2018年11月17日土曜日

賭博を愛しすぎて破滅した天才数学者の末路 「賭博に負けない唯一最高の方法は…」 連載「歴史上の人物を診る」

賭博を愛しすぎて破滅した天才数学者の末路 「賭博に負けない唯一最高の方法は…」

連載「歴史上の人物を診る」

カルダーノは若いころから数学好きであったが、その動機は大好きな賭博に勝ちたいという不純なものであった。患者が来ないための暇つぶしから、やがて元手を作るために高利の金を借りたり、妻の財産を勝手に処分したりという破滅的なレベルになってゆく。カルダーノは自伝で、

「私の行為には誉められるようなことは、おそらくなにひとつないだろう。(中略)自分でもわかっているのだが、私はチェスやさいころ遊びに没頭しすぎたのだ。これがため、尊敬と財産と時間とを同時に失った。弁解の余地はない。だがもし弁解せよと言われるなら、実は私は賭け事が好きだったのではなく、諸々の原因―中傷、不公平な仕打ち、貧困、ある人々の横柄な態度、社会の混乱、虚弱な体質、ひどい怠け癖、その他ありとあらゆることが私を賭博にかりたてたのだ」(青木靖三・榎本恵美子訳『わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯』社会思想社:現代教養文庫 1989)と記している。

■予測した自身の「命日」に自殺

 1980年になって米国精神医学会は精神障害の一つに「病的賭博」を加えた。各国を通じて高い罹病率があり、患者本人の人生と周囲の人々、社会に及ぼす深刻な影響にもかかわらず、他の精神疾患と比べて研究が遅れているという。

 診断基準は(a)持続的に繰り返される賭博、(b)貧困になる、家族関係が損なわれる、そして個人的生活が崩壊するなどの不利な社会的結果を招くにもかかわらず、持続し、しばしば増強する、という2つの指標がある。病的賭博は男性に多く知能が高い者にも珍しくないが、対人関係の問題が多く、時には反社会的行動につながるという。

 カルダーノの場合、最愛の長男が殺人罪で死刑になり、次男はヤクザになり、長女は梅毒で若死にするという不幸に見舞われて酒と賭博に逃避した事情はわからなくもない。しかし晩年、功成り名遂げて母校パドヴァ大学教授となってからも博打はやめなかった。さらに最晩年は、イエス・キリストのホロスコープを作ってその受難を予言したことから、法王庁に呼び出されてローマの邸宅に軟禁されてしまう。カルダーノの最期もこの奇人に相応しいものだった。

 彼は同時代の諸侯や高僧の星占いが高い的中率を示すことを誇っていたが 、自分のホロスコープも腕によりをかけて作成した。しかし、命日と予測した1576年9月21日夜になっても何も起きないため、自殺してけりをつけたのだった。彼の遺した「賭博必勝法」という小冊子は最大の遺産として親類縁者や弟子たちの奪い合いとなった。人々がこれを開くと「賭博に負けない唯一最高の方法は、手を出さぬこと」とあった。

◯早川 智(はやかわ・さとし)
1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など。https://dot.asahi.com/dot/2018111400047.html?page=2
 
ゼロ除算の発見は日本です:
∞???    
∞は定まった数ではない・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:

とても興味深く読みました:2014年2月2日 4周年を超えました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所


ゼロ除算関係論文・本

再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
そこで自然な考えが突然浮かんだ:
2017.11.13.10:45 突然、この流れで考えが湧いた。数学を芸術として楽しもうという新しい分野の創造の提案である。
数学は抽象的な理論、文章や式で表される場合が多く、社会の一般の方の理解が難しい不幸な状況にある。数理に興味を抱く多くの人々を遠ざけ、数理に喜びや楽しみがあるのに、スポーツやドラマ、芸術、文学などに比べて民衆の享受に寄与していないのは、数理の美しい世界の存在に比べて誠に残念な状況であると危惧される。― 数理の話題、ニュース、情報の極端に少ない現状からそう判断せざるを得ないのではないだろうか。数理科学を楽しみ、数理の世界の社会貢献、裾野の広がりを求めて、数学芸術 分野の創造と発展を提案したい。少し、具体的に触れるが いろいろな衆知を集めて構想そのものの進化を期待したい。
数学芸術は 数学の内容を、絵画やその他の手段で簡明な表現を求め、音楽や絵画が感動を呼び起すように 美しい表現を追求していく。
数理科学の社会的文化的基盤を拡充、充実発展させ、数理科学を芸術のように楽しみ、かつ 真智への愛 を育てる。
以 上

