人間を変えるメディア、「能」<前編>
『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)の刊行記念イベントとして、著者である能楽師、安田登さんと、『数学する身体』(新潮社)の森田真生さんの対談が、東京のカメリアホールで開催された。「能を数学で、聞く」という顔合わせも内容も異色の対談だが、ふたりは奇妙にも根底で繋がってゆく。200人近い参加者の熱気にあふれた会場の様子を、ふたりを知る哲学者・下西風澄さんにレポートしてもらった。
言葉と歌
かつて、言葉と歌はひとつだった。
古代ギリシアでは、ラプソードスと呼ばれる吟遊詩人が神話を歌い、デュオニソスの神を言祝ぐ祝祭では、熱狂する群衆はきらびやかに仮装し、笛を鳴らし、昼夜にわたって世界と一体化して乱舞した。彼らは詩を歌い、劇を演ずることで、文明を維持するために必要な社会的記憶を血肉化させた。
人間が文字を発明したとき、歌と言葉が別れた。
言葉は「歌われる声」ではなく、「書かれる意味」となったのだ。記憶を頭の外に取り出して保存することができるようになったとき、思考は外在化し、知の形式化が加速した。ソクラテスは偉大な詩人ホメロスの詩に、その「意味」と「根拠」を問い、プラトンがその全てを文字に書き起こしたとき、「哲学」がはじまり、「歌われる言葉」としての詩の魔力は封じられた。経験は韻律と演劇によって記憶されるべきものではなく、検証され思考される対象となった。一心不乱に歌い、踊ることによって世界に「参加する」という人間存在のあり方は文字の登場によって失われ、代わりに言葉によって「私」が「世界」を「認識する」という、人間と世界の新しい関係性のモデルが誕生したのだ。以来、西洋世界では「芸術」と「知」は別々の道を歩むこととなる。
ワーグナーの音楽をこよなく愛したドイツの哲学者ニーチェが、古代ギリシア悲劇の研究から、西洋に眠った知と芸術の合一を掘り起こそうとしたのは19世紀の末である。そしてニーチェは、「わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう」と言ったのである。
古代ギリシアでは、ラプソードスと呼ばれる吟遊詩人が神話を歌い、デュオニソスの神を言祝ぐ祝祭では、熱狂する群衆はきらびやかに仮装し、笛を鳴らし、昼夜にわたって世界と一体化して乱舞した。彼らは詩を歌い、劇を演ずることで、文明を維持するために必要な社会的記憶を血肉化させた。
人間が文字を発明したとき、歌と言葉が別れた。
言葉は「歌われる声」ではなく、「書かれる意味」となったのだ。記憶を頭の外に取り出して保存することができるようになったとき、思考は外在化し、知の形式化が加速した。ソクラテスは偉大な詩人ホメロスの詩に、その「意味」と「根拠」を問い、プラトンがその全てを文字に書き起こしたとき、「哲学」がはじまり、「歌われる言葉」としての詩の魔力は封じられた。経験は韻律と演劇によって記憶されるべきものではなく、検証され思考される対象となった。一心不乱に歌い、踊ることによって世界に「参加する」という人間存在のあり方は文字の登場によって失われ、代わりに言葉によって「私」が「世界」を「認識する」という、人間と世界の新しい関係性のモデルが誕生したのだ。以来、西洋世界では「芸術」と「知」は別々の道を歩むこととなる。
ワーグナーの音楽をこよなく愛したドイツの哲学者ニーチェが、古代ギリシア悲劇の研究から、西洋に眠った知と芸術の合一を掘り起こそうとしたのは19世紀の末である。そしてニーチェは、「わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう」と言ったのである。
能の大成者・世阿弥は身体をもって踊る舞のなかに思想を具現化した。「花は心、種は態(わざ)」(『風姿花伝』)。一粒の種が季節の風に育まれていつしか花を咲かせるように、身体と心は一体として離れない。それが、日本が連綿と紡いできたひとつの思想であり、能はそれを象徴する文化であった。
能楽師が謡い、舞うとき、私たちは、言葉と歌が分かちがたく絡まっていた原始の記憶を想うだろう。能楽師・安田登の語る能の魅惑とは。その秘密を、数学を語る森田真生との対話の中から考えていきたいと思う。
能楽師が謡い、舞うとき、私たちは、言葉と歌が分かちがたく絡まっていた原始の記憶を想うだろう。能楽師・安田登の語る能の魅惑とは。その秘密を、数学を語る森田真生との対話の中から考えていきたいと思う。
