比叡山延暦寺 「千日回峰行」達成 戦後14人目
比叡山延暦寺に伝わる荒行「千日回峰行」に7年間にわたって挑んできた僧侶が、9日間の断食などの難行を乗り越え、18日、すべての修行を成し遂げました。この行を達成したのは戦後14人目だということです。
比叡山延暦寺に伝わる「千日回峰行」は、およそ1000日をかけて、合わせて4万キロの山道などを駆け抜けたり、9日間、食事も水も絶って眠らずに祈とうを続けたりする荒行です。
大津市の住職、釜堀浩元さん(43)は7年前からこの荒行に挑み、18日、最終日となる1000日目を迎えました。釜堀さんは、18日未明から比叡山の山中を30キロ余り歩いたあと、信徒たちが見守る中、白装束にかさをかぶった姿でお堂の前で祈り、すべての荒行を成し遂げました。
これで、釜堀さんは徳が高い僧侶として「大行満大阿闍梨」となり、信徒の頭や肩を数珠を持った手で触れて徳を授ける「お加持」を行いました。
延暦寺によりますと、「千日回峰行」を成し遂げた僧侶は戦後14人目で、記録が残る安土・桃山時代のおよそ430年前から数えると51人目だということです。
釜堀さんは「支えてくれた人たちのおかげです。多くの人のためになる僧侶になれるよう日々、精進したい」と話していました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170918/k10011146041000.html?utm_int=all_side_ranking-access_003&nnw_opt=ranking-access_a
大津市の住職、釜堀浩元さん(43)は7年前からこの荒行に挑み、18日、最終日となる1000日目を迎えました。釜堀さんは、18日未明から比叡山の山中を30キロ余り歩いたあと、信徒たちが見守る中、白装束にかさをかぶった姿でお堂の前で祈り、すべての荒行を成し遂げました。
これで、釜堀さんは徳が高い僧侶として「大行満大阿闍梨」となり、信徒の頭や肩を数珠を持った手で触れて徳を授ける「お加持」を行いました。
延暦寺によりますと、「千日回峰行」を成し遂げた僧侶は戦後14人目で、記録が残る安土・桃山時代のおよそ430年前から数えると51人目だということです。
釜堀さんは「支えてくれた人たちのおかげです。多くの人のためになる僧侶になれるよう日々、精進したい」と話していました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170918/k10011146041000.html?utm_int=all_side_ranking-access_003&nnw_opt=ranking-access_a
凄い:
再生核研究所声明80(2012.03.20) 挑戦 とは 何か
(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。
以 上
再生核研究所声明 383 (2017.9.18): 人間の精神の高まりについての視点
題名の正確な意味の表現は難しい。そこで、具体的な例を挙げて意図していることをより明らかにしよう。
小学生時代を回想しよう。 低学年ではどんどん世界が広がっていくようで、知識も情報も世界も段々、どんどん広がりどんどん世界が見えるようになっていくと感じられるだろう。 それと同時に 過去の自分の様、様子が良く見える、分かる様に感じられるだろう。 このような現象は、登山でどんどん登って行くと視野が開けて、辿ってきた様、情景がすっかり見え全体の様子が分かるような経験にもみられる。このような事は旅行で ある小さな町を訪れ、滞在しているにつれて 町全体の様子が段々分かってきて、町全体をあるイメージで捉えられるようになるだろう。最初の段階で戸惑っていた自分を知ることが出来るだろう。これらの現象は様様の研究や学問、芸術、修業等についてもみられるといえる。― ある意味での進化である。 ここでは、そのような現象を、登山の例から 人間精神の高まりと表現した。正確な表現は心の問題であるから難しい。大きな特徴は段々今までの状況を含むような形で、知識や情報が拡大して、心も質的に変化して以前の状況をより広い視点から捉えられるように成長、進んでいることである。
人生とは何か、人間とは何かの基本的な 方向として、この意味における人間の精神の高まりがあると考えられる。逆に考えてみれば、知識や情報が拡大し、精神の高まりがなければ、必ず、停滞、退屈になり、そのような生活には飽きて、生き生きした人生にはならないのではないだろうか。人間、生物的な 本能的な欲求がある程度満たされれば、必ず、情報や知識を欲求し、やがて神の意思を知りたいという真智への愛に至るのではないだろうか。 この過程にみられる、人間の精神の高まり の様子、 状況に関心を持つ。
人間は真理を追究し、情報、知識の増大方向で進むが どんどん山頂を目指して進む時、 我々の精神全体はどのように変化していくであろうか、人間とはどのように成長していくであろうか。 数学界の天才、ニュートンとライプニッツは 生涯微積分学の発見の先駆者たるを主張して、裁判闘争を続けていたという、お粗末とも言える、事実が存在する。他方、精神の高まりを象徴する用語として、人物たる人物、人格者、覚者、賢人、悟りの境地、聖人などの理想を表す概念が存在する。― 人類自身、全体があたかも子供たちである様に見えてしまう進化した人間を想定すると慄然とするだろう。人生、世界、人類さえみえてしまう者の存在、思い当たる人として お釈迦様などが考えられよう。
ゼロ除算の発見で、人生とはゼロから始まり、何かが拡大を続け、やがて突然にゼロに帰すると表現した。この拡大は 正確には何を意味するであろうか。知識や情報、経験の増大は基本的であるが、覚性度なども気になる要素ではないだろうか。どんどん気づき、世界がどんどん見えてくる面である。
人生、精神的な高まりを通して成人を迎え、円熟期を迎えるが、人間の成長の理想的な境地とは何であろうか。知識を沢山集めてものしりになったり、どんどん発見や発明を続けていけば良いのだろうか。沢山良いものを発見したり、発明していけば良いのだろうか。
人間とは どのように作られているのかと 問う。― 人間存在の意義を求めている。
ある山頂に達して、人生、世界とは そのようなものであるとの見識に達した時、その心情のいろいろな在り様と いろいろな差は どのように解釈されるべきであろうか?