再生核研究所声明 459(2018.11.01):  数学者の反省、数学教育の反省
再生核研究所は 広く世の意見を求め それらに対する回答、見解を表明している。特にゼロで割る問題についての 数学の初歩についての歴史的な発見 を契機に 数学に対する意見がいろいろ 一般の方々から寄せられている。そのような社会の反響から、数学界の問題、数学教育の問題が次第に露わになってきた。そこで数学界の反省の観点から要点を纏めてみたい。 ある意味において神学とも言える数学の普及と数学の健全な発展と世に貢献すべき数学の在りようからの 独断と偏見に満ちた 視野の狭い一つの見解である。 次も参照:
再生核研究所声明 458(2018.10.29):  神の存在と信仰 - 悟りへの心得
再生核研究所声明 451(2018.9.14):   みんなの数学、大衆の数学 ― 和算の風土を取り戻そう
再生核研究所声明285(2016.02.10) :  数学者の性格、素性について
まず、世の数学に対する 結構広く存在する自然な心情、- 数学はダメ、数学は嫌い、興味も関心も無い、話したくもない。 これは 数学界の基本的な問題であり、数学教育の基本的な過ちを表していると言えるのではないだろうか。これでは数学自身の存在が脅かされ、文化を支えるべき数学が 基本的な役割を果たしているとは言えない。多くの素敵な人たちが、 受験勉強や教育の場で 数学に虐められたと表明している。 高校時代の素敵な女性にそのように 卒業後56年を経たクラス会で表明されて この声明のきっかけを得た。 ある化学の教授が 数学がどうも苦手で 化学を専攻せざるを得なかったという言葉も 永く、心に響いている。高校の担任は数学の先生で、50年を超えてクラス会に招かれている程だから、人物良好、尊敬される存在である。しかし、数学の教育は受験の必要性に迫られて 型にはまった教育にならざるを得なかった。それでも当時はまだ受験事情は 甘い余裕のある時代であった。 現在は受験数学の過熱さは凄くなっている現実があるのではないだろうか。 そのような事情は、数学嫌いな人々をどんどん多く育てている現実があるのではないかと危惧している。
ところが、このような状況に対して、数学好きな人々は 己が才能の優秀性を示す好機と見、数学者はこのような風潮を助長させているような状況が相当に見られると考えられる。 ― 多くの数学者は実際、受験の数学などに困っているような人は 既にダメと発想して、そのような状況を無視されてきたのではないだろうか。
― 数学の先生が、数学嫌いな生徒を馬鹿にするような風潮が広く見られ、多くの生徒が永く傷つき、数学と数学の先生に恨みさえ懐いている現実は 相当に見られるのではないだろうか。また数学の歴史には 競争をしたり、自分の才能を示したいという数学者の存念が表れているが、研究の面では 仕方がなく、数学者が自己中心で視野も狭く、子供っぽいとの批判も 研究上はやむを得ないと弁明せざるを得ない。しかしながら、競争のための数学界では情けない。 ノーベル賞などの価値観に対しては、文化への、社会への貢献の視点で確立しているように見られるのに対して、数学界ではいわば競争のための数学、分からない内容での評価があって、一般の人には状況が分からない、それ故に社会の関心が湧かない状況にあることにも注目される。
日本では数学ができる、頭が良い、高学歴の変な文化を育て 数学の社会的な存在基盤を弱くして 閉じた狭いエリート社会を構成している状況が広く見られる。 数学の研究、教育が 広い社会的な存在にならず、閉じた極めて小さな存在になっていると思われる。数学界のいろいろな賞等フィールズ賞でさえ、マスコミや世の話題にもならず、それらは 我々にとって何の意味もないと多くの人は興味を懐かず、無関心である。 数学者自身理屈っぽく、社会性がなく、変人が多く、自己中心の視野の狭い人々の集まりと 考えられているのではないだろうか。 ― 研究者としては やもう得ない面と考えられるが 教育面では改めたい。
前向きに考えれば、まず数学教育の中心を 数学の楽しさ、数学の精神を身に付ける教育への回帰を提案したい。受験や選別、競争のための型にはまった訓練を超えて、多くの人々が数学とは 楽しいものであるとの認識を持つような教育を まずは 志向すべきである。 当然、数学者は真理を求める真摯な態度で 公正で、競争や優秀性の観点の精神ではなく 人々から尊敬されるような人物と見なされるべき人物を志向すべきである。- ポルトガルでは サッカーが大衆レベルで人気が有り、それ故にサッカー選手は 尊敬の 話題の中心である。 日本では 数学の愛好者が多く、数学者は尊敬され、 数学が社会の話題で多い。これは無理としても、そのような在りようを志向するのは良いのではないだろうか。
受験のための数学より、文化のため、文化の基礎のための数学、芸術、楽しみのための数学の視点は 大事ではないだろうか。
マスコミやマスメデア関係者には いわゆる 文系が多く、特に上記で述べたように数学嫌い、数学者嫌いの方々が多く、数学界の情報は 社会的な広がりを見せない異常な状態ではないだろうが。それで分かり易い、スポーツ、芸能、ドラマ、犯罪の扱い、追究などの異常な氾濫を招いていて、数理科学の情報が閉ざされているのではないだろうか。これはもちろん、狭い見解、偏見であろう。
数学者や数学教育についてのご意見など頂ければ、美しい数学のために 活かしたい。この地域では 柚子が沢山なっていて、美しく色づいている。
以 上