「初心忘るべからず」の本当の意味
「みなさんの多くが能を観たことがないし、観たことがあっても、眠ってしまったのではないですか?」
安田登は対談の冒頭で、こう問いかけた。能はなぜ、一見するとつまらない芸能なのに、650年一度も途切れずに続いてきたのか。その問いこそ、新著『能』で解き明かされるテーマである。
「初心忘るべからず」という世阿弥が伝えた言葉は、「初めての時の気持ちをいつまでも忘れない」という意味だとよく言われるが、その真意は別にあるという。「初」という漢字は「衣」に「刀」と書く。真っ更な布に刀(鋏)を入れて裁ち切ること、新たなステージに差し掛かった時、過去の自分を思い切り裁ち切ること、それが「初心」である。
安田登は対談の冒頭で、こう問いかけた。能はなぜ、一見するとつまらない芸能なのに、650年一度も途切れずに続いてきたのか。その問いこそ、新著『能』で解き明かされるテーマである。
「初心忘るべからず」という世阿弥が伝えた言葉は、「初めての時の気持ちをいつまでも忘れない」という意味だとよく言われるが、その真意は別にあるという。「初」という漢字は「衣」に「刀」と書く。真っ更な布に刀(鋏)を入れて裁ち切ること、新たなステージに差し掛かった時、過去の自分を思い切り裁ち切ること、それが「初心」である。
“折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな”
—安田登『能 650年続いた仕掛けとは』,14頁
能は「伝統芸能」というイメージを強く持つが、その形式は世阿弥の「初心」に従って、幾度となく形を変えている。たとえば安田の新著では、江戸時代までは能の謡のスピードは、現在の2~3倍の速さで、ほとんど現代の「ラップ」にさえ近いものだったという驚くべき事実が語られている。
長い時を経て、その伝統の形式がようやく確立したとき、「初心」という「時限爆弾」のようなものが起動し、伝統は全く新しい姿へと生まれ変わる。能には、誰もが継承できる「伝統」と、それを自ら裁ち切って壊す「初心」の二つがあった。伝統を維持する仕組みのなかに、自ら大きく変化し続ける仕掛けがあったからこそ、能は永く続いてきたのだと安田は語った。
長い時を経て、その伝統の形式がようやく確立したとき、「初心」という「時限爆弾」のようなものが起動し、伝統は全く新しい姿へと生まれ変わる。能には、誰もが継承できる「伝統」と、それを自ら裁ち切って壊す「初心」の二つがあった。伝統を維持する仕組みのなかに、自ら大きく変化し続ける仕掛けがあったからこそ、能は永く続いてきたのだと安田は語った。
日本と西洋の数学
「日本の数学の大きな変化は、外部から到来した」と森田真生は語る。
明治以前には、「1」「2」「3」と書く算用数字を用いる習慣がなかったため、筆算もできなかった。筆算ができれば「そろばん」がなくても、紙と鉛筆だけで計算ができるのだ。これは当時の日本人にとっては衝撃的なことだった。
明治以前には、「1」「2」「3」と書く算用数字を用いる習慣がなかったため、筆算もできなかった。筆算ができれば「そろばん」がなくても、紙と鉛筆だけで計算ができるのだ。これは当時の日本人にとっては衝撃的なことだった。
明治以前に発達した日本の数学は「和算」と呼ばれる。そこでは様々な「特殊算」が愛好された。たとえば「鶴亀算」では、「鶴と亀を数える」という特殊な状況に寄り添った計算手続きを学ぶが、西洋数学では同じ問題を連立方程式によって解く。連立方程式による解法は、鶴亀算以外の様々な場面でも使える普遍的な問題解決の手続きである。逆に言えば、私たちは方程式を使うとき「計算の意味を忘れても、正しく計算ができる」。アルゴリズムに従った機械的な操作で計算ができるようになるのだ。
数式という新しい道具を手にした私たちは、意味を切り離して有用な計算を実行できるようになった。その究極の形式がコンピュータであると言っていい。コンピュータは、実際には何も考えていなかったとしても、外から見ると知的に振る舞っているとみなすことができる。
数学を通して普遍性を追究してきた西洋でコンピュータが生まれた。しかし、日本が西洋数学を知ったのは、たった150年ほど前である。「いったい、日本の風土と思想のなかで、どんな数学が可能なのか?」。著書『数学する身体』で森田は、この問いを真剣に受け止めた日本の数学者、岡潔に注目した。
