2017年9月18日月曜日

「ゼロ」が記されたインドの古数学書、世界最古の3~4世紀のものと判明

「ゼロ」が記されたインドの古数学書、世界最古の3~4世紀のものと判明

数字の「0(ゼロ)」を示す文字が記されたインドの古い数学書「バクシャーリー(Bakhshali)写本」が、3~4世紀のものであり、ゼロの用例としては世界最古のものであることを、英国・オックスフォード大学の研究チームが突き止めた。
 ゼロを発明したのは古代のインド人である、というのはよく知られた話である。ゼロを表現するための記号がそれ以前に全くなかったわけではなく、バビロニアやマヤといった古代文明でもゼロを表現する記号は存在してはいたが、観念としてのゼロを数学的に定義し、「数」として扱うようになったのは、インドにおいてのことであった、と言われている。
 それはいつ頃のことであったのか。従来は、数学者ブラーマグプタが628年に記した数学書、『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』が、ゼロの概念について記した現存最古の書物として知られていた。そこから遡り、はっきりしたことは分からないが5世紀頃にゼロの概念は成立したのではないか、と考えられていた。今回の発見により、その年代推定は、若干遡ることになりそうだ。
 バクシャーリー写本は、1881年、現在のパキスタンにあたるバクシャーリー村で発掘された、カバノキの樹皮に記された巻物である。1902年より、オックスフォード大学の所蔵するところとなり、ボドリアン図書館で保管されている。
 バクシャーリー写本がいつ頃作られたのかはよく分かっていなかったが、ボドリアン図書館の研究チームによる放射性炭素年代年代測定によって、3~4世紀のものであることが確認された。
 なお、現存するバクシャーリー写本は樹皮70枚ほどからなっており、分数、平方根、損益勘定、利息、三数法などといった比較的実用的な数学を中心的に扱った数学書であるが、著者が何者であったのかは判明していない。(藤沢文太)http://www.zaikei.co.jp/article/20170918/399761.html

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか

ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:

Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
数 0 は正でも負でもなく、素数でも合成数でも単数でもない。しかし、0は偶数である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0x= 0 である。しかしx0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。

実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:

しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。

複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。

全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。

古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。

2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明 382 (2017.9.11)  ニュートンを越える天才たちに-育成する立場の人に

次のような文書を残した: いま思いついたこと:ニュートンは偉く、ガウス、オイラーなども 遥かに及ばないと 何かに書いてあると言うのです。それで、考え、思いついた。 ガウス、オイラーの業績は とても想像も出来なく、如何に基本的で、深く、いろいろな結果がどうして得られたのか、思いもよらない。まさに天才である。数学界にはそのような天才が、結構多いと言える。しかるに、ニュートンの業績は 万有引力の法則、運動の法則、微積分学さえ、理解は常人でも出来き、多くの数学上の結果もそうである。しかるにその偉大さは 比べることも出来ない程であると表現されると言う。それは、どうしてであろうか。確かに世界への甚大な影響として 納得できる面がある。- 初めて スタンフォード大学を訪れた時、確かにニュートンの肖像画が 別格高く掲げられていたことが、鮮明に想い出されてくる。- 今でもそうであろうか?(2017.9.8.10:42)。

万物の運動を支配する法則、力、エネルギーの原理、長さ、面積、体積を捉え、傾き、勾配等の概念を捉えたのであるから、森羅万象のある基礎部分をとらえたものとして、世界史における影響が甚大であると考えれば その業績の大きさに驚かされる。

世界史における甚大な影響として、科学上ではないが、それらを越える、宗教家の大きな存在に まず、注意を喚起して置きたい。数学者、天文学者では ゼロを数として明確に導入し、負の数も考え、算術の法則(四則演算)を確立し、ゼロ除算0/0=0を宣言したBrahmagupta (598 -668 ?) の 偉大な影響 にも特に注意したい。

そのように偉大なるニュートンを発想すれば、それを越える偉大なる歴史上の存在の可能性を考えたくなるのは人情であろう。そこで、天才たちやそれを育成したいと考える人たちに 如何に考えるべきかを述べて置きたい。

万人にとって近い存在で、甚大な貢献をするであろう、科学的な分野への志向である。鍵は 生命情報ではないだろうか。偉大なる発見、貢献であるから具体的に言及できるはずがない。しかしながら、科学が未だ十分に達しておらず、しかも万人に甚大な影響を与える科学の未知の分野として、生命と情報分野における飛躍的な発見は ニュートンを越える発見に繋がるのではないだろうか。
生物とは何者か、どのように作られ、どのように活動しているか、本能と環境への対応の原理を支配する科学的な体系、説明である。生命の誕生と終末の後、人間精神の在り様と物理的な世界の関係、殆ど未知の雄大な分野である。
情報とは何か、情報と人間の関係、影響、発展する人工知能の方向性とそれらを統一する原理と理論。情報と物の関係。情報が物を動かしている実例が存在する。
それらの分野における画期的な成果は ニュートンを越える世界史上の発見として出現するのではないだろうか。
これらの難解な課題においてニュ-トンの場合の様に常人でも理解できるような簡明な法則が発見されるのではないだろうか。 
人類未だ猿や動物にも劣る存在であるとして、世界史を恥ずかしい歴史として、未来人は考え、評価するだろう。世の天才たちの志向について、またそのような偉大なる人材を育成する立場の方々の注意を喚起させたい。偉大なる楽しい夢である。
それにはまずは、世界史を視野に、人間とは何者かと問い、神の意思を捉えようとする真智への愛を大事に育てて行こうではないか。

