七角形の謎。または一周はなぜ360度なのか
中学生の時の話です。
小学生までは三角定規とコンパスで正三角形や正方形、六角形を書く方法などを学びます。
小学生までは三角定規とコンパスで正三角形や正方形、六角形を書く方法などを学びます。
中学生になると、こんどは分度器を使って正n角形を書くことを学びました。このとき書けるのは、正三角形、正四角形(正方形)、正五角形、正六角形、正八角形です。
このとき、酒井先生という数学の先生が、「正六角形以上の好きなカタチを書いておいで」という宿題を出しました。酒井先生はこうも付け加えました。「ただし、コンピュータを使う場合は20角形以上」
思えば、これが筆者がコンピュータで宿題をする最初のきっかけとなった宿題でした。
学校の勉強にコンピュータが使える、という驚きと喜びは、筆者を興奮させるには十分でした。
早速家に帰り、学校で習ったことをプログラミングにしました。
一周を360度として、3角形なら内角は120度ずつ、四角形なら90度ずつ、五角形なら72度ずつ、六角形なら60度ずつ・・・ここでふと疑問が湧き上がります。
一周を360度として、3角形なら内角は120度ずつ、四角形なら90度ずつ、五角形なら72度ずつ、六角形なら60度ずつ・・・ここでふと疑問が湧き上がります。
「はて、七角形というのを学校で習わないのはどうしてだろう?」
答えは必然的なものでした。
360を7で割ると、51.428571428571429…と続く無限小数になってしまうのです。すなわち、中学生で習う通常の知識と手段・・・この場合は分度器とコンパスですが・・・では、七角形は表現することができないのです。
360を7で割ると、51.428571428571429…と続く無限小数になってしまうのです。すなわち、中学生で習う通常の知識と手段・・・この場合は分度器とコンパスですが・・・では、七角形は表現することができないのです。
10までの数字で360を割り切れないのは、7だけ。20までだと、11,13,14,17,19も加わります。簡単なはずの問題が、あっという間に難題になるのです。
ところがプログラムで書くと、内角が無理数だろうがお構いなく七角形が出現します。11角形だろうが13角形だろうが100角形だろうが余裕です。
そこで筆者は感じたのです。「数学ってコンピュータと違わない?」と。
プログラミングを学ぶには数学が必要であるという誤解が広まっているように感じます。もしくは、プログラミングを覚えることで数学的能力が高まるという誤解もあります。
しかし数学とコンピュータは基本的には関係のないものです。
みなさんがワープロを使い、Webを閲覧するのと数学が関係ないのと同じくらい、プログラミングと数学もまた関係ありません。
みなさんがワープロを使い、Webを閲覧するのと数学が関係ないのと同じくらい、プログラミングと数学もまた関係ありません。
そしてExcelで数学用語が出てくる程度の関係性はプログラミングと数学の間にもあります。
数学では、正確な七角形を書くことは不可能だと教えます。
でもそれは現実的には詭弁です。
でもそれは現実的には詭弁です。
なぜなら、もし「正確な正七角形を書くことが出来ない」という命題が正しいとすれば、それは正三角形にも正方形にも言えることだからです。
鉛筆を使って定規で線を引いた時、その線は鉛筆の分子のぶんの「幅」があるはずですし、数学が想定するような「太さのない直線」というものはそもそも書くことが出来ません。あくまでも、「正三角形と思しきもの」を書いて、数学的な捉え方でいえば近似して、それが「正三角形のカタチである」と思い込むことで成立しているにすぎません。
だとすると、定規と分度器ではなく、コンピュータとプログラミング言語という道具を使って描かれた正三角形や正七角形についても認めなければなりません。無理数を使っていたとしても、画面の中に現れた正七角形はかなりリアルな正七角形のカタチを示しているはずです。
相手が誰だったか忘れてしまいましたが、中学時代、女子に「おれは正七角形を書けるよ」とうそぶいたことがあります。その女子の反応は素直に「えー凄い。見せて見せて」というようなものだったので、僕は印刷した正七角形を見せたことがあります。
パッと見てしまえばどうということのないカタチ、六角形と八角形の間にあるどうでもいいカタチに過ぎませんが、自分自身、なにか得体の知れないものを見てしまった、という驚きがあったことを思い出します。
そもそもこの話は不気味かつ不可解です。
実際にコンピュータで正七角形にかぎらず、正n角形を表示しようと思ったら、まず三角関数を使わなければなりません。三角関数への角度の入力はラジアン角です。つまり一周が360度ではなく、2πとして考える角度で、ここでいきなりπという無理数が出てきてしまいます。
実際にコンピュータで正七角形にかぎらず、正n角形を表示しようと思ったら、まず三角関数を使わなければなりません。三角関数への角度の入力はラジアン角です。つまり一周が360度ではなく、2πとして考える角度で、ここでいきなりπという無理数が出てきてしまいます。