再生核研究所声明 401(2017.11.18):  数学の全体、姿、生命力


ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
この文脈で数学の全体と生命力について言及して置きたい。数学とは、時間にもエネルギーにもよらない関係の全体であるから、数学的な論理思考を備えた高度な人工知能が自動的に数学を発展させていく可能性を否定できない。初歩的な数学では、実際、そのような試みがなされているという。人間を離れた、数学の全体像はどのようになるだろうか。基本的な仮説の上に何でも考えて、- これはいろいろな場合に当たって 何でも試行していく方法がとられるだろう。- しかしながら、人工知能が新しい概念や、定義を与えられるかは本質的な問題ではないだろうか。このような思いで数学の全体像を想像すると、基本的な仮定からどんどんいろいろな関係を導き、それは大樹のような姿に成るのではないだろうか。数学の客観的な存在はそのようであると考えられる。
ところが現在数学は人が展開して、発展させている状況から、数学の発展は 人間によるという現実がある。数学の客観的な在りように人間が関与してくる。そこで、関与する人間の興味と関心でどんどん進む状況と他からの要請でどんどん進む方向が存在する。後者は位置づけが明瞭であるが、前者の純粋数学の発展の様は大いに注目される。共通的な興味、関心で研究者の多い分野が存在し、いわゆる権威ある者の影響で門下生が多く、深く研究が進む状況は良くみられる。有名な難問に挑戦する相当な研究者集団も顕著である。数学にもブームや流行が有って、ある時期、相当に流行って研究会などで大きな話題になった話題が20年や30年くらい経つと関与する研究者が殆どいなくなってしまう状況がみられる。
それで、数学が大きな生命力をもって発展する華やかな時代と、細分化が進み、他との関係、他に影響や関心を与えない程になって、衰退していく、いわば大木では幹の部分から小さな枝や葉の部分になって数学は終末を迎えるのではないだろうか。数学は時間やエネルギーにもよらない不変なものであるが 数学の担い手である、人間に関与していて、人間が命ある生命であるように 数学も人間の影響を受けていると考えられる。
その意味で純粋数学者は、現在の 数学の位置づけ と 自分の心 をしっかりと捉えることが大事ではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明 405(2017.12.31):  ゼロ除算が拓いた幾何学の現象 ― 堪らなく楽しい新奇な現象 - デカルトの円定理から
図と式の表現が表しにくいので 簡単に参照されるサイトhttps://arxiv.org/abs/1711.04961
を挙げて その中の図と式を参照して頂いて、ゼロ除算が如何に面白いかを解説したい。
まず、始めにデカルトの円定理と呼ばれる美しい定理を参照して下さい。3つの円が外接するときに、それらに内接したり、外接する円の半径の間の関係を確立した定理です。
式は美しいのですが、表現で4つの半径は、完全に対称になっていることに気づけばさらに 美しさを深く理解できます。
論文の発想は、そもそも、点や直線は円の特別な場合と見なせるという数学を想起して、デカルトの円定理で述べた基の3つの円を 点や直線に置き換えた場合にも成り立つかと問題にしました。 点は半径ゼロの円ですが、直線も半径ゼロの円だということはゼロ除算の結果導かれた発見です。すると、デカルトの円定理の式で、1/0  が出てきますが、それらはゼロと解釈すれば 良いとなります。それで、2つが円で、もう一つが共通接線である場合を考えると、図1-2のようですが、きれいに成り立っていることが分かります。 この辺の定理、事実は和算の得意とする分野で、デカルトの円定理も含めて和算でも広く知られていたということです。3つの円が、点や直線になった場合をすべて考えてみて何時でも成り立てば、デカルトの円定理は 一層美しいと言えます。 あらゆる場合を考えるのですが、2つが円で、一つが点の場合、それらに接する円は存在しないようですので、その場合デカルトの円定理は成り立たないようにみえます。
そこで、点では成り立たないので、小さな円の場合を考えて、その円を点にした場合にどうなるかを考えてみました。どんな小さな円でもデカルトの円定理は成り立っていますから、その小さな円の半径がゼロに近づいた場合を 考えてみるとどうなるかと考えたくなります。
数学的に厳格に議論するために、3つの円と内接円(外接円)をきちんと方程式で書いて議論しました。 円を点にするとき、 円の表現は孤立特異点を有していて、そこでは考えられないというのが 現代数学です。 ゼロ分の式はゼロのところで考えられないからです。 例えば、定理7の円の方程式で、z = 1,-1 の場合が考えられる。そこで、意味のある図形が出てくる。 ゼロ除算算法では孤立特異点で有限確定値を与えることができますので、今まで考えられなかった特異点で考えみました。― 無限の彼方が、特異点に成る場合も多い。その結果、驚嘆すべきことが起きていることが分かりました。(この辺の記述は厳密な表現より情念に思いを入れました)。
その特異点から、点円原点と、赤い円と青い円が出て来ることが分かりました。点がこれらの3つに分かれて出てきたという実に面白い現象です。 原点の場合にはデカルトの定理が成り立ちませんが、赤い円では、何とデカルトの円定理が成り立っていることが、ゼロ除算算法での計算の結果から確認できます。 青い円は美しい状況に置かれた円ですが、それは点に近づけた円が、突然、元の2つの円に外接する、しかもちょうどそれらの円を直径にする円に変形したと解釈すると、ちょうど内接する円が 緑の円で、デカルトの定理が成り立っているという、驚嘆すべき現象です。
点に成って定理が成り立たない場面で、点が突然変異を起こして定理をそのまま成り立たせている現象が現れたと発想すると、この現象は世の一般的な現象における新規な現象として注目すべきではないでしょうか。 見かけ上成り立たない場合、そこが変形して成り立たせる世界が存在する。 ― ものは燃焼で変形する、変形以前のあるものは変形してもそのまま、引き継がれている。意味深長では ないだろうか。― 山根現象を想起して下さい。 ― これは、運動エネルギーが一定であったものが ある時、物質は突然消えて、物質は消えて運動エネルギーが熱エネルギーに変化する現象を表しています。
赤い円は、美しいので、その分野の有名なバーコフの円と呼ばれる円ですが、2つの円に直交していますが、点に近づいていくとき、 円は接していたのですが、出てきた円は接するのではなくて、直交でしょうか。 実に面白いことは ゼロ除算が発見した典型的な結果として、y軸の勾配はゼロ、\tan(\pi/2) =0 ですから、バーコフの円は2つの円に接しているということを述べていますから、 堪らなく楽しいと言えます。― 直交は接していると解釈できるという新発見です。 緑の円は美しく3つの円に接しています。
論文では、あらゆる場合を考えたと述べていますので、3つの円が3つの点でも、3本の直線の場合も考えて、デカルトの定理は成り立っていると述べていますので、さらに面白いです。それには、ゼロの意味を考えてゼロとは何かを発見する必要が有ります。
以 上                                  
神の数式:
神の数式が解析関数でかけて居れば、 特異点でローラン展開して、正則部の第1項を取れば、 何時でも有限値を得るので、 形式的に無限が出ても 実は問題なく 意味を有します。
物理学者如何でしょうか。