良き、人間とは、人生とはどのようなものであろうか?
― しかしながら、人生における基本定理、 人生の意義は感動することにある はそのような思考の基本になるのではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明 382 (2017.9.11): ニュートンを越える天才たちに-育成する立場の人に
次のような文書を残した: いま思いついたこと:ニュートンは偉く、ガウス、オイラーなども 遥かに及ばないと 何かに書いてあると言うのです。それで、考え、思いついた。 ガウス、オイラーの業績は とても想像も出来なく、如何に基本的で、深く、いろいろな結果がどうして得られたのか、思いもよらない。まさに天才である。数学界にはそのような天才が、結構多いと言える。しかるに、ニュートンの業績は 万有引力の法則、運動の法則、微積分学さえ、理解は常人でも出来き、多くの数学上の結果もそうである。しかるにその偉大さは 比べることも出来ない程であると表現されると言う。それは、どうしてであろうか。確かに世界への甚大な影響として 納得できる面がある。- 初めて スタンフォード大学を訪れた時、確かにニュートンの肖像画が 別格高く掲げられていたことが、鮮明に想い出されてくる。- 今でもそうであろうか?(2017.9.8.10:42)。
万物の運動を支配する法則、力、エネルギーの原理、長さ、面積、体積を捉え、傾き、勾配等の概念を捉えたのであるから、森羅万象のある基礎部分をとらえたものとして、世界史における影響が甚大であると考えれば その業績の大きさに驚かされる。
世界史における甚大な影響として、科学上ではないが、それらを越える、宗教家の大きな存在に まず、注意を喚起して置きたい。数学者、天文学者では ゼロを数として明確に導入し、負の数も考え、算術の法則(四則演算)を確立し、ゼロ除算0/0=0を宣言したBrahmagupta (598 -668 ?) の 偉大な影響 にも特に注意したい。
そのように偉大なるニュートンを発想すれば、それを越える偉大なる歴史上の存在の可能性を考えたくなるのは人情であろう。そこで、天才たちやそれを育成したいと考える人たちに 如何に考えるべきかを述べて置きたい。
万人にとって近い存在で、甚大な貢献をするであろう、科学的な分野への志向である。鍵は 生命と情報ではないだろうか。偉大なる発見、貢献であるから具体的に言及できるはずがない。しかしながら、科学が未だ十分に達しておらず、しかも万人に甚大な影響を与える科学の未知の分野として、生命と情報分野における飛躍的な発見は ニュートンを越える発見に繋がるのではないだろうか。
生物とは何者か、どのように作られ、どのように活動しているか、本能と環境への対応の原理を支配する科学的な体系、説明である。生命の誕生と終末の後、人間精神の在り様と物理的な世界の関係、殆ど未知の雄大な分野である。
情報とは何か、情報と人間の関係、影響、発展する人工知能の方向性とそれらを統一する原理と理論。情報と物の関係。情報が物を動かしている実例が存在する。
それらの分野における画期的な成果は ニュートンを越える世界史上の発見として出現するのではないだろうか。
これらの難解な課題においてニュ-トンの場合の様に常人でも理解できるような簡明な法則が発見されるのではないだろうか。
人類未だ猿や動物にも劣る存在であるとして、世界史を恥ずかしい歴史として、未来人は考え、評価するだろう。世の天才たちの志向について、またそのような偉大なる人材を育成する立場の方々の注意を喚起させたい。偉大なる楽しい夢である。
それにはまずは、世界史を視野に、人間とは何者かと問い、神の意思を捉えようとする真智への愛を大事に育てて行こうではないか。
以 上
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html
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