2017年11月13日月曜日

今週の本棚 村上陽一郎・評 『完訳 天球回転論 コペルニクス天文学集成』=ニコラウス・コペルニクス著

今週の本棚 村上陽一郎・評 『完訳 天球回転論 コペルニクス天文学集成』=ニコラウス・コペルニクス著

「革命」の最重要典拠 公刊は歴史的事件

 「天が動くのか・大地が動くのか」、文字通り天地がひっくり返るこの大転換を成し遂げた、と言われるコペルニクス。カントは自らの立場の新しさを表現するために、「コペルニクス的転換」と謳(うた)い、「コペルニクス革命」という表現も珍しくない。十六世紀半ば、この説が発表され、それを支持したガリレオが筆禍に遭い、科学と宗教の軋轢(あつれき)を論じる際の、代表的事例としても扱われてきた。そのような受け止め方の是非は措(お)くとして、そのコペルニクスの主著の翻訳は、これまでに、戦後間もなく科学史の先達矢島祐利の『天体の回転について』(岩波文庫)が唯一の存在であった。これは、原著全六巻の第一巻の訳であり、基本的には仏語からの重訳とも言えるもので、先鞭(せんべん)を付けた矢島氏の苦労は多とするも、全訳でないことに加えて、原典の選択、表題の付け方、あるいは内容上でも、今となっては幾つかの重大な難点を指摘せざるを得ない状態であって、新訳の発表が渇仰されていた。今回、訳者として望むべき最高の人物を得て、本書の公刊に至ったことは、歴史的な事件とも言うべきで、索引も入れれば七百ページを超える大部、価格も高額で、内容の専門性も高く、一般の読者に手軽にお勧めするべき書物ではないが、日本でも人口に膾炙(かいしゃ)した「コペルニクス革命」なるものの本質を知るために、立ち返るべき最重要な典拠が、正確、精密な形で私たちの財産になった事実は、少なくとも常識のなかに組み込まれてよいことだと信じる。逆に言えば、それほど今の常識のなかで、コペルニクスの業績は歪(ゆが)められてきたとも言えるだろう。
 本書の構成は、原典(ラテン語)の批判的選択に始まり、面倒な計算も厭(いと)わずに、極めて綿密な訳者注を加えた第六巻までの訳文、さらにガリレオ事件の先駆となった、原著の「禁書目録」入りを示すと言われる、一六二〇年教皇庁図書検閲部局の発した「裁断文」の翻訳が第一部をなし、第二部では、この主著が一五四三年に発表される前に、コペルニクスの所説のメモのような形で当時の知識人の間に流布された「コメンタリオルス」という短い文書の注釈付き翻訳、さらに、同時代人でドイツの地理学者として知られていたヨハン・ヴェルナーの、天文現象に関する小論への反駁(はんばく)を目的に書かれたコペルニクスの(友人宛の)書簡の翻訳が第三部、そして訳者自身のこの問題に対する歴史的解釈と展望が語られた第四部で締め括(くく)られる。まことに至れり尽(つく)せりの組み立てというべきだろう。
 私たちは、地動説が科学的に正しく、天動説は科学的に間違っている、と信じている。ここで触れておくが、「天動・地動」という言い方は、儒学者がこの問題を論じる時に使い始めたもので、ヨーロッパ語では、「地球中心説」(天動説)、「太陽中心説」(地動説)が普通である。要するに問題の核心は、宇宙の中心には地球があるのか、太陽があるのか、なのである(もっとも、こう問題を立てれば、地球、太陽以外の何かが中心にある可能性も否定はできないが)。話を戻そう。確かに、地球が太陽系の惑星の一つであって、自転しながら公転していることを証拠立てる科学的な根拠を、私たちは今幾つか持っている。しかしそれらの根拠となる事実が手に入ったのは、コペルニクスの時代より何世紀も後のことであって、コペルニクスが、今の「科学的」な立場で「太陽中心説」(と書くことにしよう)を提唱したわけではない。確かに、本書を読んでも、地球が動くことが常識に反する、と思われることへの反論として、船がゆっくりと動き始めたとき、自分が動いているのか、周りが動いているのか、判(わか)らない、といった今でいう「慣性系」の立論をしている箇所も眼(め)に入る。しかし、「科学的」根拠からではないとすれば、コペルニクスをして、多くの計算をやり直さなければならない煩雑さを犠牲にして、天体現象の相当部分を極めて正確に記述し得ていた、伝統的なプトレマイオス説(地球中心説)を何故(なぜ)捨て去るに至ったかについては、本書を精査しても、明確な答を見いだすことは難しい点は、訳者高橋氏も認めている。
 しかし当然、この問いへの、あり得べき答えを高橋氏も慎重に検討する。評子自身は、当時の学問世界の流行であった新プラトン主義的な宇宙観、特にM・フィチーノの「光論」や「太陽論」に光を当てた解釈を試みてきたが、高橋氏は、第四部で、消去法に基づいて、そうした解釈の可能性は薄いと論じている。その点では、評子は高橋氏の批判を受ける立場にある。そして、スワードローという研究者の所説を媒介にして、非常におおざっぱに概括すれば、数学的計算にあって、より正確さを求めようとしたところに、コペルニクスの出発点があるのでは、と高橋氏は結論付けようとしているかに見える。
 しかしそれは措こう。何しろ、今回の翻訳出版は日本の読書界にとって何度とない慶事なのである。(高橋憲一訳)https://mainichi.jp/articles/20171112/ddm/015/070/002000c