以 上

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html

再生核研究所声明 375 (2017.7.21):ブラックホール、ゼロ除算、宇宙論

本年はブラックホール命名50周年とされていたが、最近、wikipedia で下記のように修正されていた:
名称[編集]
"black hole"という呼び名が定着するまでは、崩壊した星を意味する"collapsar"[1](コラプサー)などと呼ばれていた。光すら脱け出せない縮退星に対して "black hole" という言葉が用いられた最も古い印刷物は、ジャーナリストのアン・ユーイング (Ann Ewing) が1964年1月18日の Science News-Letter の "'Black holes' in space" と題するアメリカ科学振興協会の会合を紹介する記事の中で用いたものである[2][3][4]。一般には、アメリカ物理学者ジョン・ホイーラーが1967年に "black hole" という名称を初めて用いたとされるが[5]、実際にはその年にニューヨークで行われた会議中で聴衆の一人が洩らした言葉をホイーラーが採用して広めたものであり[3]、またホイーラー自身は "black hole" という言葉の考案者であると主張したことはない[3]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB

世界は広いから、情報が混乱することは よく起きる状況がある。ブラックホールの概念と密接な関係のあるゼロ除算の発見(2014.2.2)については、歴史的な混乱が生じないようにと 詳しい経緯、解説、論文、公表過程など記録するように配慮してきた。
ゼロ除算は簡単で自明であると初期から述べてきたが、問題はそこから生じるゼロ除算算法とその応用であると述べている。しかし、その第1歩で議論は様々でゼロ除算自身についていろいろな説が存在して、ゼロ除算は現在も全体的に混乱していると言える。インターネットなどで参照出来る膨大な情報は、我々の観点では不適当なものばかりであると言える。もちろん学術界ではゼロ除算発見後3年を経過しているものの、古い固定観念に囚われていて、新しい発見は未だ認知されているとは言えない。最近国際会議でも現代数学を破壊するので、認められない等の意見が表明された(再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告)。そこで、初等数学から、500件を超えるゼロ除算の証拠、効用の事実を示して、ゼロ除算は確定していること、ゼロ除算算法の重要性を主張し、基本的な世界を示している。
ゼロ除算について、膨大な歴史、文献は、ゼロ除算が神秘的なこととして、扱われ、それはアインシュタインの言葉に象徴される:

Here, we recall Albert Einstein's words on mathematics:
Blackholes are where God divided by zero.
I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).

ところが結果は、実に簡明であった:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

しかしながら、ゼロ及びゼロ除算は、結果自体は 驚く程単純であったが、神秘的な新たな世界を覗かせ、ゼロ及びゼロ除算は一層神秘的な対象であることが顕になってきた。ゼロのいろいろな意味も分かってきた。 無限遠点における強力な飛び、ワープ現象とゼロと無限の不思議な関係である。アリストテレス、ユークリッド以来の 空間の認識を変える事件をもたらしている。 ゼロ除算の結果は、数理論ばかりではなく、世界観の変更を要求している。 端的に表現してみよう。 これは宇宙の生成、消滅の様、人生の様をも表しているようである。 点が球としてどんどん大きくなり、球面は限りなく大きくなって行く。 どこまで大きくなっていくかは、 分からない。しかしながら、ゼロ除算はあるところで突然半径はゼロになり、最初の点に帰するというのである。 ゼロから始まってゼロに帰する。 ―― それは人生の様のようではないだろうか。物心なしに始まった人生、経験や知識はどんどん広がって行くが、突然、死によって元に戻る。 人生とはそのようなものではないだろうか。 はじめも終わりも、 途中も分からない。 多くの世の現象はそのようで、 何かが始まり、 どんどん進み、そして、戻る。 例えばソロバンでは、願いましては で計算を始め、最後はご破産で願いましては、で終了する。 我々の宇宙も淀みに浮かぶ泡沫のようなもので、できては壊れ、できては壊れる現象を繰り返しているのではないだろうか。泡沫の上の小さな存在の人間は結局、何も分からず、われ思うゆえにわれあり と自己の存在を確かめる程の能力しか無い存在であると言える。 始めと終わり、過程も ようとして分からない。

ブラックホールとゼロ除算、ゼロ除算の発見とその後の数学の発展を眺めていて、そのような宇宙観、人生観がひとりでに湧いてきて、奇妙に納得のいく気持ちになっている。

以 上

0 件のコメント:

コメントを投稿