「論理も計算もない数学」を夢見た岡潔は、日本の数学に思想的な「根」を与えなければならないと考えて、道元や芭蕉、夏目漱石を読んだ。いかにして伝統を紡ぎながら、自身で新たな方法を作っていけるのだろうか。そのヒントが安田の新著に隠されているのではないかと思ったと森田はいう。
数式という新しい道具を手にした私たちは、意味を切り離して有用な計算を実行できるようになった。その究極の形式がコンピュータであると言っていい。コンピュータは、実際には何も考えていなかったとしても、外から見ると知的に振る舞っているとみなすことができる。
数学を通して普遍性を追究してきた西洋でコンピュータが生まれた。しかし、日本が西洋数学を知ったのは、たった150年ほど前である。「いったい、日本の風土と思想のなかで、どんな数学が可能なのか?」。著書『数学する身体』で森田は、この問いを真剣に受け止めた日本の数学者、岡潔に注目した。
「論理も計算もない数学」を夢見た岡潔は、日本の数学に思想的な「根」を与えなければならないと考えて、道元や芭蕉、夏目漱石を読んだ。いかにして伝統を紡ぎながら、自身で新たな方法を作っていけるのだろうか。そのヒントが安田の新著に隠されているのではないかと思ったと森田はいう。
人間を変える「能」
能が続いてきた理由として、能は「はまる」と脱け出せない人が多いのではないか、と安田は推測する。例えば、謡を習っていた夏目漱石も、最初は能を小馬鹿にしていた節があるが、ある時期からだんだんとのめり込んでいって、小説『草枕』では物語全体がまるで能の「夢幻能」の構造として読めるほど影響を受けていったという。
650年という長い歴史のあいだには、能の伝統が途絶えそうになる危機もあった。長らく能をパトロンとして支えていた江戸の大名達が力を失い、終いには最大の支援者たる幕府が倒れ、明治に突入した時期は危機の一つだった。しかし能楽師はそれでも能が大好きだったため、能を辞めてしまうどころか、その辺の橋のたもとで謡(能の詞章部分)を謡ったという。「能をいったん覚えると、後戻りできないくらい別の人間になってしまうのではないか」。自ら能を舞い、また多くのワークショップで能を教えてきた安田はそう実感していると話す。
ここに、能の特異性があるのかもしれない。たとえば、「映画」は監督が作りこんだ世界を観客は受け入れる。しかし、能の舞台背景には一本の松しか描かれていないにもかかわらず、能を観る者はここにありとあらゆる景色を読み込む。いわば、脳内でAR(オーギュメンテッドリアリティ:拡張現実)を発動させている。能を覚えてしまった人間は、知覚レベルでの強力な変容をこうむるのだ。
これは、実際のAR技術とも異なる。ARはデバイスをつければ誰でも映像を観ることができるし、全員が同じ映像を観ることができる。これはいわば、人間を「心がない存在」として考えているメディアだと言える。しかし、能は人間が仮想的な現実を自ら立ち上げる「心のある存在」として捉え、自身で映像が見えるようになるまで、すなわちその人間が変容するまで訓練(稽古)を求めるのだ。「だから、能をほんとうに楽しもうと思ったら、「能を分かる」のではなく、「能と共に生きる」ことが必要なのです」と、安田は熱く語った。
650年という長い歴史のあいだには、能の伝統が途絶えそうになる危機もあった。長らく能をパトロンとして支えていた江戸の大名達が力を失い、終いには最大の支援者たる幕府が倒れ、明治に突入した時期は危機の一つだった。しかし能楽師はそれでも能が大好きだったため、能を辞めてしまうどころか、その辺の橋のたもとで謡(能の詞章部分)を謡ったという。「能をいったん覚えると、後戻りできないくらい別の人間になってしまうのではないか」。自ら能を舞い、また多くのワークショップで能を教えてきた安田はそう実感していると話す。
ここに、能の特異性があるのかもしれない。たとえば、「映画」は監督が作りこんだ世界を観客は受け入れる。しかし、能の舞台背景には一本の松しか描かれていないにもかかわらず、能を観る者はここにありとあらゆる景色を読み込む。いわば、脳内でAR(オーギュメンテッドリアリティ:拡張現実)を発動させている。能を覚えてしまった人間は、知覚レベルでの強力な変容をこうむるのだ。
これは、実際のAR技術とも異なる。ARはデバイスをつければ誰でも映像を観ることができるし、全員が同じ映像を観ることができる。これはいわば、人間を「心がない存在」として考えているメディアだと言える。しかし、能は人間が仮想的な現実を自ら立ち上げる「心のある存在」として捉え、自身で映像が見えるようになるまで、すなわちその人間が変容するまで訓練(稽古)を求めるのだ。「だから、能をほんとうに楽しもうと思ったら、「能を分かる」のではなく、「能と共に生きる」ことが必要なのです」と、安田は熱く語った。