とても興味深く読みました:
再生核研究所声明 395(2017.11.5):  ゼロ除算物語 - 記録、回想

ゼロで割る問題は、ゼロ除算は 2014.2.2 友人二人に100/0=0を認識したとメールしてから、面白いいろいろな経過があって発展している。 再生核研究所声明や解説などで経過を述べてきたが、印象深い事実をできるだけ事実として記録して置きたい。文献は整理して保管するように整理して置きたい。事実を記録するため、以下詳しい記録は特別な仲間以外は この世を去って3年間は未公開としたい。絶えずできるだけ更新、記録を随時追加していきたい。
2017.11.05.05:40 晴天

再生核研究所声明 394(2017.11.4):  ゼロで割れるか ― ゼロで割ったらユークリッド以来の新世界が現れた

ゼロで割る問題は、ゼロ除算は Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスはゼロ除算の不可能性を述べていたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べている。
まずゼロで割れるか否かの問題を論じるとき、その定義をしっかりすることが大事である。 定義をきちんとしないために空回りの議論をしている文献が大部分である。何十年も超えて空回りをしている者が多い。割れるとはどのような意味かと問題にしなければならない。 数学界の常識、割り算は掛け算の逆であり、az =b の解をb割るaと定義し、分数b/a を定義すると考えれば、直ちにa=0の場合には、一般に考えられないと結論される。それで、ゼロ除算は神でもできないとか神秘的な議論が世に氾濫している。しかしながら、この基本的な方程式の解が何時でも一意に存在するように定義するいろいろな考え方が存在する。有名で相当な歴史を有する考え方が、Moore-Penrose一般逆である。その解はa=0 のとき、ただ一つの解z=0 を定める。よって、この意味で方程式の解を定義すれば、ゼロ除算 b/0, b割るゼロはゼロであると言える。そこで、このような発想、定義は自然であるから、発見の動機、経緯は違うが、ゼロ除算は可能で、b/0=0 であると言明した。Moore-Penrose一般逆の自然性を認識して、ゼロ除算は自明であり、b/0=0 であるとした。
それゆえに、神秘的な歴史を持つ、ゼロ除算は 実は当たり前であったが、現在でもそうは認識されず混乱が続いている。その理由は、関数 W = 1/z の原点での値をゼロとする考えに発展、適用するとユークリッド以来、アリストテレス以来の世界観の変更に繋がるからである。1/0は無限大、無限と発想しているからである。実際、原点の近くは限りなく原点から遠ざかり、限りなく遠くの点、無限の彼方に写っている歴然とした現象か存在する。しかるに 原点が原点に写るというのであるから、これらの世界観は ユークリッド空間、アリストテレスの世界観に反することになる。それゆえに Moore-Penrose一般逆は一元一次方程式の場合、意味がないものとして思考が封じられてきたと考えられる。
そこで、この新しい数学、世界観が、我々の数学や世界に合っているか否かを広範囲に調べてみることにした。その結果、ユークリッドやアリストテレスの世界観は違っていて、広範な修正が必要であることが分った。