三角形だろうが正方形だろうが、このπという無理数と付き合わないとそもそも三角関数自体を扱うことが出来ないというのがどうにも奇妙な気がするのですが、現実問題としてそれ以外の手段は関数テーブルを書くくらいしかないので仕方ありません。
120度はラジアン角では2.0943951023931953...です。気持ち悪い!さらに、sin(120度)は、0.8660254037844388...であり、cos(120度)は-0.499999999999999....です。ギャア!!!ここまでくるとほとんど恐怖を感じるレベルです。
こんなに微妙な数字でも、画面に表示されると異常なほどの説得力があります。
どこからどうみても正三角形です。
これが正三角形に見えない人はいないと思いますが、この正三角形は今まさに上で示したような奇妙な計算の上で表示されているものです。
つまり、分度器と定規の世界では極めて合理的に思える内角を使った正n角形も、コンピュータに掛かると無理数のオンパレードで、とても数学的な美しさを持っているとは言い難いが、出来上がった結果だけとを見るとなかなか美しい、というのが真相なのです。まともな数学者なら、これが数学的美しさを備えた図形だと主張したら怒り出すでしょう。それは数学的幾何学的美しさの対極にあるものだからです。なにせプログラミングした僕自身が気持ち悪いと思っているものなのですから。
しかし皮肉なことに、今皆さんが見ているほとんど全ての図形は、このような異常かついい加減な計算の末に作られています。なにせ一般的なコンピュータがサポートしているのは、数学的精密さを持った数式の処理ではなく、浮動小数点数という、数学的に見ればデタラメな道具しかないからです。
数学で最も美しいのは整数かもしれませんが、整数の表現ですらコンピュータは苦手です。今のコンピュータの主流は64ビットですが、64ビットで表現できる整数は0〜184,46,744,073,709,551,616というかなり中途半端なものです。負数までサポートしようとすると、-9,223,372,036,854,775,808〜9,223,372,036,854,775,808までです。
そう考えると、なぜ一般的に360度が一周であると考えるようになったのかという数学に潜む裏側の事情が垣間見れます。要は10以下の数で割り切れる可能性が高い数の中では手頃で使いやすかったからではないでしょうか。ちなみに2,3,5,7,9の最小公倍数は630で、一周を630度とする分度器があれば七角形を書くことは可能です。ただ、一周が360度の分度器でさえ読み取るのが難しいのに、その倍近い目盛りが必要となると、分度器自体が大きくなる可能性があります。ちなみに一周が630度だと、13角形と14角形を書くことが出来るようになります。
しかし致命的な欠点は、630を4で割るときです。
630を4で割ると157.5となり、割り切れなくはないですが360度を4で割ると90度になることに比べると明らかに不便です。ちなみに3,4,5,7,9の最小公倍数は1260であり、1/4にすると315です。やはり90度に比べると計算上不便です。
630を4で割ると157.5となり、割り切れなくはないですが360度を4で割ると90度になることに比べると明らかに不便です。ちなみに3,4,5,7,9の最小公倍数は1260であり、1/4にすると315です。やはり90度に比べると計算上不便です。
だとしたら、10までの数のうち、7角形だけを諦めればいろいろと都合が良くなる一周=360度が一番良い、という思想なのでしょう。
これまでの議論でわかったとおり、数学上のルールというのは基本的に人間が決めています。
なぜ分度器と定規で七角形や11角形が描けないのか、これでわかりました。要はみんなが便利だと決めたルールから逸脱しているからです。
なぜ分度器と定規で七角形や11角形が描けないのか、これでわかりました。要はみんなが便利だと決めたルールから逸脱しているからです。
同じ理由で、三角関数の引数がラジアン角であることもわかります。近代のコンピュータでは、三角関数をテイラー展開で求めます。このテイラー展開の前提が、三角関数に渡される角度はラジアン角であるという前提があるからです。
なぜラジアン角なのかといえば、テイラー展開による三角関数を求めるためには、オイラーの公式が前提としてあるからです。
このオイラーの公式で、θ=πのときに-1になることが示されています。これをオイラーの等式といいます。三角関数のテイラー展開はこの等式から導かれます。
これを複素平面上の円が半周している時に成立していると考えることにしています。そのため、半周をπとする(つまり一周を2πとする)ラジアン角が必要になるというわけです。一見、理不尽で気持ちが悪くても、調べればなんらかの理由はあるわけです。