「メディア」としての能
森田は『能』を読んで、まさに能とは「人間を変えるメディア」だと思ったと応えた。単に能の知識が書かれているのではなく、読み進めると能を自分自身でも習って謡いたくなるように書かれているし、実際に能を始めるための手引として師匠の選び方から月謝についてまで書いてあって、「安田さんは本気だ(笑)」と感じたという。
「メディアとは本来、人間を変えるものです」と森田は話す。たとえば、「文字」というメディアも、喋っていることを単に文字に置き換えているのならばつまらない。文字ができたことで、話し言葉によっては不可能な、抽象的な思考を可能にするように人間が変化した。つまり、文字の登場によって人間が別種の存在になってしまったことが、文字というメディアの偉大さだった。
パーソナル・コンピュータの父、アラン・ケイは現代のスマホ社会を見てがっかりしている、というエピソードを森田は紹介した。文字も書けるし映像も見られる、ゲームもできる。赤ちゃんからおじいちゃんまで使えるこの新しいメディアは、しかし人間を本質的には変えていない。コンピュータというメディアの本質を「メタ・メディア」、すなわち「メディアをつくるメディア」だと考えた彼は納得しなかったのだ。アラン・ケイの要求するメディアのレベルは高い。しかし、本来のメディアの意味を考えれば、コンピュータという新しいメディアが登場したならば、人間が別物にならなければいけない。
ここにも能に学ぶところがある。お客さんに高い要求をしながらも、能を観る人間を変えてしまう。その秘訣が能の伝統にあるのなら、「メディアがあまりにも人間に寄り添って優しくなってしまった現代にも、その潜在的な可能性を問い直すヒントがある」。そう森田は解釈し、能の伝統から現代のメディア環境にまで及ぶ視点を投げかけた。
「メディアとは本来、人間を変えるものです」と森田は話す。たとえば、「文字」というメディアも、喋っていることを単に文字に置き換えているのならばつまらない。文字ができたことで、話し言葉によっては不可能な、抽象的な思考を可能にするように人間が変化した。つまり、文字の登場によって人間が別種の存在になってしまったことが、文字というメディアの偉大さだった。
パーソナル・コンピュータの父、アラン・ケイは現代のスマホ社会を見てがっかりしている、というエピソードを森田は紹介した。文字も書けるし映像も見られる、ゲームもできる。赤ちゃんからおじいちゃんまで使えるこの新しいメディアは、しかし人間を本質的には変えていない。コンピュータというメディアの本質を「メタ・メディア」、すなわち「メディアをつくるメディア」だと考えた彼は納得しなかったのだ。アラン・ケイの要求するメディアのレベルは高い。しかし、本来のメディアの意味を考えれば、コンピュータという新しいメディアが登場したならば、人間が別物にならなければいけない。
ここにも能に学ぶところがある。お客さんに高い要求をしながらも、能を観る人間を変えてしまう。その秘訣が能の伝統にあるのなら、「メディアがあまりにも人間に寄り添って優しくなってしまった現代にも、その潜在的な可能性を問い直すヒントがある」。そう森田は解釈し、能の伝統から現代のメディア環境にまで及ぶ視点を投げかけた。
(「後編」へ続く)
(撮影・新潮社写真部 佐藤慎吾)http://kangaeruhito.jp/articles/-/2264
とても興味深く読みました:ゼロ除算は・・・・
再生核研究所声明 392(2017.11.2): 数学者の世界外からみた数学 ― 数学界の在り様について
平和が永く続くと歌謡界、スポーツ界、芸能界など、重層に深く発展して、いわゆる一般の人たちには近づけない形相を帯びてくる。NHK大河ドラマや朝ドラなどの映像など 高級でどうして作れたか不思議でならない。しかし、ここに挙げた分野などでは、それらの良さが一般の人たちにも理解され 楽しませてくれるので、社会貢献、社会の役割などは相当理解できる。
このような視点から、数学について考えてみたい。人類精神の名誉のため の研究ではなく、専門外の人にとっての数学である。
まず、数学の役割であるが、それはギリシャ時代以来、数学の学習を通しての論理的な思考の訓練と、科学を記述する言語としての数学教育が重要視され、実際、各種入試などでは 数学の学力は重視されてきている。- これらの要請は、計算機や人工知能が 発達しても当分 本質は変わらないと言えるだろう。しかし、これらの状況に従って、カリキュラムの在り様や、教育の精神は絶えず変更が必要であろう。