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​そこで、計算機は何時、1/0=0 ができるようになるでしょうか。 楽しみにしています。 もうできる進化した 計算機をお持ちの方は おられないですね。
これは凄い、面白い事件では? 計算機が人間を超えている 例では?

面白いことを発見しました。 計算機は 正しい答え 0/0=0
を出したのに、 この方は 間違いだと 言っている、思っているようです。
0/0=0 は 1300年も前に 算術の発見者によって与えられたにも関わらず、世界史は間違いだと とんでもないことを言ってきた。 世界史の恥。 実は a/0=0 が 何時も成り立っていた。 しかし、ここで 分数の意味を きちんと定義する必要がある。 計算機は、その意味さえ知っているようですね。 計算機、人間より賢くなっている 様が 出て居て 実に 面白い。
https://steemkr.com/utopian-io/@faisalamin/bug-zero-divide-by-zero-answers-is-zero
2018.10.11.11:23
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面白いことを発見しました。 計算機は 正しい答え 0/0=0
を出したのに、 この方は 間違いだと 言っている、思っているようです。
0/0=0 は 1300年も前に 算術の発見者によって与えられたにも関わらず、世界史は間違いだと とんでもないことを言ってきた。 実は a/0=0 が 何時も成り立っていた。しかし、ここで 分数の意味を きちんと定義する必要がある。 計算機は、その意味さえ知っているようですね。 計算機、人間より賢くなっている様が 出て居て 実に面白い。

 
https://steemkr.com/utopian-io/@faisalamin/bug-zero-divide-by-zero-answers-is-zero
2018.10.11.11:23