僕はたまたま、七角形がなぜ分度器で描けないのか、という興味から、数学の成り立ちについて学ぶきっかけになりましたが、数学の先生に「どうして七角形をコンピュータが描くのは簡単なのに、分度器では描けないんだ」と聞いてもちゃんと答えてもらえなかったことを覚えています。
まあ子供にテイラー展開について説明するのが面倒だったのでしょう。もしくは深く考えていなかったか。どちらかです。
数学は人工言語の一種なので、いろんなところに人間が決めた都合が見え隠れします。「なぜなのか」考えるのは頭の体操としては面白いのですが、コンピュータは現実の問題を解くための道具に過ぎません。
コンピュータでは、数学の高度な概念はどんどん隠蔽されていきます。むしろ隠蔽するためにソフトウェア工学が発達したのではないかと思えるフシもあります。
誰もわざわざややこしいことに頭を使いたくないのです。
プログラミングと数学は根本的に違うものですが、だからこそお互いがお互いを補完しあって面白いのではないか、と僕は思います。https://wirelesswire.jp/2017/09/61430/
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明343(2017.1.10)オイラーとアインシュタイン
世界史に大きな影響を与えた人物と業績について
再生核研究所声明314(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ニュートンとダーウィンについて
再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
再生核研究所声明339(2016.12.26)インドの偉大な文化遺産、ゼロ及び算術の発見と仏教
で 触れてきたが、興味深いとして 続けて欲しいとの希望が寄せられた。そこで、ここでは、数学界と物理学界の巨人 オイラーとアインシュタインについて触れたい。
オイラーが膨大な基本的な業績を残され、まるでモーツァルトのように 次から次へと数学を発展させたのは驚嘆すべきことであるが、ここでは典型的で、顕著な結果であるいわゆるオイラーの公式 e^{\pi i} = -1 を挙げたい。これについては相当深く纏められた記録があるので参照して欲しい(
)。この公式は最も基本的な数、-1,\pi, e,i の簡潔な関係を確立しており、複素解析や数学そのものの骨格の中枢の関係を与えているので、世界史への甚大なる影響は歴然である ― オイラーの公式 (e ^{ix} = cos x + isin x) を一般化として紹介できます。 そのとき、数と角の大きさの単位の関係で、神は角度を数で測っていることに気付く。左辺の x は数で、右辺の x は角度を表している。それらが矛盾なく意味を持つためには角は、角の 単位は数の単位でなければならない。これは角の単位を 60 進法や 10 進法などと勝手に決められないことを述べている。ラジアンなどの用語は不要であることが分かる。これが神様方式による角の単位です。角の単位が数ですから、そして、数とは複素数ですから、複素数 の三角関数が考えられます。cos i も明確な意味を持ちます。このとき、たとえば、純虚数の 角の余弦関数が電線をぶらりとたらした時に描かれる、けんすい線として、実際に物理的に 意味のある美しい関数を表現します。そこで、複素関数として意味のある雄大な複素解析学 の世界が広がることになる。そしてそれらは、数学そのものの基本的な世界を構成すること になる。自然の背後には、神の設計図と神の意思が隠されていますから、神様の気持ちを理解し、 また神に近付くためにも、数学の研究は避けられないとなると思います。数学は神学そのものであると私は考える。オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる。― 特にオイラーの公式は、言わば神秘的な数、虚数i、―1, e、\pi などの明確な意味を与えた意義は 凄いこととであると驚嘆させられる。
次に アインシュタインであるが、いわゆる相対性理論として、物理学界の最高峰に存在するが、アインシュタインの公式 E=mc^2 は素人でもびっくりする 簡潔で深い結果である。何と物質はエネルギーと等式で結ばれるという。このような公式の発見は人類の名誉に関わる基本的な結果と考えられる。アインシュタインが、時間、空間、物質、エネルギー、光速の基本的な関係を確立し、現代物理学の基礎を確立している。
ところで、上記巨人に共通する面白い話題が存在する。 オイラーがゼロ除算を記録に残し 1/0=\infty と記録し、広く間違いとして指摘されている。 他方、 アインシュタインは次のように述べている:
Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (
Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).