上記に述べられている内容については、素材は相当に固まっていて、教育内容は安定していると見られるのではないだろうか。
そこで、日進月歩の数学研究内容の高度化と深さは、他の分野に比べて、数学の抽象性もあって、理解が困難で、専門家の間でさえ交流できない状況は普遍的見られる。一般人にとっては、大抵は始めから話題にもできず、内容の理解の最初の1歩さえ、踏み込めないであろう。すなわち多くの研究成果は、社会的にも一般の人にも何にもならない内容であると考えられる。しかし、物理的な問題、医学的な問題など具体的な問題解決の観点から等 具体的な研究の位置づけのある研究は 何も一般人に理解できなくても 当然そのような研究は十分に意義があることは誰にでも分かるだろう。しかしながら、数学内部から湧いた純粋な数学の内容は高級で、抽象的で、理解もできず、興味、関心を呼び起こすことは相当に難しいのではないだろうか。そのような課題は、数学界以外では ほとんど意味がないと言われかねない。これが現代数学における純粋数学の姿ではないだろうか。
もちろん、人類の名誉のための 自由な研究は それ自体 誠に 尊いものである。しかしながら、数学界が社会でより安定的な存在になるためには、高等数学より、基礎的な数学を重視し、数学の興味や好奇心を駆り立てる教育的な視点を強めていくのが 良いのではないだろうか。教育より研究であるという発想は、高等研究機関や大学などでは当然、としても 広範な大学や学校では勧められない発想ではないだろうか。 評価、評価の世相が 研究や形式的な研究業績などに拘りすぎている世相が無いかと気になる。数学の教育や数学の社会的な存在性に配慮していきたい。― 何のための数学かとは 絶えず問うていきたい。
数学の研究ではなく、数学を楽しんでいるような先生は、教授は世に必要であり、良い先生であり、良い教育者ではないだろうか。世情、研究者自身本意ではない つまらない抽象的な研究に走り過ぎてはいないであろうか。楽しむような数学を世に広めたい。― もちろん、これは一面の観点である。
以 上
再生核研究所声明 391(2017.11.1): いろいろな数学者、数学者の心
数学者とはどんな人たちだろうか。回想しながら、感じを表現してみたい。まず、一般に思い浮かぶのは いわゆる世情の表現で、優秀で数学の感覚が発達していて、特にいわゆる数学の理解が早く、問題解きが 得意であるなどではないだろうか。学校でそのような優秀性が現れて、どんどん数学が好きになり、数学の研究者にまでになり、その優秀性を世界的にも示したいと考える数学者は 相当いるのではないだろうか。典型的な発想として、世の難問に挑戦して解決、自己承認を求めた偉大な数学者は多いと言える。始めから優秀ゆえその才能を活かして、数学者の道をひたすらに歩んでいる。その心は意外に純粋、単純で、天才ニュートンとライプニッツの微積分の先取性を生涯争った事実、ニュートンの株投資の失敗、ガロアの決闘、数学の王ガウスの非ユークリッド幾何学の発見者 若きボヤイに対するいわば冷たい対応など結構 想い出される。優秀さゆえに弟子たちに対する冷たい対応なども見られる。結構競争意識が強く、それが碁や将棋の趣味にも通じてもいる原因とみられる。
ところで、どうしても数学を志したい気持ちの本質は 何だろうか。上記才能の他、数理論が好きである、意外に社会、人間関係が好きではない、自分の世界を大事にしたいが あるのではないだろうか。また、数学の絶対性、永遠性に対するあこがれは ギリシャ以来の伝統として有るのではないだろうか。この辺は、そうは才能が無くても、数学好き、数学を趣味として研究している者の精神にあるのでは ないだろうか。
市井の数学愛好者、多田健夫氏について書いてきた
フォームの始まり
フォームの終わり
https://blogs.yahoo.co.jp/kbdmm360/66172415.html
が、別にやることが無くて、別に報いを求めることもなく、数学に集中して人生を終えた者がいる。その心を推察すると、いろいろ考えることが好き、社会生活、人間関係はそうは好きでなく、特別な趣味ややりたいことがない、そして大事なことは 人生に何か記念碑を残したい、できれば、 世の承認 ― あれこれをやったということを認められ、残したいということではないだろうか。このような心は 相当な数学者の基本的な心と言えるのではないだろうか。良い定理を発見して残したい、良い論文を書きたい、著書を出版したい等。