ゼロ除算、ゼロで割る問題、分からない、正しいのかなど、 良く理解できない人が 未だに 多いようです。そこで、簡潔な一般的な 解説を思い付きました。 もちろん、学会などでも述べていますが、 予断で 良く聞けないようです。まず、分数、a/b は a  割る b のことで、これは 方程式 x=a の解のことです。ところが、 b がゼロならば、 どんな xでも 0 x =0 ですから、a がゼロでなければ、解は存在せず、 従って 100/0 など、ゼロ除算は考えられない、できないとなってしまいます。 普通の意味では ゼロ除算は 不可能であるという、世界の常識、定説です。できない、不可能であると言われれば、いろいろ考えたくなるのが、人間らしい創造の精神です。 基本方程式 b x=a が b がゼロならば解けない、解が存在しないので、困るのですが、このようなとき、従来の結果が成り立つような意味で、解が考えられないかと、数学者は良く考えて来ました。 何と、 そのような方程式は 何時でも唯一つに 一般化された意味で解をもつと考える 方法があります。 Moore-Penrose 一般化逆の考え方です。 どんな行列の 逆行列を唯一つに定める 一般的な 素晴らしい、自然な考えです。その考えだと、 b がゼロの時、解はゼロが出るので、 a/0=0 と定義するのは 当然です。 すなわち、この意味で 方程式の解を考えて 分数を考えれば、ゼロ除算は ゼロとして定まる ということです。ただ一つに定まるのですから、 この考えは 自然で、その意味を知りたいと 考えるのは、当然ではないでしょうか?初等数学全般に影響を与える ユークリッド以来の新世界が 現れてきます。
ゼロ除算の誤解は深刻:

最近、3つの事が在りました。

私の簡単な講演、相当な数学者が信じられないような誤解をして、全然理解できなく、目が回っているいるような印象を受けたこと、
相当ゼロ除算の研究をされている方が、基本を誤解されていたこと、1/0 の定義を誤解されていた。
相当な才能の持ち主が、連続性や順序に拘って、4年以上もゼロ除算の研究を避けていたこと。

これらのことは、人間如何に予断と偏見にハマった存在であるかを教えている。
まずは ゼロ除算は不可能であるの 思いが強すぎで、初めからダメ、考えない、無視の気持ちが、強い。 ゼロ除算を従来の 掛け算の逆と考えると、不可能であるが 証明されてしまうので、割り算の意味を拡張しないと、考えられない。それで、 1/0,0/0,z/0 などの意味を発見する必要がある。 それらの意味は、普通の意味ではないことの 初めの考えを飛ばして ダメ、ダメの感情が 突っ走ている。 非ユークリッド幾何学の出現や天動説が地動説に変わった世界史の事件のような 形相と言える。
2018.9.22.6:41
ゼロ除算の4つの誤解:
1.      ゼロでは割れない、ゼロ除算は 不可能である との考え方に拘って、思考停止している。 普通、不可能であるは、考え方や意味を拡張して 可能にできないかと考えるのが 数学の伝統であるが、それができない。
2.      可能にする考え方が 紹介されても ゼロ除算の意味を誤解して、繰り返し間違えている。可能にする理論を 素直に理解しない、 強い従来の考えに縛られている。拘っている。
3.      ゼロ除算を関数に適用すると 強力な不連続性を示すが、連続性のアリストテレス以来の 連続性の考えに囚われていて 強力な不連続性を受け入れられない。数学では、不連続性の概念を明確に持っているのに、不連続性の凄い現象に、ゼロ除算の場合には 理解できない。
4.      深刻な誤解は、ゼロ除算は本質的に定義であり、仮定に基づいているので 疑いの気持ちがぬぐえず、ダメ、怪しいと誤解している。数学が公理系に基づいた理論体系のように、ゼロ除算は 新しい仮定に基づいていること。 定義に基づいていることの認識が良く理解できず、誤解している。
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.



Eπi =-1 (1748)(Leonhard Euler)
1/0=0/0=0 (2014年2月2日再生核研究所)


1+1=2  (      )
a2+b2=c2 (Pythagoras)
1/0=0/0=0(2014年2月2日再生核研究所)
         

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