今でも、この先を、特に特殊相対性理論との関係で 0/0=1 であると頑強に主張したり、想像上の数と考えたり、ゼロ除算についていろいろな説が存在して、混乱が続いている。
しかしながら、ゼロ除算については、決定的な結果を得た と公表している。すなわち、分数、割り算は自然に一意に拡張されて、 1/0=0/0=z/0=0 である。無限遠点は 実はゼロで表される:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Announcement 326: The division by zero z/0=0/0=0 - its impact to human beings through education and research
以 上
再生核研究所声明347(2017.1.17) 真実を語って処刑された者
まず歴史的な事実を挙げたい。Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた(ウィキペディア)。辺の長さ1の正方形の対角線の長さが ル-ト2であることがピタゴラスの定理から導かれることを知っていたが、それが整数の比で表せないこと(無理数であること)を発見した弟子Hippasusを 無理数の世界観が受け入れられないとして、その事実を隠したばかりか、その事実を封じるために弟子を殺してしまったという。
また、ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる(ウィキペディア)。
さらに、新しい幾何学の発見で冷遇された歴史的な事件が想起される:
非ユークリッド幾何学の成立
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。
ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した(ウィキペディア)。
知っていて、科学的な真実は人間が否定できない事実として、刑を逃れるために妥協したガリレオ、世情を騒がせたくない、自分の心をそれ故に乱したくない として、非ユークリッド幾何学について 相当な研究を進めていたのに 生前中に公表をしなかった数学界の巨人 ガウスの処世を心に留めたい。
ピタゴラス派の対応、宗教裁判における処刑、それらは、真実よりも権威や囚われた考えに固執していたとして、誠に残念な在り様であると言える。非ユークリッド幾何学の出現に対する風潮についても2000年間の定説を覆す事件だったので、容易には理解されず、真摯に新しい考えの検討すらしなかったように見える。
真実を、真理を求めるべき、数学者、研究者、宗教家のこのような態度は相当根本的におかしいと言わざるを得ない。実際、人生の意義は帰するところ、真智への愛にあるのではないだろうか。本当のこと、世の中のことを知りたいという愛である。顕著な在り様が研究者や求道者、芸術家達ではないだろうか。そのような人たちの過ちを省みて自戒したい: 具体的には、
1) 新しい事実、現象、考え、それらは尊重されるべきこと。多様性の尊重。
2) 従来の考えや伝統に拘らない、いろいろな考え、見方があると柔軟に考える。
3) もちろん、自分たちの説に拘ったりして、新しい考え方を排除する態度は恥ずべきことである。どんどん新しい世界を拓いていくのが人生の基本的な在り様であると心得る。
4) もちろん、自分たちの流派や組織の利益を考えて新規な考えや理論を冷遇するのは真智を愛する人間の恥である。
5) 巨人、ニュートンとライプニッツの微積分の発見の先取争いに見られるような過度の競争意識や自己主張は、浅はかな人物に当たるとみなされる。真智への愛に帰するべきである。
数学や科学などは 明確に直接個々の人間にはよらず、事実として、人間を離れて存在している。従って無理数も非ユークリッド幾何学も、地球が動いている事も、人間に無関係で そうである事実は変わらない。その意味で、多数決や権威で結果を決めようとしてはならず、どれが真実であるかの観点が決定的に大事である。誰かではなく、真実はどうか、事実はどうかと真摯に、真理を追求していきたい。
人間が、人間として生きる究極のことは、真智への愛、真実を知りたい、世の中を知りたい、神の意思を知りたいということであると考える。 このような観点で、上記世界史の事件は、人類の恥として、このようなことを繰り返さないように自戒していきたい(再生核研究所声明 41(2010/06/10): 世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
以 上
再生核研究所声明296(2016.05.06) ゼロ除算の混乱
ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:
再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める
我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。
以 上
考えてはいけないことが、考えられるようになった。
説明できないことが説明できることになった。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdfDOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
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