そこで、次のように表現して、広く内外に意見を求めている:

 Dear the leading mathematicians and colleagues:
 Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16.  
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
 三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40) 
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:

 

数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学

www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上


再生核研究所声明 393(2017.11.3):  ゼロ除算の認知と真相の解明、究明を求める

ゼロで割る問題、ゼロ除算は 狭くは Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスがゼロ除算の不可能性を示していたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している状況である。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べて、 次のように表現して、広く内外に意見を求めている:

 Dear the leading mathematicians and colleagues:
 Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hi roshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16.  
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
 三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40) 
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:

 

数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学

www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上

再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について
平和が永く続くと歌謡界、スポーツ界、芸能界など、重層に深く発展して、いわゆる一般の人たちには近づけない形相を帯びてくる。NHK大河ドラマや朝ドラなどの映像など 高級でどうして作れたか不思議でならない。しかし、ここに挙げた分野などでは、それらの良さが一般の人たちにも理解され 楽しませてくれるので、社会貢献、社会の役割などは相当理解できる。
このような視点から、数学について考えてみたい。人類精神の名誉のため の研究ではなく、専門外の人にとっての数学である。
まず、数学の役割であるが、それはギリシャ時代以来、数学の学習を通しての論理的な思考の訓練と、科学を記述する言語としての数学教育が重要視され、実際、各種入試などでは 数学の学力は重視されてきている。- これらの要請は、計算機や人工知能が 発達しても当分 本質は変わらないと言えるだろう。しかし、これらの状況に従って、カリキュラムの在り様や、教育の精神は絶えず変更が必要であろう。
上記に述べられている内容については、素材は相当に固まっていて、教育内容は安定していると見られるのではないだろうか。
そこで、日進月歩の数学研究内容の高度化と深さは、他の分野に比べて、数学の抽象性もあって、理解が困難で、専門家の間でさえ交流できない状況は普遍的見られる。一般人にとっては、大抵は始めから話題にもできず、内容の理解の最初の1歩さえ、踏み込めないであろう。すなわち多くの研究成果は、社会的にも一般の人にも何にもならない内容であると考えられる。しかし、物理的な問題、医学的な問題など具体的な問題解決の観点から等 具体的な研究の位置づけのある研究は 何も一般人に理解できなくても 当然そのような研究は十分に意義があることは誰にでも分かるだろう。しかしながら、数学内部から湧いた純粋な数学の内容は高級で、抽象的で、理解もできず、興味、関心を呼び起こすことは相当に難しいのではないだろうか。そのような課題は、数学界以外では ほとんど意味がないと言われかねない。これが現代数学における純粋数学の姿ではないだろうか。
もちろん、人類の名誉のための 自由な研究は それ自体 誠に 尊いものである。しかしながら、数学界が社会でより安定的な存在になるためには、高等数学より、基礎的な数学を重視し、数学の興味や好奇心を駆り立てる教育的な視点を強めていくのが 良いのではないだろうか。教育より研究であるという発想は、高等研究機関や大学などでは当然、としても 広範な大学や学校では勧められない発想ではないだろうか。 評価、評価の世相が 研究や形式的な研究業績などに拘りすぎている世相が無いかと気になる。数学の教育や数学の社会的な存在性に配慮していきたい。― 何のための数学かとは 絶えず問うていきたい。
数学の研究ではなく、数学を楽しんでいるような先生は、教授は世に必要であり、良い先生であり、良い教育者ではないだろうか。世情、研究者自身本意ではない つまらない抽象的な研究に走り過ぎてはいないであろうか。楽しむような数学を世に広めたい。― もちろん、これは一面の観点である。
以 上


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