数学者、数学の研究といえば、抽象的で専門化が進み、細分化、深く成りすぎて、お互いに理解が困難に陥ってしまい、孤独で、閉じこもりがちになっているのが憂慮される。しっかりとした動機や目標もなく、ただ先人の理論の先を調べ、調査しているような研究が純粋数学のほとんどであると言えるのではないだろうか。ただ盲目的な研究である。現代のように世知辛い評価時代、あるいは競争の激しい時代になると、しっかりとした方向性、創造性に基づいた研究よりも評価され易い、確立した数理論の先を改善した方が手っ取り早いと、改善型の研究がはびこりかねない。
少し、時間が経てば、当時の流行で見るべきものは無かったと、雑情報、雑論文の溢れていた時代と評価されるだろう。
その様な時、数学者の存在は社会からは、変な社会の人たちに見られてしまうのではないだろうか。
数学者については 下記は素直に全貌が表されている:
再生核研究所声明285(2016.02.10) 数学者の性格、素性について
また、数学の細分化などについては次を参照:
再生核研究所声明 128(2013.8.27): 数学の危機、末期数学について
以 上
再生核研究所声明 390(2017.10.31): 人間は 何をしているのだろう。
高い山の頂きから人里を見ながら、ふと思う。人間は一体何をしているのだろうかと。人間はもちろん、生物であり、動物であるから、生命の本質である本能原理に動かされていることは歴然である。動物が争い、食し、朽ち果てていくのを見ると 同じ生物としての哀しい定めに共感、共鳴を覚える。人間が何をしているのかと思えば、多くはそれら本能原理に占められていることを実感する。まず、生きること、家族、家庭を大事にして仲間と助け会う、少しばかりは安定し、それぞれの社会で良い関係 立場に立ちたい、それらは分かり易いが 多くの人間の共通する部分で、それらのための努力が人生の大部分である。政治家が 生活が大事だというとき、それらは、居、食、住、民政を整え、安心して暮らせるような社会を目指していると言えよう。問題はそれらで人生の大部分に成っている現実である。それらの基礎において人間は相当に同じようではないだろうか。
このような生物的な基本が満たされたら、人間は一体何をなすだろうか。人間はその先、何をなすように作られているのだろうか。退職などして、大きな自由を得たとき、人間は何をするだろうか。もちろん、喜びや感動をしたい、良い気持ちに成りたいのである。人間進化の先、人間は一体何を求めるように作られているのだろうか。人間いったい何をなすべきか。
人生とは一体何だろうか。人間は一体何を目指しているのだろうか。社会も人も、生きよ、生きよと言って、生きることをひたすらに求めている。しかしながら、生きるということの意味は それではそれは何だろうか。ただ生物が生きるように 少しでも永く生きていれば良いのであろうか。- もちろん、生きて存在しなければ始まらない、それは生命の基本定理である。その先の意味を求めている。物心つく前の天才少年の様は その観点から極めて興味深く、進化する人間の姿として考えられる(再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える。)
このような問題意識を抱くこと、それ自体が人生についての ある迷いの表れである と言える。そこで、人生の原理を確認したい。われ思う故に我あり、生きて存在しなければ始まらない。人生の意義は 感動することにある。人間の生きる究極の在り様は 真智への愛 - 神の意志を求めること にある。
人は、好きなことを求めて行くということである。志が有ったり、好きなことがきちんとあって個人的にも社会的にも調和していれば それは幸せな人生と言えるのではないだろうか。
人生について語れば、曖昧にならざるを得ない。人の心は 内と外の環境で揺れ動くものである。
同じような心境で書いた次も参照:
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
以 上
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html
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