を発見する必要がある。 それらの意味は、普通の意味ではないことの 初めの考えを飛ばして ダメ、ダメの感情が 突っ走ている。 非ユークリッド幾何学の出現や天動説が地動説に変わった世界史の事件のような 形相と言える。
2018.9.22.6:41
ゼロ除算の4つの誤解:
1.      ゼロでは割れない、ゼロ除算は 不可能である との考え方に拘って、思考停止している。 普通、不可能であるは、考え方や意味を拡張して 可能にできないかと考えるのが 数学の伝統であるが、それができない。
2.      可能にする考え方が 紹介されても ゼロ除算の意味を誤解して、繰り返し間違えている。可能にする理論を 素直に理解しない、 強い従来の考えに縛られている。拘っている。
3.      ゼロ除算を関数に適用すると 強力な不連続性を示すが、連続性のアリストテレス以来の 連続性の考えに囚われていて 強力な不連続性を受け入れられない。数学では、不連続性の概念を明確に持っているのに、不連続性の凄い現象に、ゼロ除算の場合には 理解できない。
4.      深刻な誤解は、ゼロ除算は本質的に定義であり、仮定に基づいているので 疑いの気持ちがぬぐえず、ダメ、怪しいと誤解している。数学が公理系に基づいた理論体系のように、ゼロ除算は 新しい仮定に基づいていること。 定義に基づいていることの認識が良く理解できず、誤解している。
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

Eπi =-1 (1748)
1/0=0/0=0 (2014年2月2日再生核研究所)

a2+b2=c2
1+1=2
1/0=0/0=0

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